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天文対話

作者: 淡嶺雲

 西の空に月が沈む頃、東の空から天秤座に続いて火星が上る。三月のまだ冷たい風の中、ぼくらは空を見ていた。

 北の空に浮かぶ北斗七星。メラクとドゥーべを結んだ線上にあるのが天頂に輝くポラリス。その柄杓の柄をのばした先に位置するのがアークトゥルス。そしてスピカ。春の大曲線を追いながら星空を眺める。この二つの星にデボネラを加えたのが春の大三角だ。

 スピカが属する乙女座の足下にあるのが天秤座。そしてその下にあるのが蠍座。東の地平線上で情熱的な赤い光を放つアンタレス。それと競うように赤く輝く星、それが火星だ。

 今日の目標は火星観測、そのスケッチ。

 先輩は望遠鏡の接眼レンズをのぞき込みながら、ダイヤルを回している。目にかかりそうな前髪を、耳に挟んで邪魔にならないようにしていた。

 ぼくらが使っている一メートルほどの鏡筒の反射式望遠鏡は赤道儀台座の三脚で草むらのなかに自立していて、先輩の足下にはつけっぱなしの懐中電灯が転がされていた。焦点が合い、ぼやけていた像が鮮明になると、先輩は言った。

「さあ、見えたよ」

 接眼レンズから顔を上げる。

 映し出されたのは赤い星、火星。

 ぼくは鞄の中からスケッチブックと鉛筆を取り出す。

 全体的には赤と言うより茶色に近いかも知れない。そして真ん中には黒いシミのような模様が見える。像の上側、つまりは実際の下側、には南極冠が白く光って見える。

 先輩は腕を組んで感慨深そうに火星を見上げている。火星は好きな星のひとつだと、先輩は何度も言っていた。太古はアレス、マルス、ネルガルなど軍神として崇められ、現代に至っては人類の目指すべき場所として夢をかき立てる星、それが火星なのだと。

 そしてその夢は常に人類を惑わしてきた。

「ローウェルはこのどこに運河が見えたのかしらね」

 先輩は火星の画像を見るたび悪戯っぽくそう呟く。だがそれは一抹の寂寥感を伴ったものなのだ。もしもすぐ隣に友人がいれば何と心強いことだろう。

 星空を見上げたとき、孤独を感じる。互いに近くに見える星々も、実際は何十光年と離れている。広大な宇宙にあって、ぼくらは孤独なのだろうか。不安と恐怖、そんな思いが胸をよぎる。

 そうやってスケッチブックを抱えたまま夜空を見上げていると、ぽんと肩に手が置かれた。

「何感傷にひたってるのよ」

 振り向くと、微笑む先輩の姿があった。

 そうだ、別に孤独を心配する必要などない。さっき見上げたスピカだって連星じゃないか。何光年も隔てなくても、仲間は、愛しいひとはすぐそばにいる。 

 ぼくは微笑み返す。

 そして観測に戻った。

 ぼくは覚えているけど、先輩、あなたは覚えていますか? ぼくが天文部に入ることになった日、そしてぼくらが出会った日を。

 

 高校に入った当初は、天文部に興味など持ってはいなかった。文芸部に入りたいと思っていた。しかし、部員がおらず昨年度をもって廃部となったという事実が(元)顧問の先生から知らされる。ぼくは、はて、どうしたものかと思いながら小脇に本を抱えたまま中庭へ向かい、丁度良い木陰とベンチを発見したので、そこに座って、午後の読書を始めた。

 ぽかぽかとした春の陽気だった。しばらくすると睡魔に襲われ、気がつくと居眠りをしていた。


「きみ、こんなとこで寝て。風邪ひくよ、起きたら?」


 はっと目を覚ます。一瞬弱くなっていた視力が戻ると、目の前にその声の主が立ってる。制服に身を包んだ女の子。それがあなただった。桜が舞い散る中、微笑みながらあなたはぼくを見つめている。長い髪が風にふわりと揺れていた。

 それが出会い。忘れられない出会い。


「よだれ、ついてるよ」

 

 あなたは悪戯っぽく続けていった。口の周りの違和感に、自分がよだれを食って寝ていた、という事実を理解すると、急に恥ずかしくなってきた。

「す、すいません」

 ぼくはそう言ってハンカチを取り出し口の周りのよだれをぬぐった。そうしてまた前を見るとあなたはまだ微笑みながらぼくの前にいた。

「な、何でしょうか」

 あなたは何も言わず視線をぼくが持っていた本へとうつす。ぼくが困惑しているなか、あなたはひとりうんうんと納得するような素振りを見せる。ぼくの混乱を楽しんでいるようにも見える。なんだろう、この人は?

 そして、あなたはぼくらの運命をきめる一言を言う。


「きみ、天文部に入らない?」


 いきなり何を言っているのか良くわからなかったが、自分が(トールサイズの)『幼年期の終わり』を読んでいたという事実を思い出すと、微妙に納得がいった。つまりは、宇宙に興味があるのだろうとあなたは思ったのでしょう。でも本当のところは違う。別段クラークに思い入れがあるわけでもないし、ただ単に、このシリーズの本を良く読むだけだ。

「見学だけでもしていかない?」

 あなたはそう言ってぼくを誘った。あなたの笑顔に負けてしまったらしい。断わることに罪悪を感じそうな微笑みだった。

「どうかな」

 ぼくはその問いかけに頷いた。あなたは「よかった」と言ってぼくに手を差し出した。

「私、二年の鏡明日香。天文部の部長」

「……戸山望といいます」

「そう、戸山君、行こうか」

 そう言うとあなたはぼくの腕を掴んだ。突然のことに呆気にとられ、ついで顔が赤くなった。今になっていうのも何だけど、初対面の男子にするような行為じゃないと思う。

 でもそんなことをあなたは気にしない。「行こうよ、あっち」といってぼくを引っ張っていくのだ。天文部室へ、そしてその先の未来へと。


 先輩はぼくを地学実験室へと案内した。そして『準備室』という札の付いたドアをノックして入る。

「遠藤先生、入部希望者連れてきましたよ」

 先生はその時机に向かってテストの採点らしきことをしていた。顔を上げると、ペンを置いて、ずれた眼鏡を直し、言った「やあ、良く来たね」

 遠藤照美先生。天文部顧問。歳はぼくらと一回りも違わないような若い先生だった。

「いや、ぼくは決して入部希望という訳ではなくて……」

 ぼくはいった。

「あらそう?」と怪訝そうな先生の顔。「じゃあ何で来たのかな」といってちらりとぼくの横に立っていた先輩の方を見る。そして視線をぼくに戻した。

「まあ、でもここまで来たってことは天文に全然興味がない、ってわけじゃないのよね?」

「ええ、まあ」とお茶を濁すような返事。

 その会話を聞いて何か思いついたらしい先輩は、先生に向かって言った。

「先生、今夜も晴れそうですね」

「ええ、そうね」

 先生もその意味を理解したらしい。何を話しているかよく分からなかったぼくの方にあなたは向いた。

「今晩、暇かな?」あなたは尋ねた。

 ぼくは、はい、と答えた。

「なら、星を見よう」


 学校から車を三十分も走らせば周りに灯りがないような場所に着く。「天体観測にはうってつけの場所」だと先生は説明した。

 車のトランクから望遠鏡を取り出すと、二人はそれを手際よく設置している。

 時間は日が沈んだ頃だ。

 空はまだ暗いわけではなかったが、ぽつぽつと星が見え始めていた。ひときわ目を引いたのが 残る西の空低く明るく輝く星であった。

「金星だよ」あなたはぼくに説明した「『宵の明星』とも呼ばれる。地球より内側の軌道を回るから、太陽が昇る間際と沈んだ直後しか観測できない」

 金星。美の女神・ヴィーナス。その神秘的な輝きは古代人の心にも影響を与え、数々の神話を生み出した。

 望遠鏡の準備を整えているうちにだんだんと空は暗くなり星々の数が増す。その時ぼくが唯一判別できた星座、つまりオリオン座は金星とともに西の山へ沈んだ。

「さあ、準備が出来た」先生が言う。

 望遠鏡は南西の空へ向けられていた。後で知ったが、この方向には蟹座があった。

「覗いてごらん」

 促されるままに接眼レンズをのぞき込んだ。息をのむ。そこには、豆粒ほどの大きさのオレンジ色をした星。数本の縞模様が見て取れる。これは木星大気の上層部で常に強風が吹き荒れているためなのだ。

「これが木星。今夜はシーイングがいいわ。イオの影も見える」

 解説が入る。よく見ると木星の表面に黒い点があることが分かった。それがイオの影らしい。ガリレオ衛星の一つだという知識はあった。

「四つの衛星はガリレオ・ガリレイによって観測され、そしてマリウスによって名前がつけられた」

 先輩はぼくにそう解説する。それも今ではよく知っている。この衛星の観測でガリレオは地動説を確信したのだ。

 ついで土星が上ってくる。今度は望遠鏡がこの第六惑星へと向けられる。神秘的なリングに見とれ、ぼくも感動していたが、先輩の方がもっと興奮していた。

「カッシーニの間隙が見えた!」

 先輩は歓喜してぼくに向かって土星の説明を延々とした。その熱心な姿をぼくは今でも覚えている。

「この輪っかのなかに、黒い影が微かに見えるでしょ。それがカッシーニの間隙。土星の六つの輪のうち、A環とB環の間にある隙間よ。知ってる? 土星の輪って内側から順にABCDってなってるんじゃないのよ……」

 天球の回転につれ、ぼくの心は動いていた。天文という選択肢もいいかもしれないと思い始めていた。純粋にこの美しい天体ショーに惹かれたのもあるし、もちろん、他の要因もある。先輩には話さなくてもそれはお分かりでしょう?

 そして、もう日付も変わるだろうという頃、ついに夏の大三角が東から顔を出し、その日の天文ショーは幕を閉じた。


「私からご両親に事情は説明するから。こんなに遅くまでごめんね」

 先生は帰りの車の中でぼくに言った。

「いえ、大丈夫です。それに、楽しかったですし」

 ぼくは答える。二人はにこりとした。

「それは良かったわ。……ところで、天文部に入ってみたいとは思わない?」

 あなたはぼくに尋ねた。ぼくは先輩の方を向くとその顔を見た。ぼくは頷いていた。

「よかった! ありがとう!」

 あなたは笑ってそう言うとぼくの手を握った。少し照れくさくて、視線をそらしたみたいだった。先生はずっと微笑んでいた。


 ぼくは放課後をよく部室で過ごすようになった。天体観測をするのは主に週末の夜になるから、普段は特にすることがなく、本を読むぐらいだった。

 あるとき、一人で部室で本を読んでいたとき、先生が入ってきた。先生は教務机に腰掛けた。部室は今では遠藤先生しか使わない、地学準備室を改装したものだった。

「何を読んでるの?」

 先生はぼくに問いかけた。ぼくは本の背表紙を見せてタイトルを示した。

「へえ、『楽園の泉』ね……」と先生「そういう本なら何冊かそこの本棚にもあるよ」

 先生が示した本棚には地球科学の専門書に混ざって数冊水色の背表紙の文庫本が並んでいた。

「基本的には私の本だけど、明日香ちゃんのも確かあったはず」先生は白衣を翻し立ち上がると本棚に向かった。「……あった、これだ」

 そう言って先生の引き出した本には『火星年代記』とタイトルが書かれていた。

「タイトルで買ったみたいで、読んだあとはなんだか寂しそうな様子になっていたわ」

 それはそうだろう、と思う。火星を見上げてしんみりとする人だから。ほんとうには、火星人もいないし、人間も火星には行ってはいない。そしてブラッドベリの描いた火星人も、地球人とは、友達にはなれなかったのだ。

「後のは全部先生の買った本なんですよね」

「そう。気になるのがあったら借りていっていいよ。そこにある黄色い表紙もそうだし。『銀河ヒッチハイクガイド』はおすすめ」

「先生はSFが好きなんですか」

「まあ、そうだな、それで地球科学を専攻したっていうのもあるし」

 先生は少しずれた眼鏡を直しながら言う。

「君も興味あるんじゃないの? それ読んでるってことは。前も『幼年期の終わり』を読んでたみたいだし。それで明日香ちゃんに声かけられたんだよね」

「そうですね」と苦笑しながらぼくは答える「いえ、特別好きな訳じゃなくて、いろんなジャンルの代表的作品を読んで見ようと思って。面白かったですけれど」

「それでアレを選ぶとはなかなかいいセンスだね。え? 今の様子じゃ火星年代記も読んだことは……」

「まあ、一応は……」

「ほほう、でどう思った?」先生はずい、と身を乗り出すようにして尋ねてくる。

「あ、いえ、まえ一度読んだだけですし」

 何かスイッチを入れてしまったかも知れないな、どうしよう、と思っていたところでドアをノックする音がして、先輩が入ってきた。学校指定の鞄の他に、紙袋を抱えている。

「こんにちは、先生、戸山君」

「こんにちは。それは何?」先生は紙袋に視線を移して尋ねた。

「兄さんの筑波のお土産」と先輩は紙袋を机の上に置く。椅子に鞄を置くと、先輩は紙袋から中身を取り出した。

 箱のパッケージには『かぐや二号記念・モノリスようかん』とあった。

「先輩のお兄さんって、JAXAの関係の方なんですか」

「まあね」と包装紙をはがしながら先輩「今は東工大の院生だけど、でも探査機の開発に携わっているわ」

「その話は何度も聞いたよね」と先生は棚からナイフと皿を取り出しながらいう「火星探査機だっけ」

「そう」と先輩「戸山君にはまだ話してなかったかしら」

 先輩は切ったようかんを一つ口に含んだ。

「火星は私の兄さんの夢なの。昔からね」

 そして先輩はお兄さんの話をはじめた。

「今年の夏、兄さんの設計した火星探査機が打ち上げられる。火星に着くのは一年後だけど、でも、成功によろこんでいる兄さんの姿が想像できるわ」

「火星ですか」

「うん。しかもただの探査機じゃない。世界初の、太陽帆による惑星探査機よ」

 太陽帆。光子を風のように帆にうけて進む宇宙船だ。概念自体はケプラーの頃からあったらしいが、それが実証されたのはごく最近だ。太陽帆の航行能力は金星探査機「あかつき」と一緒に打ち上げられた「イカロス」により示されていた。今度はこれで惑星を狙うのだ。

 ようかんをもう一切れ先輩はとった。

「そうだ、打ち上げは夏休み中だし、どう、一緒に見に行かない?」

 先輩の問いかけに、またしてもぼくは頷いた。


 打ち上げ当日は台風の影響もなく快晴であった。イプシロンロケットは轟音とともに発射台を離れ、噴煙を噴き上げ、ぐいぐいと上昇し、ついには雲のかなたに消えていった。打ち上げは成功した。

 この後「ひかり」と名付けられた火星探査機は月でスイングバイを行った後、太陽帆を展開し、光子を受けて加速しながら火星への軌道に乗った。

 兄は感涙にむせいでいた、と先輩は語っていた。普段冷静な兄が涙を流していたのは三度目だという。一度目は一〇年前、「のぞみ」が火星軌道投入に失敗したとき。もう一度は六年前、「はやぶさ」が地球に戻ってきたとき。日本の宇宙開発の歴史と伝統を負いながら、火星への再挑戦を果たそうとしていた。


「化学ロケットは確かに瞬時に大きな推力を得ることが可能だ」先輩のお兄さんは語る「しかそれではだめだ。そんなのではすぐ近くの惑星にしかいけない。火星には行けるだろう……でも、そんなんじゃだめだ。

 ソーラーセイルはその点がいい。燃料は一切いらないぶん軽量化できる。我々はこれでまず火星を目指すんだ。このミッションが成功すれば、一つのマイルストーンとなるだろう」

「マイルストーン?」ぼくは聞く。

「そう。我々は更に遠くを目指す。木星、土星……そして太陽系の外、遙かな星の世界を。それが僕の夢なんだ」


 そして今望遠鏡で見上げている火星に向かってその夢は飛んでいるのだ。


「ふう、スケッチできた」

「どれ、見せて」先輩はのぞき込んで、ぷっ、と失笑するような声を出した。

「スケッチは上達しないね」

「ほっといて下さい」ぼくはふて腐れたように言う「これでも精一杯やってるんですよ」

「でもまあ、南極冠はしっかり描けてるし、まあいっか」

 そして、写真を数枚撮って、その日の火星観測を終えることにした。


「さてと、何したい?」

 先輩はぼくに尋ねる。今日の目標が一応達成できたので、余った時間で何をしようかということだ。

「土星が昇ってきてるし、土星、っていう手もあるけど」

「星座の観測でもしませんか?」

「星座? 月並みだけど……たしかにたまにはいいかもしれないわね。ほら、私の天秤座も出ているし」

 先輩の誕生日は十月三日。そういう意味だ。

 その天秤座から天頂方向へ視線を移す。全天最大の星座へびつかい座(へび座を含んだ場合)があり、α星のラス・アルハゲの白い輝き。そしてそのすぐそばにラス・アルゲティの赤い輝き。望遠鏡を使えばこの赤い星は連星だとすぐ分かる。

 先輩は望遠鏡の倍率を下げてそれを天秤座の方へ向けている。手元に星図表を持ち出して、それを懐中電灯で照らしながら見ていた。ふと先輩が声を上げる。

「あれ、こんな所に、星あったっけ?」

 その一言が全ての始まりだったのかも知れない。

 ぼくは先輩に代わり、望遠鏡をのぞき込んだ。

 十等星ほどと見えたが、星図にそれに当たる星はない。「人工衛星……じゃないですよね……もしかして!」

 手のひらが汗ばむのを感じた。心臓の鼓動が高まる。

 ビデオカメラを取り付けその星を追跡する。一時間後、それは天球の星々とは別に動いていた。

「これは……」

 二人は顔を見合わせた。この事実が示すことは一つだ。

 シートを倒し車で寝ていた先生をたたき起こした。

「先生、これ見て下さいよ!」

 先生は不機嫌そうに目を覚ます。そして頭を掻きながら望遠鏡の所までやってくる。この一時間の動きをノートパソコンで見せた。 

 その意味を理解すると、かっと目を見開いた。手が震えていた。次いで膝を叩いて笑い出した。

「天文台に問い合わせる必要があるだろうけど、多分君たちの思っている通りだろうね」

「ということは、つまり……」

「そう」先生はいった「新しい彗星を見つけたんだ」


 国立天文台の追認によりそれは新しい彗星だと確認されたのは、数日中のことだった。先輩の名前と、もう一人のオーストラリアの観測者の名前を取ってボーネット・カガミ彗星と命名されたその星は、女子高生が発見したこともあって、人々の関心を呼んだ。

 先輩は地元の新聞やテレビの取材をうけたし、新聞部も一面の記事を掲載した。先輩は学校の有名人になった。

 先輩の所に発見のエピソードを聞きに来る人もいた。


「小学生の頃見た彗星が記憶に残っているわ」

 彗星は火星とならんで自分の好きな星だ、そう先輩は言う。四年前、NASAのMSL探査機が火星の砂を持ち帰ったときと同じくらい、二年前にチュリュモフ・ゲラシメンコ彗星に探査機ロゼッタが着陸したときも、興奮したそうだ。

「昔見上げたこの二つの星が自分を天文学へと向かわせた。彗星を見つけることは昔からの夢。それが叶って凄くうれしい」

 先輩は満面の笑みをたたえていた。

 


 地上の電波望遠鏡が強力な電波を受信するようになったのは四月の半ば頃からである。その電波は天秤座方向から観測されていたが、その発信源が特定されたとき、天文学界に衝撃が走った――電波はボーネット・カガミ彗星から発されていたのだ。

 ハップル望遠鏡が彗星に向けられ、結果、その小天体は彗星ではないと判明した。変わって、その直径がおおよそ三百キロであり、またどうやら自転していないという事実が判明した。光度が変化しないのだ。

 更に数日のうちにこの天体にさらなる奇怪な性質が加わる。本来、太陽に接近した天体はケプラーの第二法則に従って速度を上げるはずである。しかし、この天体は明らかに速度を落としていた。

 自転せず、三百キロの直径を持ち、電波を発し、そしてケプラーの法則に従わない天体。その様な天体はかつて観測されたことがない。

 巷ではブラックホール説や中性子星説といった説のほか、異星人の乗り物ではないのかといったようなオカルティックな説が流れた。ただ、惑星の軌道に影響を与えていないところから見て、巨大な質量を持つ天体とは考えられなかった。

 天文学者はこの天体の調査を強く望んだ。しかし今から探査機を打ち上げるには遅すぎる――そこで、唯一ランデヴーが可能だとして白羽の矢が立った探査機があった。火星探査機「ひかり」だった。

 少しの軌道調節をすれば火星軌道の外側でカガミ彗星とランデヴーすることが可能だった。しかしそれは火星探査ミッションを放棄することを意味する。

 五月、JAXAは「ひかり」のミッションの変更を発表した。火星軌道には乗らず、彗星とのランデヴーを目指す、というものだった。



「確かに興味深い天体かも知れないけど、でも、兄さんの夢を諦めさせてまでのものじゃないじゃない」

 先輩は自分のお兄さんに電話をかけている。お兄さんは今宇宙局にいて、自分がつくった探査機が火星をフライバイしていく姿を見守っているのだ。一度泣いたに違いないと、ぼくは想像した。

「火星にはいつでも再挑戦できる。でも、この星はこれっきりだろう。仕方ないさ。上もそういっているし」お兄さんは答える「それに、明日香の見つけた星だろう? 明日香も気にならないのかい」

「それは……」声が詰まる。

「君は火星も好きだったけど、星に興味を持つようになったきっかけは彗星だったじゃないか。あの彗星は日本人が見つけたんだよ、とぼくが説明すると『自分も見つけたい』と明日香はいった。彗星は明日香の夢の原点じゃないか」

 無言。

「あ、ちょっと呼ばれてるみたいだから行かなきゃ。ごめんね。じゃあまた」

 そう言って先輩のお兄さんは電話を切る。携帯電話を閉じて握りしめた先輩はうっすら目に涙を浮かべていた。

――あんな星、見つけなきゃ良かった。

 そう言ったように思えた。あの星はぼくらが見つけなくても誰かが見つけていたことは確実だ。だがその場合はわけが違う。自分の名前が彗星につくこともなかったし、この彗星にこれほど愛着を持つことはなかっただろう。

 日が暮れた帰り道、東の空を見る。丁度天秤座が昇ってきた。もうじき火星も昇るだろう。


 七月、「ひかり」が「彗星」にランデヴーする時がきた。ぼくらと先輩のお兄さんは宇宙局の好意で管制室でそのランデヴーの様子を見ることができた。この映像は全世界に中継されることになっている。

 先輩は鬱みたいに沈んでいたが、お兄さんは殆ど冷静に自分の探査機が新たなミッションを無事こなしてくれるかを見守っていた。一度感情を出してしまえば、驚くほど客観的になれるようだ。

 「ひかり」が目標の一万キロまで接近したとき、カメラが撮影を開始した。数億キロ彼方からの映像が映し出されると、途端、映像を見ていた人間全員の動きが止まった。

 ぼくもはじめ何を見せられているかは理解できなかった。だんだんとそれが何か分かってきたときには、さらに唖然とせざるを得なかった。その可能性も考えてみたことはなかったかも知れない。しかし、まさかと思って切り捨てていたのだ。

 先輩も声を失っていた。血眼になり、前のめりになって、画面を見つめている。先輩は、自分の見つけたものの意味を初めて知った。

 先輩のお兄さんは意外と冷静だった。わずかの間言葉を失っていたが、溜息をつくとつぶやいた「遠くの奴らも同じ事を考えたんだ。そして先を越された」

 かつてお兄さんは太陽帆で星の世界を目指すといった。その星の世界のほうがこちらへやってきたのだ。ぼくらの『夢』の、何百倍もの大きさで。

 画面に映し出されたのはCDの様にも見える円盤だった。はじめは小さかったが、次第に大きくなっていく。何の変哲もないような円盤だったが、それが人工物であることを疑うものは決していない。

 現代が終わり、未来が始まる瞬間。昨日までの歴史に世界は決別し、ここから新たな歴史が始まる。過去と別れることに、不思議と悲しみはなかった。クラークの言葉が脳内にこだまする。

 人類はもはや孤独ではない。

 

 ボーネット・カガミ彗星の正体が異星文明による巨大な太陽帆船であるということは、すぐさま世界の知るところとなった。探査機が撮影した動画は何度もニュースで流れた。探査機の画像から、この恒星船の直径は二九一キロだと計測され、さらに、ゆっくりと回転している事も判明する。その周期は三十分とされた。

 探査機はもう一つ成果を残した――その人工物はどこから来たか突き止めたのだ。探査機は恒星船の後方に回ったとき、一分間の沈黙を経験した。これは強い放射線ビームを横切ったためだと推測された。このビームこそこの宇宙船が、母星との通信に使っているものなのだ。

 その方向にはグリーゼ581という赤色矮星がひとつあった。天秤座に位置し、地球からの距離は二十光年で十等星という非常に暗い星であったが、この星には四つの惑星が知られており、そのうち一つについては生命の存在が議論されていた。

 すぐさまこの母星と恒星船に向かってメッセージが発された。返信メッセージが母星から返ってくるのは四十年後だが、船からはすぐに返信が来ると思われた。

 数日経つうちに、返信がないことに科学者たちは焦り始めた。これはこの恒星船がただの探査機であることを示唆しているのではないか、もしかすると人類に気づいていない、気づいていても取るに足らぬ種族として無視しているのではないだろうか……?

 しかし彼らは決して無口ではなかった。

 地球人たちの関心と恐怖が頂点に達し、船が火星軌道を横切り、その目的地が地球であることが明確となったその時、最も劇的な方法で、彼らは地球人に語りかけ始めた。それは堅苦しく古風ではあるが明瞭な英語であった。地球外知性との初の会話はかつて想像されたような何光年もの距離を隔てたものではなく、たった数分のタイムラグを伴って行われたのだった。


「私が見つけたものって、とんでもなかったのね」

 先輩は呟く。だがその言葉に前のような失望はなかった。ぼくも同感だ。暖かいものが心の中に広がっていくように思える。

 部室のドアが開く。先生が新聞を持って入ってきた。

「どの新聞も天秤座文明についての記事ばかりだよ」

 先生は新聞を机の上に放り出した。

「グリーゼ581の第四惑星の大気の主成分は窒素みたいだよ。窒素を呼吸する赤色矮星人っていうのも、面白そうじゃない」

「どんな姿をしているんでしょうね」ぼくは言った。

「さあ? でも、オーヴァーロードみたいな奴らじゃないことは確かじゃない? せいぜい私たちより千年進んでるくらいだよ」

 先生は、ははは、と笑った。

「クラークも百歳まで生きていたら、この瞬間が見えたんでしょうか」ぼくは先生の方を振り返りながら、しみじみと言った。

「たぶん」先生は微笑でいる「でも、あの人は今はきっとオーヴァーマインドか何かになって私たちを見ている気がする。ヤッカガラから昇っていったんだ」

「そうかも知れませんね。軌道上からぼくらを見下ろしていたりとか」ぼくは先輩の方に向き直った。

 先輩は顔を上げた「今晩、星を見に行こう」

「え」とぼくは一瞬驚いた「あ、確かにいろいろ忙しくて最近望遠鏡覗いてないですね」

「恒星船ならそろそろ二等星くらいに見えるはずだけど……」と先生。

「そう言う事じゃない。ただ、星を見たいだけ」

 先輩は呟いた。

「そうすると落ち着くと思う。まだ十分に気持ちの整理が出来てないから……」

 ぼくと先生は顔を見合わせた。その答えは同じだった。

 その晩は三人で、久しぶりに星空を眺めた。天秤座の一角には、見慣れない明るい星が輝いていた。満月に照らされた先輩の顔は、哀愁を漂わせていた。



 秋の夜空を見上げると、東に十六夜月が輝いている。そしてそのすぐそばに、明るい光点がもう一つ。望遠鏡を使えば異星文明の姿が拝めるはずだ。

「もうすぐ、月からの中継が始まるよ」

 遠藤先生が屋上のドアを開けてやってきて、ぼくらに声をかける。九月、異星の恒星船は月周回軌道に乗った。コンタクトのため、NASAは月探査計画を前倒しして、二基のオリオン宇宙船を打ち上げ月に向かわせた。その歴史的接触の様子がテレビで中継されるのだ。

「あ、先生、眼鏡はどうしたんですか」

 ぼくは何もかけていない先生の顔を見て、不思議に思った。

「コンタクトにかえてみたんだよ。生まれて初めてだ」

「ファースト・コンタクト……?」

 ぼくは苦笑しがちに呟いた。

 先生はにやりと笑っただけだった。

「月が綺麗だね」先生は言う。

「本当。こんなに綺麗な月は初めて」

 先輩は長い髪を風になびかせながら呟く。哀愁だけでなく、希望も感じられるような声だった。そしてぼくの方を向くと、にっこり微笑む。

「いこうか」

 そしてぼくの腕を掴んだ。

「さあ、はやくしないと! 歴史に遅れる!」

「ちょっと待って下さいよ」

 ドアをくぐり屋内に入る一瞬前、ぼくは月を見返す。

 月は美しく輝いている。ぼくらの幼年期は終わった。そして、新しい歴史は今ここから始まる。それは人間の歴史であって、そして、ぼくとあなたの物語なのだ。


8年くらい前にサークルの新刊号用に書いた文章です。

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