『エモノ』と『ケモノ』
「れ、レイ……?」
いきなり一糸纏わぬ姿となった玲に、菜翠は激しい胸騒ぎをおぼえた。少し痩せた玲の裸体に息を呑んだのもあったが、何やら取り返しのつかないことが起こりそうな気がして恐怖におののいたのだった。
震える声で菜翠が尋ねた。
「レイ、あのさ……『ちぎり』って何なワケ……?」
「仲直りのしるしとして、今から玲と菜翠は一つになるの……。お互いがケモノとなってエモノとなって……相手のすべてを味わい尽くすの……」
玲の両眼はうつろで、足取りは同じくらいうつろだった。肩にしがみつき、浮かぶ笑顔が何だか人ならざるものを感じさせて、菜翠は表情を引きつらせた。
「れ、レイ! ちょっと待って……!」
思わず玲の手を払いのけてしまい、その玲は失望の表情を浮かべて菜翠を見つめた。
「……どうして? 菜翠は好きな服を着たくないの? 玲が望む限り一緒にいてくれるというのは嘘だったの……!?」
涙ながらの訴えであると同時に非難めいた言葉でもあった。軽はずみに一緒にいたいなどと約束してしまった菜翠にとっては胸に突き刺さるものだった。別に服を着られるという誘いに乗っただけではなかったのだが。
玲は菜翠の返答を待たなかった。有無を言わさずブラウスのボタンを外そうとしたとき、いきなり部屋のガラス戸が開け放たれた。
ピーーーーーーッ!!
「ダメですお嬢様っ! いくら菜翠さんに飢えていたとはいえ、そんな風にがっつくのはマナー違反です! 零点です! ナンセンス極まりないですよっ!」
けたたましいホイッスルの音に続いて、美人の和装メイドである宇海愛結がすごい剣幕で飛びしてきた。エモノを堪能しようとして水を差されるかたちとなった筑波家の令嬢は、自分のメイドに対して殺気立った視線を向けたのだった。
「……何? 今から菜翠を味わうとしてたのに邪魔しないで」
「何も菜翠さんとのまぐわうなと言うつもりはありません。ただ、こういう契りを交わすときは、もっと最高潮のムードでおこなうのがすじだと、わたくしは思うわけですよ~!」
なおも怪訝な表情をするお嬢様に、愛結は菜翠が以前見たようなゆるゆるとろとろの笑みを浮かべたものだ。
「順番が前後しましたが、お立ち直りいただいたようで心から安堵いたしました。わたくしもう、気を揉んで揉んで揉んで揉んで揉んで揉みまくって、自前の胸がもぎ取れちゃう勢いでひとり揉みしだいでおりましたの」
「そんなことより、最高潮のムードって何なの?」
「お教えいたしますわ。どうかそのそそられる小振りなお耳を貸してくださいましまし~」
不審な表情ながらも素直に耳をそばだてる玲に、愛結がささやき声を注ぎ込む。その光景を見た菜翠は不思議な安堵感をおぼえた。一時的に危機感が去ったのもあるが、二人のやり取りが何やらとても懐かしく感じられたのだ。
そして、話を聞いた玲は「悪くないわ……」と頷いてみせると、菜翠に対して改めて呼びかけた。
「話がまとまったの。玲の後についてきて」
すっぽんぽんのまま、部屋を出て行ってしまう。この場で一人残るわけにもいかず、アユさんの優しい視線にうながされるかたちで続いた。
平然と全裸で廊下を歩く(しかも心なしか足取りが軽い)玲についていき、たどり着いたのは風呂場だった。菜翠としても初めて訪れる場所ではない。以前、(半ば強制的に)お泊まりに来たときに利用したことがあった。
「お着替えは後ほどお運びいたしますので、どうかおふたりは中でおくつろぎを……」
如才なく言うと、愛結は意味深な笑みを浮かべて脱衣所を後にしてしまう。玲の催促するような視線を受けて菜翠はたどたどしい手つきで服を脱ぎ始めた。タオルで前を隠しながら浴室へ一歩足を踏み入れ、菜翠はすぐに異変に気づいた。
内装はこのまえ見たとおり、庶民の家ではとうてい真似できないであろう立派なヒノキ風呂であった。菜翠が違和感をおぼえたのは空間に充満する匂いのほうだ。以前はこのような芳しいものはなかった。メイドの愛結が気を利かせてお香でも焚いたのだろうか。
「タオルを取ってそこに座って。玲が菜翠のことを綺麗にしてあげるんだから」
一瞬のためらいの後、菜翠は言うとおりにした。ここで逃げたとしても、廊下を全裸で駆け抜ける勇気は菜翠にはなかったのだ。
前を晒して、木でできた風呂椅子に腰を下ろす。玲はその背後でかがみ、持ってきたボディソープから液体を出し、両手でこすって泡立てた。
「…………!」
口から心臓が飛び出そうな衝動が迫り、菜翠は背後を振り返った。玲はボディタオルではなく自分の前身に泡をつけて、菜翠の背中にこすりつけ始めたのだった。すべすべとした肌の感触だけでなく、小さく柔らかな突起の上下に動いているような。
「れ、レイっ……!」
よくわからないが、さすがにイケナイことをされていることを理解できた菜翠は慌てて玲の奇行をを止めさせようとしたが、それを受けた玲は、逆にムキになったようすで、せわしく胸を擦りつけた。
得体の知れない感覚に菜翠はパニック状態におちいったが、その原因は玲の暴走のみにとどまらない。この危機に向けてどうにか判断をめぐらせないと、というときにその頭がうまく働いてくれないのだ。単に焦っているだけではない。脳自体がけだるさをおぼえているようで、抗議しようにも舌が動いてくれないのだ。
ろれつの回らない菜翠に、玲が妖しげに微笑んだ。
「愛結の焚いてくれたお香、頭の判断を鈍らせる効用があるの。抵抗しようたって無駄なんだから……」
その言葉に嘘はないだろう。その証拠に、玲の言葉もだいぶ鼻がかったものになっている。ピンク色に染まった顔の中で、両の瞳だけが欲望にたぎらせた鋭い光をたたえている。それはまさにエモノを目前にしたケモノのものだ。
恐怖で泣きそうに顔をゆがめる菜翠に、玲は安心させるようにささやいた。
「大丈夫。大量じゃないから、玲たちが壊れることはないの……。メチャクチャにしたいとは思うけども」
「や、ヤっ……!」
それだけ言うのがやっとの有様の菜翠である。それによって、玲の声がさらに耳元の近くでひそめられる。
「問題ないの。何も怖くないから、玲にすべてをゆだねればいいの……」
そう言って背中に張りつきながら、嬉々として菜翠の身体の前に両手を這わせるのだった……。
とろみがかった意識の中で、菜翠は、玲の肌の感触、指のうねりだけははっきりと感じた。そして普段のものとはまったく別のふたりの声の中で、菜翠は自分の肢体の新しい一面を知ることとなった。
すべてが終わり、余韻がまだ残っているなかで菜翠が思っていたのは、生理的嫌悪ではなかった。代わりに強い恐怖感に苛まれ、菜翠は玲と愛結になだめられながら、しばらく筑波邸の寝所で泣き腫らしていた。
菜翠のいう恐怖は、もう普段の日常に戻れなくなるのではないかというものだった。親に対して、学校の友達に対して、どんな顔をすればいいのか、まるで見当もつかなかったのだ。
だが、この出来事があったから、今の自分と玲があるのだと、菜翠は確信している。あのときの恐怖を乗り越えた今となっては、ふたりの初めてはお互いにとって、かけがえのない記念日となったのだ。