にゅうぶプリンセス
菜翠は入部届を片手に持ったまま、部屋の前で固まっていた。
九月初めに行われた『星花祭』が終わってから数日後、料理部に入る決意をした菜翠は放課後、家庭科室まで訪れるつもりだったのだ。
料理の経験は祖母の調理の手伝いをしたことくらいであったが、それはあくまでお駄賃目的で、料理自体に関心があったわけではない。その菜翠がお料理の道を志すようになったのには事情があったのだ……。
◇ ◆ ◇
事の発端は星花祭の一週間前にさかのぼる。夜中、寮部屋でいつものようにお互いの体躯を悦ばし合っていた二人だが、突然、玲がこのようなことを言い出したのだ。
「菜翠、指の動きが変だわ。何を悩んでいるの?」
指使いからすぐさま悩みと結びつけるのも思えばすごい理論だが、その理論がズバリ当たっているのだから菜翠としては苦笑するしかない。
玲の慧眼に敬意を表し、菜翠は率直に自分の思いのたけを打ち明けることにした。その笑みには翳りがあった。
「……ボク、きちんとレイに恩返しできてるかな?」
「何を言ってるの? 菜翠」
玲がまじまじと見つめていると、菜翠は笑顔を消して、必死げな表情になった。
「だってさ! レイはボクのためにいろいろしてくれてるでしょ? ボクの新しい服やアクセもレイの家のお金だし……。それにひきかえ、ボクがレイにできることがあまりにも小さすぎて……なんだか自分が情けなく思えてくるよ」
「……? 別にそんなこと気にしなくていいの。玲が好きでやってることなんだから」
「それはわかってるよ。でも……それじゃボクの気が収まらないんだ」
玲は不思議そうに首を傾げるばかりだ。ルームメイトが何に苦しんでいるのか、いまいちピンと来てないらしい。だが、恋人の苦しみを共有できないのは気分の良いものではなかった。
「菜翠、ひょっとして玲のこと嫌いになった?」
「違うよ! むしろ、レイのことがスキだから、もっとレイに尽くしたくて……」
『エモノ』の愛情を再確認出来て、玲はいたく気をよくしたようであった。
「じゃあ、どうすれば気が済むわけ?」
「ソレがわかってれば初めから悩まないよ……」
一体、自分の心は何をすれば満たされるのだろう。どうやって恩返しすれば自分は彼女に負い目を感じずに恋人として過ごせるのだろう。
もう! と玲の辛抱は限界のようだ。情事の途中でこのような会話を続けたら熱が冷めると言いたげである。
「そんなに満たされたいなら、玲がめいっぱい可愛がってあげるから。難しいことも何もかも考えられないようにしてあげる……!」
……結局この日の夜は、普段は一回で済ましたことを三回やらないと許してもらえず、半ば失神する勢いで菜翠は眠りに落ちた。身も心も満たされたと言えなくもないが、きっと自分が本当に求めているのはこういうことではないと思う……。
◇ ◆ ◇
結局、心のわだかまりが払拭できなかったので、菜翠はそうそうに諦めて友人に相談することにした。水泳部の副島瞳は星花祭の準備に駆り出されていたらしく、時間にゆとりのある城咲紅葉に悩みを打ち明けたのだった。
「好きな人に何をしてあげられるか……ですか?」
「そうなんだ。その人は傍にいてくれるだけでいいって言ってるけど、それじゃボクの気が収まらなくて。……あのさ、クレハ。これってボクのワガママなのかな?」
「とんでもない。筧さんに思っていただいてその方も幸せだと思いますよ」
紅葉の優しい声に菜翠の顔もぱあっと明るくなったが、同時に彼女に対しては後ろめたさもある。菜翠は表向きは王子サマに憧れるオシャレな女の子で通しており、ルームメイトどうしで付き合っていると(あれだけのことをしておきながら)紅葉に打ち明けるのに抵抗があったのだ。まさか彼女も好意を寄せている相手が女の子だとは思うまい。
紅葉はその点はあまり気にしたようすはなく、真剣に考えた結果、菜翠にこのようなことを提案した。
「では、お金で購入できないものをその相手に提供されてはいかがでしょうか」
「お金で買えないモノ……?」
「そうです。たとえば……手作りのものを贈ったり、手料理を振舞ってみたりとか」
「うーん……」
菜翠はウイッグを付けてない黒髪をいじった。正直なところ、手先の器用さに関しては菜翠はあまり自信がない。玲はすでに手芸部に入っており(その割には活動している様子はまったく見たことがないが)、ぬいぐるみの修繕ていどはお手の物だ。その子たちのアクセサリーを作ったところで、玲に微妙な顔をされないか不安なところはある。
ただ、料理なら……試してみる価値はあるかもしれない。玲の食事は実家では愛結を始めとしたメイドに依存しているだろうし、学校でも菓子パンばかりであったはずだ(食堂を利用しないのは匂いがつくのが嫌だからとか)。祖母から料理のイロハは一応教わっているし、手作りのお菓子でも提供すれば、彼女が喜んでくれる可能性は高いといえる。
「どうやら、心が決まったようですね」
紅葉の笑顔が、菜翠の整った顔にも映ったようだった。
「うん、クレハに相談してよかった。どうもありがとう」
「いいえ、とんでもない。筑波さんに想いが伝わるといいですね」
「ふえぇっ!?」
図書室の一帯にけったいな悲鳴が響いた。紅葉は口元に人差し指を当てると、いたずらっぽく眼鏡の奥の瞳を光らせていた。
「お二人の様子を見れば、仲が深くなっているのは丸わかりですからね。誰もあえて口にしないだけで」
「そ、そうなんだ……」
(まさかボクとレイが、寮であんなコトやこんなコトをしてるなんてことまで知られてたら……!)
一気に顔面が蒼白になる菜翠に、紅葉は焦ったようだった。
「あ、あの。別にそこまでショックを受けなくても大丈夫ですよ。聞いた話では星花女子では同性どうしでお付き合いされることも稀有なことではないわけですし」
「な、なるほど……。ちなみに、クレハは?」
「意中の方はまだいらっしゃいませんが、こんな私でも好いてくださる方がいてくださるのなら星花からお相手を決めるのも悪くないですね」
幸せそうに紅葉は微笑む。その笑みは菜翠に「なるほど、女の子どうしで愛し合ってもいいんだ」と実感させるものだった。玲と愛し合うことに対してあまり後ろめたさを感じなくていいのかもしれない(さすがにエモノとケモノごっこは恥ずかしいとは自覚しているが)。
◇ ◆ ◇
……彼女の言葉に後押しされるかたちもあり、菜翠はささっと入部届に条項を記入し、家庭科室まで訪れたのだが、ここに来て、急に臆病風に吹かれてしまった。
星花祭が終わって間もないということもあって、家庭科室は静かなものである。まったくの無音というわけではないが、そこにいるのは一人か二人がせいぜいといったところ。それが菜翠をかえって委縮させた。大勢の部員にもまれるならともかく、一対一の会話などいかにこなせばいいのかわからないのだ。
ガララッ!
いきなり扉が開かれて、菜翠の背筋がぴんと跳ねた。菜翠も驚いたが、扉を開けた人物も驚いて目を丸くしている。フレームレスの眼鏡を持ち上げ、固くなった菜翠をまじまじと見つめて尋ねる。
「あら、もしかして入部希望者かしら?」
料理部の一員であることは、胸にかけられたエプロンで菜翠にもすぐにわかった。ずいぶんとフリルがあしらわれたシロモノで、それが菜翠の好感を誘った。
優しそうな先輩で良かったと、菜翠は安堵をおぼえながらうなずきを示す。背丈は菜翠と同等で、淡い褐色の柔らかい長髪を後方で束ねている。ちらりと視線を動かすと、温和そうな顔立ちに対して身体つきはずいぶんと小悪魔的なようである。エプロンを押し上げる胸はずいぶんと挑戦的で、スカートから伸びた脚の肉づきも、標準以上の掴み心地がありそうだ。
エプロンの先輩は菜翠の緊張をほぐすような笑顔で、彼女の入部を受け入れた。
「初めまして。私は料理部部長の理純諸美と言います。部長と言っても、先輩から引き継いだばかりなの。新人どうし、どうかよろしくね」