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彼女はコーヒーを淹れてよと三度催促した

 忍び込んだ朝の冷気で目が覚めた。迂闊にも持参した服が全部半袖でタオルケットが手放せない。ブルっと震えながら、ボクは玄関横の小窓を開け放ち、流れ込んでくる冷気と部屋の澱みとを入れ替えた。


「おはよう…… 」

 珍しくボクより遅く起きた彼女が、眠そうな目を擦りながら階段を下りてくる。今朝はキャラクタープリントの長袖シャツを着ていて、いつもより子供っぽい。


「おはよう…… 」

「あれ? 床で寝たの? 眠れた?」

 床に敷きっぱなしの毛布が気になったらしい。


「寝る、というより、横になった、かな」

 後ろ髪の寝癖が気になり、左手で撫で付けながら答える。


「ロッキングチェアがお気に入りのようだったから、そこで寝ると思ってた」

「あれはうたた寝! ちゃんと寝るのは無理です!」

「そうなんだ。じゃあ二階にもう一部屋あるから、今夜はそっちで寝れば?」

「はあ?…… 」

 ニコッと微笑む彼女。ちょっとムカつくボク。


 だが…… 


 悪意のない天使には敵わない。二階かぁ…… と、ついつい天井を見上げニヤついてしまう。


「シャワー使う?」

 ずっと後ろ髪を気にしているボクを気にして彼女が訊く。

「寒いよ…… 冷水シャワーは無理」

「じゃあ、コーヒーでも飲んで、カラダ、温めよっ」

 それだけ言うと、冷たいシャワーをまた浴びるつもりか、本人はそのままバスルームに消えていった。


 気を取り直しお湯を沸かそうと…… ん? ガスは? 


 まさか火おこしからか? と本気で思った訳ではないが、一応屋敷の周囲を確認しようと玄関を出てみる。ざっと見渡したところ、薪の積み置きはない。適当な木切れがないか探していると、昨夜通ってきた砂利敷きの進入路まで戻っていた。


 昨夜は暗闇でわからなかったが、砂利道はこの先数百メートル続いていて、突き当りとその手前左手にどこかの保養所と思しき建物が二棟、朝靄の中にぼんやりと佇んでいる。どちらも三階建てのコンクリート造りのようだが、色調が落ち着いているためか威圧感はなく、木立と調和してごく自然にその場所にある。


 あとは静かな木立が続くだけ。特に目を引くものもないので屋敷に戻ろうとすると、どこからともなく微かな水音が聞こえてくる。夜中に雨でも降ったのだろうか? それにしては地面が濡れていない。チロチロと建物に沿って流れ落ちる雨雫のようでもあり、ここが静かな別荘地でなければ聞き逃してしまいそうなほど小さな水音が庭の方から聞こえてくるようだった。


 南側の庭に回るには左手の、かつては花壇だったと思しきレンガ組を踏み越えるか、右手のバスルーム横を抜けるかだが、彼女がシャワーを浴びている最中にその真横を通り抜けるのは憚られる。仕方なく、膝下まで露に濡れるのを覚悟で、雑草だらけのレンガ組を跨ごうとしたその時、


「庭に出るならこっちからの方がいいよ」


 いつのまにか玄関先にいた彼女が声をかける。小首を傾げ濡れ髪を乾かしている。その姿はちょっと艶っぽい。ボクは跨ぎかけた右足を寸でのところで引き戻し、彼女の言葉に従った。


「それよか先にコーヒー、淹れてよ」

「ガスが来てないだろ? まさか水出し?」

「それっておいしいの?」

「やったことないよ」

「じゃあお湯沸かすしかないね」

「だから、ガスがきてな……」

「カセットコンロが下の戸棚にあるはず」

 先に言えや……


「豆は?」

「ペキちゃんちの持ってきた、アハハ」


 彼女がほらと掲げた紙袋の中には、一体いつ用意したのか、ボクの部屋のミルと豆、それからしっかりフィルター類まで一式が準備されていて、そのあまりの手際の良さにボクは苦笑いするしかなかった。


「準備いいね」

「うん。朝から缶コーヒーは味気ないでしょ?」

「まぁね。ポンと缶コーヒー出されると、違うかな、って気になるかも」

「ほらね。ペキちゃんは意外にそういうのうるさそう」

「…… 」

 出発前の慌ただしさの中で、それを理由にこんな準備をしてくれたんだとしたら、妙に嬉しい。


 そういえば、家族旅行になると、母さんもやけにいろいろ気をまわした準備をしていたことを思い出す。その思い出を、ついポロリと彼女に話したくなる。


「うちの母さんはね、旅行の時には決まってバドミントンのラケットとシャトルを持っていくんだよ。どこかで時間つぶしするときに困らないように、だって。笑っちゃうよね」

「へぇ。準備いいね」

「雨の日用には()()()()()()()!も。そんなの持って旅行に行く家族なんかいないって」

 自虐的な笑いが零れる。ある家庭だけに通じる()()()()話、きっと彼女にはつまんない話だ。だが、


「ないよりあった方がいいよ」

 カメムシ話の時と同様、今度もまた、それは変でも何でもないというふうに応える彼女。だからついつい、ボクもその黒ひげが活躍した日のことを思い出す。


「あれどこだったかなぁ。旅行中、大雨で足止めになったことがあって、その時に大活躍した」

「ほ~らね。そういうものよ。だから、何でも車の中に入れときゃいいの」

「その言い方、ママそっくり……」


 そう、ママ。いや母さんはそういう言い方をした。いつも断定口調で、人の意見を聞くことなく、なんでも自分で決めた方向に押し切ってしまう人でもあった。そして今、ボクにはその印象しか残っていない。


「ほら、お湯沸いたよ。昔話はこのくらいにして、コーヒー、早く淹れて。それ飲んだら、私はしばらくデッサンしたいから」


 彼女は妙な方向に向かいかけた記憶の世界からボクを現実に引き戻した。


 使い慣れたミルでふたり分プラスアルファの豆を挽く。そして、ゆっくり、ゆっくり、いつもより丹念にコーヒーを点てる。やがて、ふくよかで甘やかな薫りが、昨日はちょっとお香の匂いが気になった屋敷に溢れ出した。


 彼女はいつものようにカップを両手で包み込み、目を閉じて薫りを愉しむ。


 そのしぐさが、ボクはたまらなく好き。

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『もし、それが真実ならボクは……』

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