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彼女は、ペキちゃんらしくて、私は好きだよと言った

 その日の夜、ターミナル駅のバス停に向かうと、列の最後尾は塾通いの小学生だった。このあたりでは有名な塾のネイム入りリュックを背負った彼は、暗い街灯の下でなにやら懸命に読んでいる。それがアニメなら微笑ましいし、参考書なら痛々しい。そんなことを思いながら後ろからそっと覗き込むと、それは教科書に挟み込まれた手紙のようで、紙面には小さな文字がびっしりと埋め尽くされていた。チラッと見ただけでも小学生が読めるかどうか疑わしい漢字が並んでいて、その中に「葛藤」だの「離婚」だのと言う単語を見つけたボクは、身長150センチメートルにも満たない彼が背負っているリュックの重みを知ると同時に、遠い昔の記憶に囚われた……


『どこか行くの?』


 あの日、学校から帰ると珍しく父さんがいて、小さな旅行鞄に着替えを押し込んでいる最中だった。


『…… ちょっと出張することになってね』


『そうなの? …… すぐ帰る?』


『ああ…… 。 マーくん、しっかり勉強しろよ。これから塾だろ? 駅まで一緒に行くかい?』


 それがただの出張ではないことはなんとなく予感できたが、あれが父さんと並んで歩く最後になるとは思いもよらなかったから、ボクは別れ際に手を振ってお土産を頼んだのだった。


『お土産に天球儀買ってね。お誕生日のプレゼントでも、クリスマスプレゼントでもいいけど』


『うん。覚えておこう。じゃあ、マーくん、母さんと陽詩(ひなた)をよろしくな』


 それっきり父さんは駅の階段を一度も振り向かずに昇って行った。薄いグレーのスーツ姿だったことははっきり覚えているが、どんなネクタイだったか、いや、父さんがその時どんな表情だったのかはまるで思い出せないでいる。


……


 バスに乗ると、小学生の彼は座席に着くことなく運転手さんのすぐ後ろに立ったまま前を見ていた。両足で踏ん張ってバスの揺れに耐えている。その近くに座った見知らぬおばさんが、ほらほらボク危ないから座りなさい、と声をかけているが、彼にはその言葉が届いていないようで、頑なに支柱にしがみついたままだった。


「危ないですから席にお座りくださ~い」


 バスの運転手さんが、彼を小学生扱いしない代わりに、優しさのカケラもない声で告げる。運転手さんにとってみれば、彼は迷惑な乗客に過ぎず、小学生でもなければ、「離婚」という文字を繰り返し読んでいた子供でもない。ただの乗客なのだ。


 それでも頑なにその場所を離れない彼に、周囲はやれやれといった表情の一瞥をくれただけで、誰もがその存在を忘れた。やがてバスはふたたび走り始め、そこからふたつめの、旧市街と新興住宅街との切れ目のあたりで彼は下りて行った。きっと習慣になっているのだろう、大きな声で「ありがとうございました」と言いながらステップを降りる姿は、やはりどこから見ても小学生でしかない。周囲の大人たちはその声に関心を向けるでもなく、返事を返すわけでもなく、お利口ね、と言ってやるでもなく無言を貫く。そういうボクも、歩道を歩く彼の姿をちらりと振り返ってみたものの、いつの間にかバスの進行方向を向いていた。



「おかえり」


 玄関を開けると、キッチンから彼女の声が届く。奈々という名前を知っただけで、彼女との距離が急速に縮まった気がしているボクは、今日一日見聞きした些細なことを話したくなった。


「今日ね、会社でね、希望退職の募集があったんだよ。どうなっちゃうのかね?」

「へぇ~」

 社交辞令程度の関心を示すが、本当はどうでもいい、って感じが彼女から伝わる。


「そんな日にさ、会社の上司から、お前、したい仕事できてるか? なんて訊かれたらさ、奈々ならどう思う?」

「へぇ~、そんなこと訊かれたんだ、すごいね」

 この時も彼女の手は少しも休まず、ボウルの中の野菜を混ぜ合わせている。


「で、今さ、ここまでのバスの中でさ、可哀そうな小学生がいたのに、みんな知らん顔なんだよ。ひどくね?」

「へぇ~、それでペキちゃんが助けてあげたんだ?」

「…… いや、余計なことかもしれないから…… 」

 彼女はボクの答えを知っていたかのようにふふふと笑った。そして、焼いたお肉とサラダボウルをテーブルに運びながら、優しい顔で微笑んだ。


「ペキちゃんらしくて、私は好きだよ」


 この言葉をどう受け取ればいいのだろう? 何かまともに相手されていない気持ちが半分…… いや二割。そして残りの八割は、彼女はちゃんとボクを理解してくれていて、外の世界のことはどうであれ、そして、それとの関わりがどうであれ、ボクはボクでいいんだよ、と言われた気分。つまり、ボクはそのままの存在でいいんだと認められている気分がした。


 ボクは自分の薄っぺらさがキライだ。何事にも直接手を染めることなく傍観してしまう自分がキライだ。でも、世の中にひとりくらい、こんなボクでも許してくれる人がいるんじゃないか、ずっとそんなことを期待してきた気がする。

 そして、それが目の前の彼女だとしたら……


 彼女がサラダを取り分けてくれた。マヨネーズは禁止されている。彼女の作ったフレンチドレッシングをかける…… ちょっと酸っぱい。でも、ボクはニコリと笑った。彼女もニコリと笑った。

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『もし、それが真実ならボクは……』

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