彼女の横顔は端正でとても美しい。無駄も緩みもない。
「御影さ〜ん、マインガスですがぁ〜、いらっしゃいますかぁ〜」
デッサンを眺めているうちにうたた寝したようだ。玄関先で呼びかける人の声で目が覚めた。その声に、彼女はデッサンの手を休め小走りに玄関へ向かった。
御影……?
あまり聞き慣れない名に反応した彼女の後ろ姿を、ボクはこれまでとは違った感情を抱いて眺めた。ふわりとすり抜ける感覚のあった彼女が、個別具体的なひとりの女性に見えたのだ。彼女に対して、どこか捉えどころのない印象が拭えなかったが、ただ単に名前がわかったというだけでその危うさが氷解する。名前はやはり単なる記号ではないということか。
だが、ガスの開栓手続き書を片手に戻ってきた彼女はこれまでとまるで変わらない。何事もなかったかのように元の場所に腰を下ろし、無言のままデッサンを再開した。あれ? 何も言わないの? って気になる。
「御影さん、って言うんだね。なんか…… 新鮮」
このまま話題にしないのも不自然な気がして、ボクは彼女にそう声をかけた。
「そう? 私の家族はみんな御影だよ。御影石ってあるでしょ? あの御影。お墓に使われるツルツルした石。あれだよ」
いやいや、いきなり石材の説明を始めなくても…… それよりボクはこの際、「御影さん」、あなたを具体的に知りたいのだ。
「で、下の名は?」
「奈々」
「御影奈々…… いい名だね」
ボクは素直に良い名だと思った。彼女から受ける、傍にはいるが手の届かない、大胆なのに儚く脆い、そんなアンビバレントな雰囲気を纏った名だと思った。だが、彼女にとってこの名は特段の感慨をもたらすものでもないらしく、ボクの言葉に一瞬、口元を緩めたものの、相変わらず黙々とデッサンを続けている。
その様子に、彼女が自分のこともペキと呼べと言ったことを思い出す。あの時はふざけているだけだと思ったがそれだけではないのかもしれない。他人にはいい名だと思えても、本人は嫌い、ってことはよくある。「渡壁」と「御影」なら、ボクは間違いなく「御影」を選ぶが、彼女は逆に墓石を連想させるこの名が嫌いなのかもしれない。それか…… 何か説明したくない名前に纏わる嫌な思い出があるとか。だからなんとなく気になった。
ボクは彼女の横顔を改めてじっと見つめた。何かに集中している時の彼女の横顔はとても美しい。端正で、バランス良く配置された各々のパーツが、名状し難い完璧な統一美を構成している。どこにも無駄がなく、緩みも妥協もなく、見ている者を釘付けにする。『ビジュー』で舞う彼女に見た神聖の似姿を、ボクは今また目の当たりにしているように感じた。そういう意味でも、やはり彼女に「御影奈々」は相応しい。
「さっき、誰と話してたの?」
名前にこだわるボクの物思いをよそに、彼女はデッサンの手を休めずポツリと呟く。
「電話? 甥っ子だよ」
「へぇ~」
それっきりしばらく何も言わない。名前の話は…… なんとなく続ける雰囲気でもない。
「甥っ子がいたら変?」
巧妙な誘導にかかったかのようにボクは自ら話題を変えてしまった。
「ううん…… ペキちゃんってどこか天涯孤独なようで、実は家族に囲まれてる人なんだなぁと思っただけ」
彼女がボクの電話相手に関心を示したことは正直ちょっと嬉しかったが、彼女の話しぶりは内容とは裏腹にとても素っ気なかった。
「甥っ子の一人くらいいても不思議でもないだろ?」
「まあね。甥っ子とか姪っ子ってかわいいものなの?」
「そうだね。ある意味無責任に可愛がれる上質なペット? そんなところかな」
「ヒドイ言い方。呆れちゃう」
確かに…… そんなつもりはないが、ついへりくだり過ぎてこんな言い方をしてしまう。
「奈々にはいないの?」
奈々…… そう呼ぶのは少し躊躇があったが、奈々ちゃんでも奈々さんでもない気がした。彼女はその呼び方に一瞬ビクッとしたが、やはりデッサンの手を休めず短く淡々と応えた。
「いないよ。姉妹どころか誰もいない」
言っていることはとても深刻だが、彼女の言い方があまりに素っ気ないので、その言葉はボクの胸の内で止まらずすっと抜け出てしまった。
この話も続けたところで彼女がこれ以上のことを話すとは思えない。ボクは会話を中断し開け放たれた掃き出しの窓辺に立った。すると、また微かな水音に気がつく。
「朝方雨が降ったのかなぁ? 表に出た時、雨樋から水が流れ落ちるような音が聞こえたんだけど」
「雨? 雨は気づかなかったよ。表の葉っぱが濡れてたの? それは朝露じゃない? 今朝は冷え込んだからね」
「そっかぁ…… じゃあボクの空耳かなぁ。ちょろちょろって静かな水音がするから、雨が降ったんだとばかり思ってたけど。違うんだね」
「あ~、じゃあ庭の向こうの小川の水音が聞こえたとか。 ペキちゃん、耳いいね」
奈々は何事でもないようにデッサンを続けていたが、庭を眺めていたボクには、小川と聞いた瞬間にザワっとした感覚が走った。
「小川って…… どこにあるの?」
「金網の向こう側。まぁ、日頃はちょろちょろと水が流れるだけで視界に入らないから忘れてるけどね」
「あの向こう側? 見えないなぁ…… 川があるように見えない」
「見えないよ、いつもは。砂利道の奥に保養所あったでしょ? あの裏手から流れてきて、確か…… 隣の敷地をずっと先まで流れていくんじゃなかったかなぁ。よく知らないけど」
彼女はスケッチブックから目を上げないまま関心なさそうに答えた。
「雪解けの頃とか…… 大雨が降ると凄い流れになる川じゃない?」
恐る恐る訊いてみる。
「そうかも」
「そう……」
「そう」
相変わらず彼女はデッサンしながら素っ気なく答える。
逆にボクは胸のザワつきが収まらない。蓼科、ブランコ、流れの速い小川。そしてこの部屋に入った瞬間に感じたお香の匂い…… 何かがボクを捕えそうになる。
が、その瞬間、お腹がぐぅと鳴った。恥ずかしい…… これまでの思考が急停止してしまう。
「お腹すいた?」
「…… 少し。近くにコンビニとかない?」
「歩いて行ける場所にはなかったかな。食材もないし、お買い物に行く?」
ここでようやく奈々が顔を上げる。明るいブラウンの瞳でボクを柔らかく見つめる。
「奈々はお腹すかない?」
「ううん、ペコペコ」
奈々がお腹を押さえて笑った。なんだ、彼女の素っ気なさはデッサンに集中していたからか、とホッとする。途端にボクは強い空腹を感じ始めた。もう一度、ぐぐぐぅ~とお腹が鳴る。
掃き出し窓に座っていた彼女はボクの腕を掴んで立ち上がり、ニコっと微笑む。その笑顔と腕の感触と、そして彼女が放つ甘い香りに、ボクの胸のザワつきはドキドキに変わってしまう。
部屋を出る時、チラッと小川の方を見たがやはり水面は見えない。そのうち、頭の片隅から小川のことは追い出されてしまった。幸か不幸か……。




