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彼女はボクの前では眠らないと言った

 木製の重いドアを開けて玄関に入ると、ややかび臭くはあるが、どこかで嗅いだことのある懐かしい匂いがボクの鼻孔に纏わりついた。それは材木本来の匂いとともに、その一本一本に染み付いたお香の匂いのようで、古臭くはあるが決してイヤな臭いではない。ただ、マントルピースのあるお屋敷には不釣り合いな感じがして、ボクは無意識に仏壇を探してしまうが、どこにもそれらしきものはない。では、一体この匂いの元はなんだろう? そう気になって部屋の隅々を見回していると、いつの間にか真後ろに彼女が立っていて、ボクは思わず、わぁっ、と声を出して驚いてしまった。


「今、わざとやったろ?」

「ん?」

 完全にしらばっくれているが、そのニヤニヤ! バレとるぞ!


「え~っとね、お水は出るけどガスはダメかな。何も連絡してないし。だから、シャワーはお水ね」 

 一転、安ホテルの無愛想な案内人よろしく事務的に語る彼女。有無を言わせるつもりはないようだ。


「ちょっとかび臭いけど大丈夫だよね? このくらい」

 お香の匂いは? 彼女には当たり前の家の匂いなのだろうか、気にする様子もない。だから逆に気になってしまった。


「おばあさんは?」

「いないよ。去年、死んじゃったから」

「えっ…… そうだったの。言わないから…… ごめん……」

「別にいいの。人は死ぬ、いずれその日はやってくる。これ、うちの家訓」

 その言葉は、お香の匂いとは真逆の無宗教な印象をボクに与えた。


「すごい達観だね。なんというか、この世に未練のない感じ」

「今のはウソ。私が適当に作った」

 彼女は、またいたずらっぽい顔を見せて笑った。


「冗談にしては出来過ぎ」

「そう? 当たり前のことと言えば当たり前だけどね」

 確かにそれはそうだ。人の死なんてものはいつか不可避的にやってくるもので特別なことでも何でもない、なんて考えもホントは不謹慎ではないのかもしれない。彼女の生い立ちを知る由もないが、彼女がこんな無宗教な死生観の中で育ったとすれば、彼女の大胆さはこういうところに根っこがあるのかもしれないと、なんとなく腑に落ちる気がした。


「で、どうする? お水だけど、シャワー浴びる?」

「う~ん、どうしよっかなぁ……」


 ボクが逡巡していると、彼女は呆れたようにため息をひとつついて、さっさとバスルームへ消えた。やがて、タイルか打ちっぱなしのコンクリートと思しき硬い床に水の跳ねる音がし始め、それはこれまで生気のなかったこの家に、生の実感を呼び戻すように響いた。


 ボクは窓辺にあったロッキングチェアのひとつに深く身体を沈め、そこから夜空を彩る数しれぬ星々を眺めた。それは黒い画用紙に貼りつけた豆電球のような平板な明かりではなく、ここが宇宙につながっていることを思わせる立体的な奥行きを感じさせた。だけどそのことがかえって、地球が太陽の周りをまわっているのではなく、むしろここを起点に、全宇宙はどこまでも果て無く先に続くもののように思わせた。


 ……


『ほら、土星の環っか、見えるだろ?』


 昔、父さんが古くて重い望遠鏡を庭に持ち出して見せてくれた星々のことを夢の中で思い出していた。実際には、望遠鏡の中の土星はすぐに視界から外れてしまって、ボクはすでにその姿を見失っていたけれど、うん、見えるよ、と応えた…… 


 ……


 気がつくと、彼女はロッキングチェアを横に並べ、いつもよりもっと穏やかな顔でボクを見ている。


「ペキちゃん、眠るとき目が閉じ切ってないね」


 彼女はふふふと笑った。まるでボクがひた隠しにしている秘密を見つけたかのような含み笑いだったから、ちょっと見透かされた感じもするが、それも構わない気になってくる。


「何も見えないんだから全部閉じてるのと同じだよ」

「そっか。本人は見えてないのか。光も感じないの?」

「感じたら眠れないでしょ?」

「そうか」

 彼女は悪びれることなく話を続けた。


「眠りから覚めるって不思議な感じがしない? 深い闇からぐわ~っと上がってくる感じ」

「あるね、そういう感じ」

「ひょっとして、あの時って黄泉の世界から戻る瞬間と同じなのかな?」

「そんな簡単に行き来できるのもどうかと思うけど」

「でも、眠りってそういうことじゃないの? 本当は知らない世界に行ってるのかもよ」

「面白いこと言うね。じゃあ、今度キミが眠ったらどこに行ってるかじっと観察してあげるよ」

「ペキちゃんの前では眠らないし」

「何言ってんだよ、車の中じゃいつも寝てるくせに」

「あ~、だってあれは車の中だから、いいの」

「ん? …… それって、部屋じゃボクを警戒して眠らない、って意味で言ってる?」

「ったく、ペキちゃんは何事も大げさ!」


 でも、本当にこれは大げさだったのだろうか? 彼女はボクを警戒するつもりなど全くないと言い切れるだろうか? 『ビジュー』で出会っただけの、偶然カウンターで隣り合わせただけの、見も知らぬボクをこれまでほんの一瞬たりとも警戒しなかったと、彼女は言い切れるのだろうか? ボクはこれまで無視してきた底知れぬ不安を呼び覚まされた気がした。


「ねえ、キミはホントは誰なの?」


 これは禁断の問いだったのだろうか?

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『もし、それが真実ならボクは……』

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