彼女は幼い頃、おばあちゃんにそっちは絶対に行っちゃだめだ、って叱られたことがあるらしい
一晩降り続いた雨は翌日も降り止まず、ブランコ周りの足元はぬかるんで光って見えた。ただ、雷鳴は止み木立は静寂さを取り戻している。甥っ子のタクトと奈々は、今朝は窓際に座ってデッサンを始めた。
「おねえちゃん、ライオンなんかいないのに夢の中の事描いてるの?」
奈々の描く空想画が不思議と見えて、タクトが絵を覗き込みながら問いかける。
「そうね…… 夢といえば夢だけど。練習かな。昔見た絵を思い出しながら似せて描いてるの」
「へぇ~。ボクもそういうのがいいなぁ…… でも先生やママが、ちゃんと見たものを描きなさいっていうから、そういうの描いちゃいけないのかと思ってた」
「そっかぁ。ダメって言われるとダメなのかなぁ。でも、おねえちゃんはもう小学校は卒業してるし、好きなものを好きな時に描いても怒られないんだよ」
「いいなぁ…… 」
そういうと、甥っ子は画用紙に向かって庭の景色を描き始めた。夏休みの宿題らしく、あまり現実とかけ離れた絵空事を描くこともできなかったのだろう。
「じゃあさ、その絵のどこかにピンクの傘の女の子描いたら?」
「昨日見かけた傘の子?」
「そう。その傘の子はタクトが確かに見かけたんだしさ、それを思い出しながら描けばいいんじゃないの? まるっきりのうそじゃないんだし」
「わかった!」
雨はまだ降り続いている。部屋にはふたりが走らせる鉛筆の擦れる音だけが静かに響いている。
手持ち無沙汰のボクは、立ち上がって庭を眺めた。すると、敷地の境目辺りにある金網の向こう側の、これまで何もなかったはずの場所に水の流れなのか、白っぽく光るものが見える。
「あの庭の奥の光ってるところって、例の川の水?」
ボクの言葉に奈々が反応し、立ち上がって同じ方向に目を凝らした。
「あ~、そうそう。結構降ったんだね。水が見えるところまで上がってるところをみると」
「ここからじゃよくわかんないけど、結構増水してるのかな? 深いの?」
「そうかもね。リビングから水面が見えることなんて滅多にないから、結構深いかもね」
「どれ? なに?」
背伸びをするが小学生の目線ではそれがよくわからないらしい。何度もジャンプして見ようとしている。
「雨がたくさん降って、川の水が増えてるってだけだよ」
「へえ~、見てみたい!」
「ダメだ!」
ボクは咄嗟に声を荒げた。タクトはその声があまりに急で厳しかったからか、ジャンプするのを止めて固まってしまった。
「…… タックン、川のお水って怖いんだって。おねえちゃんも小さな頃、おばあちゃんにそっちは絶対に行っちゃだめだ、って叱られたことがあるよ」
「…… そう。タクトのママも怖い目に遭ったことがあるから、きっと同じこと言うはずだよ」
「…… 」
大人ふたりが急に口を揃えて止めるから、タクトにしてみれば恐怖心が芽生えてしまったのだろう。それからは川面を見ようとジャンプすることもなく、静かに画用紙に向かった。
午後からも雨はまだ降り続き、足止めされた子供は徐々に不満顔になる。少しでも雨が小やみになったら外へ出ようと煩い。確かに、ここに来た目的のひとつであるテント生活も実現できておらず、甥っ子にしてみれば約束が履行されずイライラするのもわからぬではない。
そんな彼の願いが天に通じたのか、夕方、雨はようやく降り止み、夕暮れ前には天空近いところに虹の一部が見えるまでに天気は回復した。
「ねぇねぇ、すぐ近くでいいからお外に行ってみようよぉ~」
こうなると小学三年生を黙らせる方法はなく、ボクとタクトは夕食の準備に取り掛かった奈々を残して、砂利道を保養所の方に向かって散歩することにした。
びっしり砂利が敷き詰められた細い引き込み道路は大雨にもかかわらずぬかるみはない。多少足元が滑るが、注意しながら道の真ん中をゆっくり歩いた。
屋敷の前から二、三百メートル歩くと小川に差し掛かる。車だと見過ごしてしまいそうな小さな橋のたもともまで来ると、やはり思ったより水量は多く、しかも流れが速い。甥っ子はその水の流れに興味をひかれたのか、近くにあった木切れを投げ込んで、サッと流される様をじっと見ていた。
「ほら、凄いでしょ。あっという間に流されちゃう。危ないから、こっちで遊んじゃだめだよ」
お前のママみたいに流されるから…… とまでは言えずに、ボクも甥っ子と並んで川の流れを眺めた。
ただ、あの時とは明らかに違う、そうも思った。あの時は、触らずともその冷たさが伝わる透明に透きとおった水が流れていて、綺麗だが恐ろしいという印象を与えたのだが、今、目の前で流れているのは茶色く濁った雨水で、川べりの有象無象を巻き込みながらの、言わば濁流だ。
どっちが怖いだろう?
ボクは瞬間そんなことを思った。そしてなぜか、水面から目が離せなくなってしまった。
甥っ子を見るとやはり流れから目が離せない様子。さぁ帰ろう、と肩を抱くと素直に頷くが、ふたりとも歩きだす気にはなれず、しばらく濁流を眺め続けた。




