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彼女はボクの目をじっと見つめ、その話を聞いていた

『ねえ、”わたかべ”って漢字でどう書くの?』

 少女は覚え始めたばかりの漢字でボクの苗字をどう書くか知りたがった。

『どう書くの?』

 隣でまだ話し言葉も覚束ない()が少女の真似をする。

『うんとねえ、難しいよ…… こんな字』

『うわぁ〜、すごい字! 見たことない!』

『見たことない!』

 少女が何か言うと、必ず妹のおまけがついてくる。


『岸壁のぺきもこの字だよ』

 少し自慢げに書いてみせた。自分の苗字にまつわる漢字二文字だから、少しくらい知ってて不思議はないが、小学二年生にはそんなことも十分自慢のネタになる。

『ぺきなんだ、へ〜、ぺきなんだ!』

『ぺきなんだ!』

『ぺきだって!』

『ぺきだって!』

『ペキちゃんだって』

『ん? ペコちゃん?』

 妹がボケる。

『違うよ、ペキちゃんだよ!』

『ペキちゃんだよ!』

 その瞬間から、ボクは少女にとってペキちゃんになった。そんな呼び方、それまで誰もしたことはないけれど、「わたかべ」よりはよほどいい。妹がペコちゃんと間違えたこともいい方向に影響したかもしれない……


……


 リビングのロッキングチェアに揺られながら目を閉じていると、掃き出し窓のあたりで画用紙の裏に文字を書く三人の姿が蘇った。


「奈々が最初からペキちゃんって呼ぶから、変な感じはしてたんだけど」

「普通、それで気づかない? 少なくとも怪しいぞ? 誰だ? くらいに感じるとかさ」

「言われてみればね。だけど、時々いるでしょ? 人の名前を勝手に音読みしたりする人、そういう人かなって思ったから」

 確かに迂闊な話だ。ボクは彼女の舞に魅せられて、そういうひとつひとつの常識を欠落させていたのかもしれない。


「でも、ボクのこと、なんでわかったの?」

「おばあちゃんから聞いてたから」

「へぇ〜…… ボクはおばあちゃんにも会ってるんだね。当たり前か……」

 ボクはバツが悪かった。彼女やその祖母の記憶の中にボクは存在してるのに、ボクの記憶の中からはふたりがキレイさっぱりいなくなっていることをとても申し訳なく思ったのだ。


「奈々ゴメンよ。ボクはついさっきまで溺れかけたのは妹とばかり思ってたんだ。そして、ボクは妹を自分で助け出したと思い込んでたみたい。どうかしてるね」

「仕方ないよ。小さな頃の記憶が曖昧になるのは」

 彼女は少し寂しそうな顔をしたが、すぐに気を取り直したように見えた。


 部屋の中からは初めてここに入った時に感じたお香の匂いが変わらず漂っていた。古い記憶は古い感覚も連れ戻すのだろうか?


「でも良かった。ボクね、正直に言うと、ナナちゃんが流された時、冷たい水に飛び込めなくてさ、白い帽子が凄い勢いで流されるのを、怖くてただ眺めてた気がする。でも、大丈夫、ナナちゃんならきっと何処かで立ち上がって戻ってくる、って予感したんだ。その予感が正しかったことがわかって、ボクはホッとしてる」


 奈々はその話をボクの目をじっと見つめながら聞いていた。あの明るい()()()()()()を瞬時も逸らすことなく、ボクの目を見詰め返した。あまりにじっと見詰めるものだから、ボクはブラウンの虹彩(こうさい)が閉じたり開いたりする時に見える、その奥にある瞳孔の、奥の奥まで覗き込めるような気がして、少しドギマギした。


「ナナちゃんの瞳を見つめてると吸い込まれそうになる」

 それは思わず出た言葉だった。ホントにそんな気がしたから。


「そう? 何か見える?」

「ううん。でも瞳孔ってきれいだね。底の深い闇を見つめてる、って気になる」

「私が溺れている時もこんな瞳だった?」

 この言葉を聞いたとき、ボクはぎょっとした。何か言葉にできない強い違和感を感じたのだ。


「覚えてないよ。一瞬だったから」

「そうなんだ。じゃあどんなことを思い出したの?」

「どんなことって…… ナナちゃんが驚いた顔をしてあっという間に流されたことだよ。ボクね、妹と間違えてた時は、妹が目の前でぐるぐる回っていた気がしてた。必死の形相で、怖い目で睨まれた気もした。だけど、ナナちゃんを思い出したとき、それは間違いで、一瞬で目の前から消えてしまった、というのを思い出した。ナナちゃんは、それこそ、あっと声を出す間もなくて、自分の身に何が起こっているのかまるでわかってない、って感じだった。その一瞬の表情だけ思い出した……」


「そうなんだ。ほかには?」

「…… ほか? あぁ、あとね…… ボクはあのあと部屋に連れて帰られて、誰かの手でゴシゴシ体を擦られたんだよね。その時の擦れて痛い感覚が蘇ってきた」

「そう。じゃあ、それもきっと真実なんだろうね。ほかには?」


 奈々が繰り返す『ほかには?』という言葉が徐々にボクを追い詰めた。まだ思い出していない何かが残っているだろう、と言われている気がするのだが、他方で、もう何も残っていないと記憶の蘇りに抗うチカラが、頭をギュッと押さえつけるのだ。


「思い出せない。でも、何か思い出せず残っているものがあって、ここのところがワサワサする」

 そう言ってボクは胸のあたりを上下に撫でた。それは、彼女の舞を初めて見た時の胸のざわつきにも似ていた。あと一歩で全部吐き出してしまえそうなのに、なぜか澱のようにわだかまって出てこないものがある。それが一体何なのかボクにも判断できないのだが、もし、それを思い出すなら、奈々が傍にいて、この優しい瞳でボクを見つめてくれている今しかないような気がした。


「奈々、ボクにしがみついてくれないか?」

 彼女の重みを感じていなければ、ボクはどこかに連れ去られそうな感覚があったのだ。大勢のもぞもぞと蠢く何かに。


 と、その瞬間、ボクの脳裏にある映像がはっきりと蘇った。それはあまりにはっきりしすぎていて、直視できないほどの強い光が当てられている感じがした。そして、ボクは…… 気を失った。

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『もし、それが真実ならボクは……』

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