彼女はボクの甥っ子の肩を抱いて訊ねた
虫の知らせ、ってのは確かだろうか? どちらにしてもその日の夕方、妹からの不意の電話は、落ち着きを取り戻した甥っ子にすれば武勇伝を思い切り語る絶好の機会になった。
武勇伝だけに危機一髪もあれば生死の境を彷徨うこともある。それがひとりで送り出した我が子の身の上のこととなれば、突然聞かされる母親が驚きを超えて怒りを感じたとしてもわからぬではない。だがその気持ち、小学三年生の男子にわかるはずがなかった。
「…… さっきね、消防車と救急車がいっぺんに来て凄いサイレンだったよ! ボクもねそれに乗って病院に行けって隊員さんに言われたよ! でもね、でもね……」
息も継がず一気に喋ろうとしてその先が続かない。この話を聞かされる母親が、我が子の勇ましい姿より包帯でぐるぐる巻きされタンカで病院に担ぎ込まれるシーンを脳裏に浮かべたとしてもなんの不思議もなかった。
「…… おじちゃん…… ママが電話代われって」
ほら、やっぱり……
この電話の着地点が大体想像できるだけに気が重い。ボクは甥っ子の頭をコツンと小突いてスマホを受け取った。
「はい……」
「お兄ちゃん! どこで何してるの! タクトにケガさせたんじゃないでしょうね!」
「ケガ? …… タクトどっかケガしたの?」
一応念の為に本人に確認してみる。すると、両手両足に何箇所も絆創膏を貼られたタクトが自慢げにその場所を指し示した。
「ちょっと擦り傷があるみたいだけど平気らしい」
「あんたたち! 何してたの!!」
もはや人の話を冷静に聞く耳を持たない妹。スマホを机に置いても届きそうな声で、彼女の激烈な言葉は止みそうになかった。
仕方なく昼間の顛末を説明する。少女が小川に落ちたこと、それを助けにタクトが川に飛び込んだこと、無事に助け出せたこと、誰かが救急車を呼んだが、ふたりに目立った怪我はなかったことなどだ。
「どこのキャンプ場でほっつき歩いてるの? 真っ直ぐ母さんのところに行かないからこんな事になるのよ!」
息子のケガとそれを結びつけたくなる気持ちはわからぬでもないが、それは無理筋というものだ、妹よ。…… と思うものの、口に出して言うほどボクもバカじゃない。
「蓼科に知り合いの別荘があって、そこに泊まってる。ちゃんとしたところだから安心しろ」
「たてしな…… ってあの蓼科?」
妹の声は急に暗転した。それはきっと自分が溺れかけた時のことを思い出したからだとボクは勝手に判断し、それ以上の細かな説明は止めにした。
妹は息子の様子をさらに詳しく聞きたがったが、その時ちょうど病院から戻ってきた美しい人と幼子が玄関に現れたため、ここの住所だけ教えてとりあえず電話を切った。
夕闇の玄関先に立ち竦む美しい人は既に目に涙をいっぱい溜めていた。
「お兄ちゃん…… ありがとう」
美しい人はタクトの姿を見るや強く抱き寄せ、涙をポロポロ流した。恐怖を共有したボクたちの顔を見て、張り詰めていたものが緩んでしまったのだろう。美しい人は溢れる涙を拭おうともせず泣き続けた。本来なら一緒に休暇を取るはずだった夫が、急な出張で来られない時にこんなことになってと、自分を責める言葉を何度も口にする。自分の不注意で人様の子供さんまで危険な目に遭わせて申し訳ないと、身体を折り曲げて謝った。
その姿は、子供の身の上に降りかかる不幸は、それがどんな偶然でも親は自分を責めるものだということを思わせ、横で見ている方が辛くなるほどだった。
奈々はそんな彼女の手を取り黙って話を聞いていた。こんな時、どんな慰めの言葉も伝わらないことを彼女は知っていたのだろう。何も言わず、ただ頷きながら一緒に涙を流した。その姿にさっきまでは武勇伝を誰かに話したくてウズウズしていたタクトも大人しくその場に正座したが、その小さな膝の上に幼子がちょこんと座わり不思議そうな顔で周囲を見たので、涙に咽んでいたふたりの女性も徐々に気を取り戻し、やがて穏やかな笑顔に変わっていった。
ボクは身の置きどころがなく困った。タクトが自分の子供ならまた違う感情を抱くのだろうか? そんなことも思った。むしろ、赤の他人の奈々が、ふたりの子供を我が子のように接する姿をみて、母性は女性に本来的に備わる資質なのだと感心した。男であるボクにはどこか完全には理解できない事のように思えたのだ。
その時、テーブルの上でスマホが振動した。きっと妹からだと思ったボクは、画面を見ずに鳴動を止めたが、それを機に美しい人が腰を上げたので、ボクたちはふたりを保養所まで送って行くことにした。
保養所のエントリーホールには大勢の人が集まってふたりを待っていた。善良そうな顔が並んでいたが、そのひとりひとりと言葉を交わすのが億劫で、ボクたちは車寄せの手前で別れた。幼子が何度もお兄ちゃんバイバイと振り返る。タクトもその都度振り返って手を振った。
帰り道、三人並んで小川の橋の上で立ち止まり川辺に目をやった。
「あの花を見てたの?」
奈々がタクトの肩を抱いて訊ねた。
「うん…… キレイだったから」
タクトが小さく応えた。
「バカだな」
ボクはタクトのおでこを小突こうとした。
が!
その瞬間、得体のしれぬ記憶のフラッシュバックがあり、頭が割れるほど締め付けられる。ボクは思わずその場に蹲ってしまった。
あれは…… あれは…… 誰だったんだ!!




