彼女は庭に面した掃き出し窓を全開にしてデッサンを始めた
滅多に鳴ることのないスマホが腰ポケットの中で突然震え出した。慌ててスマホを取り出そうとして危うくコーヒーを溢しそうになる。その様子を見ていた彼女は面白そうに笑うと、立ち上がってキッチンに消えた。
電話は妹からだった。何の用事だろう? 思い当たるフシはない。訝しく思いながらも、ここまでの道すがら、幾度となく彼女と母さんのことを思い出していたから、何か良くない知らせかと軽い胸騒ぎを覚えた。
「なに?」
「ううん。タクトが用があるらしくてさ」
「タクト? なに?」
「うん。今代わる」
スマホの向こう側で子供を急かす妹の声がする。その様子に、甥っ子の用件ではなさそうだと察しがつく。ホントの用件は何だ? と考えているところに、甥っ子のおどおどした声が聞こえてきた。
「おじちゃん? ボクだけど……」
「うん、わかるよタクト。元気?」
「うん…… はい」
きっと挨拶の仕方を妹に叱られてでもいるのだろう。こういうところ、妹は母さんにそっくりだ。
「何か用事? 欲しいものでもできた? あっ、グローブ?」
「違うよ…… あのね、おじちゃん、夏休みにはおばあちゃんちに行く?」
「う〜ん、どうしようかな……。 急になんで?」
幾つになっても母さんが苦手なボクは、父と別れた後、旧友とやらと再婚し、今は富山だか石川だかに引っ越してしまったあの人とは、もう何年も会ってなかった。向こうも待ってはいないだろうし、お互い気まずい時間を過ごすこともない。
「…… あのね? もしおばあちゃんちに行くなら…… ボクも…… 連れて行ってもらいなさいって…… ママが」
スマホの向こう側で、母親の顔色を窺いながら連絡してくる甥っ子は、昔の自分そのままだ。
「行くかどうかわかんないけど……。 夏休みだし、タクト、おじちゃんちに泊まりに来る?」
「いいの?」
「いいに決まってるだろ。 この前ね、テント買ったんだよ。タクトはその中で寝る?」
「寝る寝る! ボク、そこがいい!」
さっきまでの沈んだ声が、急に小学生らしい快活なものに変わる。
「オッケー! じゃあ、おじちゃんが夏休みになったらおいでよ。駅まで迎えに行くから」
「わかった! 夏休みだよね! 八月だよね? 山の日の頃だよね!」
「そうだね。一週間くらいお休みだから、ずっとこっちにいればいいよ」
「ホントに!! やったあ〜〜〜! あっ…… …… ……」
いきなりスマホの声が妹に代わる。
「ママのところには行くんでしょうね?」
「まあ…… できるだけ」
「まったく…… 長男なのに寄り付きもしないって、ママが怒ってたから。一応伝えとくよ。お兄ちゃんもひとりじゃ行きにくいと思ってタクト貸すんだからね」
「お世話様」
反論したところでこっちの百倍の言葉で乗り越えられるだけだ。子供の頃から諦めているボクは、あとはうんうんと生返事を繰り返し、数分後、ようやく電話は切れた。
はぁ……
ちょっと大袈裟なため息が溢れた。
気が付くとボクは掃き出しの大きな窓辺に立ち、ぼんやり庭を眺めながら電話していた。目には入っているのにそれがそうだと気づかないことがある。庭の真ん中にある古くて大きなブランコがまさにそれで、これだけ存在感があるにもかかわらず、ボーっと電話をしている間、ボクはその存在を見落としていたようだった。
山から切り出してきた太い丸太をそのまま組んだような支柱、すっかり錆びているが頑丈そうな金属製の吊り具、背もたれ付きの腰掛け。遊具は、このお屋敷で愛されたに違いない子か孫のための、自作のものであることをうかがわせた。
「大きなブランコだね…… これ、キミの?」
通話が途切れたのを見計らって部屋に戻ってきた彼女に訊いてみた。
「そうだよ。椅子の横幅が広すぎるでしょ? 子供の頃は手が届かなかったよ」
そう言って彼女は両手を横に広げて笑った。
確かに幼い女の子がひとり遊びするには少しサイズが大きすぎるようにも思えたが、これを作った彼女の父か祖父は、きっと後ろから押してやるつもりでこんな形のものにしたのだろう。ボクにはそう見えた。
今は椅子のすぐ下まで伸びた雑草に囲まれ窮屈そうなブランコが、かつてはこの庭で優雅に揺れている映像がふっと浮かんですぐ消えた……
やがて、彼女は庭に面した掃き出しの窓を全開にしてデッサンを始めた。ボクは踊りも楽器の演奏も歌もダメだが、絵画となるとほぼ手越画伯クラスで話にならない。なので、彼女からスケッチブックを渡されても何も描く気になれず、ただロッキングチェアに揺られ、彼女の素描が出来上がる様を眺めた。
窓から足を投げ出した彼女は、目の前に広がる景色とは何ら関係のないものを描いていた。月夜の砂漠に徘徊するライオンと横たわる遊牧民を描いたその構図は、どこかで見たことのあるものだったが、それが誰の何という作品だか思い出せないボクは、彼女の横顔と鉛筆を走らせる指先を黙って見つめた。これはボクの部屋じゃ描けなかったの? と訊くと、う〜ん、インスピレーションがね、あの部屋だとね、と彼女が答えるので、絵画のことも芸術のことにも疎いボクは、そんなものか、と思ってぼんやりその絵と彼女の横顔を見比べた。
避暑地の昼下がりは静かだ。だが、車の音も振動もない世界は時間の進み方が意外にわかりにくい。ボクたちは知らぬ間に騒音で時を計っているのかもしれない。
彼女はデッサンを続けている。時は流れているのだろうか?




