彼女はガバっと起き上がり、そして大声で叫んだ!
夢うつつの中、遠くで遊ぶ子供たちの嬌声が風に運ばれて微かに聞こえる。何を話しているのか内容まではわからないが、男の子と女の子が時折キャッキャとはしゃいでいる。彼たちが踏みしめる夏草のシャキシャキっと抵抗する様も伝わり、足元に可憐な花でも見つけて喜んでいるのだろう、何かを伝え合う様子までもなんとなくわかる。
風はのどかで優しく頬を撫で、隣からは愛する人の甘やかな香りが時々届く。ボクはそんな昼下がりの微睡の中にいた。
「キャ――――― 誰かァ―――――」
女性の引き攣った悲鳴が耳を劈いた。何が起こったかは不明ながら、とにかく尋常ならざることが起こったことだけは激しく伝わる。ハッと目を覚ますと、隣で寝ていた奈々もガバッと起き上がり、すぐに掃き出しの窓から身を乗り出した。
「誰かっ――――― 誰か、助けて―――――」
女性の声が二度目に届くと同時に、男の子がバシャッと水に飛び込む瞬間が目の端に映り、それと同時に女性の声はさらに一層甲高い叫びに変わった。
「タクト!」
奈々が大声で叫んだ。ボクは叫びだす前に身体が動き出し、裸足のまま庭の奥の金網に駆け寄った。濁流の中で男の子が女の子の服を掴もうと必死の形相で流れに抗っている。ぎゅっと歯を食いしばり女の子の服の端を引き寄せようとするのだが、彼の足元はいかにも覚束なく、ふたり同時に流されそうになる。いや、刻々とその位置は下流に向かっているようだった。
ボクは金網を伝い敷地の端まで辿りくと、角にわずかな隙間を見つけた。無理をすればなんとか通り抜けられそうだ。考えるまでもなくそこに頭を潜らせる。飛び出した金網の切れ目が首と背中に突き刺さり痛みを感じるが、構わず強引に抜け出すと、流れてくる子供たちを何とか受け止められる下手に飛び込むことができた。
川の深さは大人の背丈からすればさほどでもなく、足元を掬われるほどの流れでもない。ただ、轟々と音を立てる程度には流れも水量もあり、その音は子供たちを怖がらせるには十分だった。それより、ぬるぬると滑る川底が危なっかしい。タクトが女の子を掴みかねているのは、力を入れようにもするりとすり抜ける足元の危うさのためのようだった。
タクトにもう大丈夫だと声をかけると、一瞬、彼の手元が緩み、女の子がするりとボクの腕の中に流れ込んだ。やや遅れてタクトもボクの腕に手が届くと、それまで必死の形相で歯を食いしばっていた彼の顔がみるみる泣き顔に変わった。ボクがしっかりふたりを抱きとめる頃、奈々が遠回りして金網を抜け出て走り寄り、思い切り伸ばした彼女の手にようやく幼子を委ねることができた。
タクトは興奮と恐怖で震えが止まらない。女の子は水を飲んだのか苦し気なしゃっくりを繰り返したあと、大きな声で泣きじゃくり、ママ、ママと繰り返した。そのママは川の中をじゃぶじゃぶと覚束ない足取りで駆け寄ってくる。白のロングスカートが泥水に染まったが、そんなことは気にもせず、泣く子に手が届くとしっかりと抱き締めた。
奈々も美しい人も、よかった…… よかった…… と何度も何度も繰り返し、ひたすら涙を流した。ふたりの子供もしゃくりあげるように泣き続ける。その声は、抱き締められるほどに大きく強く、切なく甘えた声になった。
子供たちが大声をあげて泣き出すころ、騒ぎに気付いた何人かが橋の上に集まった。ボクは彼らに向かって大丈夫ですからと大声を出したが、誰かが既に救急車を呼んだ後らしく、そのサイレンの音が響き始めるとますます人が集まってきた。
子供たちは徐々に落ち着きを取り戻し、それに連れて美しい人はずぶ濡れのスカートを気にし始める。そのことに気付いた奈々が部屋に来るように母親を誘い、ボクは女の子を背負い、奈々がタクトの手を引きながら屋敷に向かう頃、真っ赤な消防車が屋敷の前に止まり、精悍な顔つきの隊員数名が玄関に顔を出した。少女は念のため救急車で運ばれることになったが、タクトはどうしても嫌だと言い張り病院に行くのを拒んだ。そして大勢が見守る中で少女を乗せた救急車が走り出すと、ようやく人混みもまばらになり、いつしかもとの静寂が屋敷に戻った。
奈々が黙々と床を拭き始める。リビングもキッチンもシャワールームの入り口まで大小の足跡が泥水とともに散らばっている。そのひとつひとつを丁寧に拭き取りながら、彼女はなぜか涙を溢した。その姿に、ボクもタクトも何一つ声をかけることができず、黙って見守るしかなかった。
セミの声がうるさい。そう気づく程度に平穏が戻った。




