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彼女はボクを『ペキちゃん』と呼んだ

 ボクは一瞬にして恋に落ちた。

 いや…… 恋ではなく、夢を見始めただけかもしれない。


 ……

 ……


「ペキちゃん、今日は何時頃戻る?」

 目覚めると、彼女が大きめのマグカップを差し出しながら微笑んだ。


「なんで?」

 ボクはカップから立ち昇るコーヒーの香りをゆっくり吸い込んだ。朝が弱いボクは、まだ半分は夢の中にいる。


 あの夜、『ビジュー』は大騒ぎだった。ボクは彼女はてっきり店の常連客で、ひょっとすると専属のダンサー? くらいに思っていたのだが、実は彼女はあの夜が店には初見で、マスターはおろかあれだけ息の合ったセッションを行ったプレイヤー達ですら、あの時初めて彼女を見たというのだから驚きだ。天才ってのはこういう登場の仕方をするものなんだな、とその中のひとりが感心したように呟いたが、ボクも妙に納得したことを思い出す。


 その天才ちゃんが、今、ボクの目の前にいる。


 この異常事態の…… なんというか、誇らしいというか、嬉しいというか、いや、そんな簡単な形容ではとても言い尽くせぬ様々な感情が、それこそ無限に湧き上がってきて、本当は自分のこの身をくまなくツネって現実を確認したいくらいなのだが、目の前の舞姫は、レモン色のTシャツを着ただけの、至って普通の女性なのだ。


「この部屋、模様替えしていい?」


 打ち明けると、ボクは彼女のことを何も知らない。あの夜、そうするのが当たり前のように彼女はボクの傍に座り、深夜、店がハネるころ、当然のようにボクと腕を組んで店を出た。そのあと、真夜中のカフェで酔覚ましのコーヒーを飲み、公園を歩き、そのまま当然のようにボクの部屋に帰り着いた。そして別々にシャワーを浴び、彼女はソファーに横になり、ボクはまだ使ったことのないタオルケットを引っ張り出し、彼女にそっとかけてあげた。ただそれだけ……

 その時から今日まで、ボクは目の前の現実が果たして(うつつ)なのか夢なのかわからぬまま、何度目かの朝を迎えているのだ。


「も、模様替え???」

 彼女の言葉がようやく耳に届いて急に覚醒する。


「うん。模様替え。気分転換」

 そして今も、彼女はごく当たり前のことのようにこんなことを言い出し、ボクは頭の中の整理が追い付かないでいる。


「それはいいけど…… でも、なんでそれとボクの帰り時間が関係するの?」

「だって、ペキちゃんが帰って来た時には雰囲気の違う部屋にしておきたいから」


 彼女は最初の朝からボクを『ペキ』と呼んだ。その響きは何か遠い過去の記憶を呼び覚まそうとするが、それが何かはわからない。まあ、苗字の漢字一文字に由来する呼び方だし、時々、ボクの下の名前を音読みして『シュンちゃん』という子もいたから、それでもいいのかなという気はする。


 こんなふうにボクの頭の中は、何の脈絡もないことが走馬灯のように駆け巡っているのだが、彼女はお構いなしに次の用件を言い始める。


「だから、ゆっくり帰ってきてね。そのあとで夜の港に行かない?」

 だから…… その流れがよくわからん……


「いいけど。急にどうして?」

「う~ん…… わかんない。さっきコーヒーを手渡しながら、ふと、ペキちゃんと並んで巨神兵見たいなぁ~、って思ったの。ペキちゃんにはそういうことない?」

「巨神兵?」

「うん、港の巨神兵。あれが頭に浮かんだ」

 彼女はマグカップを口に寄せて、フフっと笑った。

「だって、頭に浮かんだんだもん」


 確かに、そんなこと…… ある。いや、むしろ、そんなことだらけかも知れない。例えばボクの場合、会議中の窓から外を眺めたりしてると、白樺湖畔のパターゴルフ場がよく頭に浮かぶ。それが何に由来するかわからないが、強い陽射しが眩しくて目を細めたくなるような時、あの場所がよく浮かんでくる。

 だから、彼女にもそういう瞬間があるのだろうと思った。きっとそれを躊躇わずに口にする子なんだ。そしてそんな彼女は、ボクにとって理想の彼女かもしれなかった。


「いいよ。じゃあ…… 千葉?」

「うん、いいよ。でもなんで千葉なの?」

「ふと、千葉、って思っただけ……」

「そう。いいよ、どこでも」

「じゃあ千葉港ってことで」


 そしてふたりで大きめのマグカップを両手で抱えてコーヒーを啜った。啜りながら、お互い無言なのに、なぜか同じ場所が頭に浮かんでいる気がしていた。


「あれは確かに巨神兵だよね。荷揚げ用のクレーン」

「あれってそうなんだ。何なのかなぁ~って不思議だったんだよね」

「マジで知らなかったの?」

「うん、知らないよ。知ってる人の方が稀だよ」

「そうかなぁ……」


 こんな会話をしているうちに、あっという間に会社に向かう時間がやってきて、ボクは慌てて部屋を飛び出す。


 彼女がここに来てからというもの、こんな朝を繰り返している。

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『もし、それが真実ならボクは……』

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