彼女なのか?…… あれは
「ペキちゃん…… 大丈夫?……」
彼女の声が遠くで響いた。その声…… 誰だ? 木立を流れる小川の辺りで大丈夫と話しかけられるこのシーン、確かにボクは経験している。ここからの眺めに間違いなく見覚えがあるのだ。そう思った瞬間、自分のカラダがシュルシュルシュルっと小さくなる感覚があって、あの日見ていた目線の高さまでが蘇った……
……
『ペキちゃん、ほら、あそこ! あれ、何?』
白い帽子の少女が小川のほとりに幾つか白い花びらを見つけて指さした。
『なんだろう…… 知らない』
『なんのお花かなぁ』
『見たことないよ』
『私も見たことない』
その子と目があった。お人形さんのような黒い瞳が前髪の奥でキラキラしていた。
『でも、変な形ね。お庭のお花のカタチと全然違う』
『変だね、お花なのに』
『変だね~』
ボクたちは変だね〜変だね〜と声を揃えた。声が揃うと楽しかった。
『近くで見てみる?』
『危なくない?』
『平気、平気』
ボクは単にその子にいいところを見せたかっただけだ。男の子として……
『ホントに大丈夫?』
『平気だってば。ほら、手、かして』
さっきまで笑っていた白い帽子の奥の顔が強張った。だから、ボクはなおさら平気だと言いたくなった。
『じゃあ、ボクが行って取ってこようか?』
少女は少し考える素振りを見せたが、すぐにボクの目をしっかり見つめて答えた。
『ううん、一緒に行く』
『うん。大丈夫だから』
『ゆっくり歩いてね』
ボクは彼女の右手をしっかり握って川辺をゆっくり歩いた。すぐ傍でゴーっと唸りをあげて流れる水は冷たく透明で、恐ろしくはあるが、手をその中に浸けてみたい衝動に駆られた。
『水…… すごいね…… 』
白い帽子のつばの奥で顔は見えないが、彼女がボクの左手をぎゅっと握り返してくる。ボクはもうちょっと急ぎたいのに、彼女が後ろから引き戻すように引っ張るから、思うように前に進めない。それでも、お目当ての白い花が咲く場所へ徐々に近づき、白い毛布に包まれたような独特の形がはっきりとわかるところに辿り着いた。
『ほら! へんてこなカタチしてる』
『うん…… お花じゃないのかな……』
少女は興味をなくしたように曖昧な反応になる。くぐもった声でちっとも楽しそうじゃない。
『取って帰ろうか? パパにこれは何って訊いてみようよ?』
『うん…… でも大丈夫? 手、届く?』
『大丈夫。…… ちょっと手を放すよ』
『…う…… 』
バッシャ!
物凄い水しぶきを上げたかと思うと、少女の小さな体はあっという間に流された。一瞬だけ目があったが、その顔は恐怖というより、あまりに突然で自分の身に起こっていることすらわからないという顔だった。そのわずかな印象を残し、少女の姿はすぐ水に飲み込まれて見えなくなった。
『父さん! 父さん! 父さん!』
ボクは大声で父さんを呼んだ。何度も何度も、チカラの限り大声を出した。
『流される、助けて~ 助けて~ 父さん! 早く、早く』
自分の声が誰にも届かない恐怖、この世にたった一人で取り残されたような底知れぬ恐怖がボクを襲った。足は一歩も前に出ず、ただ茫然と少女が流される方向を見ていることしかできない。彼女の白い帽子だけが水面に浮かび、物凄い速度で流されていく。
ところが次の瞬間、ボクの頭にはなぜか都合のいい結末が思い浮かぶ。大丈夫、彼女はきっとどこか浅いところで自分の足で立ち、川から這い上がってくるだろう、そうに違いない……
大丈夫、妹は向うからやってくる。笑ってやってくる…… やってくる……
ボクは声を出すのを止め、少女が流された方をただ呆然と眺めた。
そのあと、何人か大人がやってきて、川のほとりをずんずん歩いて行った。中にはもどかしそうに水に飛び込む人もいる。川辺の白い花は無残に踏み潰され、切れ切れの残骸が速い水に流された。
しばらくすると、ボクは誰かの手に引かれ、保養所の部屋に戻り、素っ裸にされてゴシゴシ体を擦られた。それが誰だったのか思い出せないが、黙って体を拭いてくれる。痛いほど…… 痛いほど……
……
「ペキちゃん、大丈夫?」
奈々の声でボクはハッと我に戻った。すっかり日は暮れていて、目の前の小川は黒い一筋のきらめきとなり、静かな水音を立てるばかりだった。
奈々の顔を見た瞬間、白い帽子の下で透き通る肌の少女の顔がフラッシュバックした。父さんと、見知らぬおばあさんがいて、ボクと、それから少女たちがブランコで遊んでいる。ふたりを乗せて、ボクが後ろから押すと、妹が前につんのめってイスから滑り落ち、ギャーギャー泣き始めた。ボクは妹を抱え上げブランコに乗せてあげようとするのだが、横にいた父さんに止めろと肩を強く掴まれ……
「あの時の子はナナちゃん? 水に流されたのは……」
視線を上げると、奈々がタクトを背後から抱きしめてボクを見下ろしている。その顔は、初めて『ビジュー』で見かけたときから何一つ変わらない、不思議にボクを包み込むような微笑みだった。
やっぱり少女は帰ってきたのだ。ナナちゃんは、今ようやく、ボクの目の前に戻ってきた。この小川の先のどこかで立ち上がり、自分で帰って来てたのだ。ボクの予感は当たって……
「やっと気づいた? 最初ここに来た時に気づいてくれるものと思っていたのに、ペキちゃん、意外に鈍感なんだもん。言い出せなくて困っちゃった」
奈々はそう言って少し寂しげに笑った。
「それでボクに正しい記憶を取り戻させに来た、って言ったのか…… これって、復讐?」
ボクは目の前のナナちゃんを救うことが出来なかった。それは本人からすれば復讐するに足る出来事に違いなく、恨まれて当然なのだと思った。
「バカみたい。復讐するならあの店で出会った夜にブスッとやってます」
彼女は笑っていた。薄暗がりの中でよく見えなかったが笑っていたと思う。だがこの言葉をただの冗談として聞き流すこともできず、ボクの胸のあたりにはワサワサする妙な感覚が残った。
「私、よくは覚えてないの」
彼女はボクから視線を外し、遠く水辺の先の、さらにもっと先の暗闇を見ているようだった。ボクはその視線を追う勇気が出ず、そのまましばらく地べたに腰をついたままでいた。
「おじちゃん、お尻が汚れるよ……」
奈々の腕の中でタクトが眠そうな声を出す。ボクは急に恥ずかしくなり、おお、とズボンの汚れを払いながら立ち上がり、二人の前を歩いて屋敷に戻った。
玄関を入ると、最初に訪れた日に感じたお香の薫りがまだ残っているように感じた。そして、リビングのマントルピースも、天井のシャンデリアも、何か言わく言い難い新たな印象でボクに迫りくるように思われた。この部屋の様子が、ボクに何かを呼び覚まさせようとしている…… ボクは、思わず奈々の手を探り左手を伸ばした。




