なかなおりプリンセス
そして運命の日、当日。
菜翠は地図と駅前の案内板をたよりに単身、筑波邸に向かっていた。
もともと方向感覚にさとい菜翠ではなかったが、絶対に玲に会わねばという意志の強さが功を成したのか、正門に辿り着くまで大した時間のロスはなかった。
だが、筑波邸の大きな正門が開いたとき、思わぬ妨害が入ったモノだ。
「なっ……何ッスか貴様はッ。カケーさんの名前を騙って屋敷に忍び込もうとする不届きなやつッス。この場で成敗してくれる!」
インターフォンに応じたのは、たまたま近くで庭掃除をしていた安長飛鳥であった。先輩メイドの愛結から話は聞いていたのだろう、嬉々として門を開けてくれた。だが、現れた菜翠の姿を見るなり、ハチマキ和風メイドは愕然とし、いきなり表情を険しくさせた。何の格闘技のものかは菜翠には見当もつかないが、とにかく戦闘の構えをとっており、強烈な敵意を剥き出している。
菜翠は気さくなメイドの変わりように驚きつつも、果敢に訴えかけた。
「だから、ボクがそのカケーさんなんですってば! レイに会わなきゃいけないんだから早くそこを通してくださーーい!」
「ええい黙れいッ! この前見たカケーさんと比べて髪も格好も全然ちがうじゃないッスかーーっ!」
確かに、今の菜翠はウイッグを付けておらず、格好も星花女子の夏服であった。夏でも制服の下に薄手のお洒落なストッキングを穿いている菜翠であるが、今はそれすらしておらず、学校指定のソックスを履いている。玲を傷つけてしまったことに対する菜翠のせめてものけじめであった。わざわざ制服を選んだのは、私服がふりふりひらひらの華やかなものしかなかったからで、これでは玲に意思表明するのにふさわしくないと判断したためである。
甘ロリの格好にならないと、菜翠の印象は著しく地味になる。普段から白い肌や黒い長髪は手入れしているが顔つきはあまりパッとせず、個性的な面々の多い星花生に比べれば菜翠の存在感はモブキャラていどにしか映らないのである。
「甘ロリ着てるときと印象がぜんぜん違う!」と言われることは結構あったが、それでも安長飛鳥のように、まったくの別人ととらえられることはまずなかった。新鮮な経験だが、堪能するには空気が穏やかでなさすぎる。
突然、菜翠の視界は茶色い長い蛇が跳躍する姿をとらえた。いや、茶色い蛇の正体はどうやら太い縄のようだった。その縄が後方から安長飛鳥の脇をくぐり抜け、彼女の胸を幾重にも巻きつけていたのであった。胸元を締めつけられて、ハチマキメイドの口から「ぐっ」という苦しげな声が漏れる。常人にできるとも思えない妙技であるが、いったい何者が後ろから縄を投げ入れたというのだろう。
「……はあッ!!」
ただならぬ気迫だが、同時に澄み切った女性のかけ声。それと同時に安長飛鳥の身体は後方に勢いよく投げ出された。派手に尻餅をつき、愕然としながら一連の所行を決めた人物のほうを振り返る。
菜翠も飛鳥と同じ方向を見やった。ウスウス察していたが、後方から縄を投げてよこしたのは先輩メイドの宇海愛結であった。和装メイド服のそでをまくっており、華奢な腕からは想像できないほどの筋力で後輩メイドを引きずろうとする。
「うぎゃわわわっ!! 師匠、痛いッス、苦しいッス~~~!」
「まったく……。服と髪が変わっただけで玲お嬢様のお友達のことを忘れてしまうなんて」
呆れ顔で歩み寄ると、どこからともなく取り出したナイフで後輩メイドを縛りつけた縄を切断する。自由の身となった安長飛鳥は愛結から仕事に戻るよう指示を受けて、そそくさとこの場を後にする。去り際に、やはり疑わしげな視線を一瞬だけ、菜翠に対して残していく。
安長飛鳥のけたたましい足音が遠のくと、玲お嬢様の専属メイドは心からすまなさそうに頭を下げた。
「大変失礼いたしました。彼女のあのような暴挙を許してしまったのは私の教育不足によるものです。平時であらば、いかようにお詫びする所存でございますが、まずは玲お嬢様に会わせることが先決でございましょう」
さすが、普段はふざけていても、この点は非凡のメイドさんといったところである。
菜翠はうなずいて、愛結に続いて筑波家の屋敷に入った。玲の部屋に向かう際、愛結は不思議そうに制服姿の菜翠を見た。
「それにしても、このようなお姿でお尋ねになるとは思いませんでした。玲お嬢様は、菜翠さんのお姿をたいそう気に入っておられたのですが……」
「そ、そうだったんですか」
そのような意思表示をされたことがなかったので、菜翠は素直に面食らったものである。もしかしたら、その格好で訪ねれば玲の機嫌も多少よくなったのかもと思うと、けじめをつけて制服を着込んだのがとんだ裏目になったような気分である。
二人の足がお嬢様の部屋の前で止まる。愛結が「菜翠さんをお連れしました」と告げると、返事を待たずにガラス障子の扉をそっと開ける。菜翠はごくりと唾を呑んで足を踏み入れた。
菜翠は息を呑んで立ち尽くした。以前訪れたときは、壁一面にもたれてぬいぐるみが敷き詰められていたのに、今はそれが一つもなくなってしまっている。ひらけた空間から寂寞の感傷が立ちこめているかのようである。
思わず愛結のほうを見やり、その愛結は菜翠の無言の問いに答えた。
「お嬢様のぬいぐるみは別室で保管しております。もういらないと仰いますが、処分するのもためらわれてしまって……」
そして、その肝心のお嬢様は机に突っ伏したまま微動だにしない。薄手の白いシュミーズ一枚という格好であり、まるで着せ替えられる前のお人形さんというべき印象だ。しばらく見ないうちに少し痩せたような気もするが、むき出しの腕と、短い裾から覗かせる脚は儚げな美しさを菜翠の心に刻みつけたのであった。
専属メイドさんがうやうやしく一礼をすると、あとはお二人でと言わんばかりに、そそくさと部屋を後にしてしまった。菜翠はどうふるまえばいいのか見当もつかなかったが、とりあえず起こさないことには話は始まらない。
「ねえ、レイ。起きて、起きてよ……」
「んぅ……っ」
むき出しの肩を揺さぶると、いかにも眠たげな声が返ってきた。けだるげに頭を起こし、ぼんやりした表情でこちらの顔を覗き込む。濁ったガラスのような瞳に菜翠は背筋をゾクッとさせたものだが、玲が一度まばたきをすると危うげな光は消え失せ、不思議そうに制服姿の菜翠を見つめる。
「菜翠、どうして? ここ、玲の屋敷で星花じゃないのに。それなのに制服なんか着て……」
純粋な好奇の玲の視線に対して、菜翠の表情は切なかった。
「……ボクはもう、あの服を着る資格なんかないよ。レイのコト、あれだけキズつけちゃったんだから……」
菜翠が自らの決意を告げると、玲の表情はみるみるうちに絶望へと変化していった。まさか甘ロリの趣味を放棄するとは思いもよらなかったのだろう。悲鳴を上げた。
「駄目ぇっ! 菜翠のお洋服、気に入ってたのに……」
「レイが着なよ。ボクなんかよりずっとずっと似合ってるんだし」
菜翠が他の女の子の容姿を褒め称えることは平時ではまずないことだ。それだけ菜翠の精神はまいっていたわけであるが、ルームメイトのへりくだった態度に玲はさらに強い反感をおぼえた。椅子から跳ね下りて、菜翠の肩にしがみつく。
「馬鹿ぁっ! 自分が着たってつまらないんだからぁ! 菜翠の選んだお洋服は、菜翠がちゃんと着ないと駄目なんだから……っ」
「レイ……」
心揺さぶられるていで菜翠は震える手でしがみついているルームメイトを見下ろした。玲の指は細やかに震えており、顔はうなだれ、嗚咽の声がしとしととこぼれ落ちていく。
菜翠はゆっくりと玲の肩を抱き返し、言わなければならないことを口にした。
「ゴメンね、レイ。キミのタイセツなモノをすべて否定するようなコト言っちゃって。謝って許されるなんて思ってないけど……」
菜翠の手に包まれながら玲は弱々しく首を振ってみせた。
「ううん、いいの。玲もこんな風にちゃんと話し合えばよかったって、ずっとずっと思ってたから……」
か細く可憐な声を受けて、菜翠は愛おしさのあまり肩に置いた手を腰に回そうとした。そして、菜翠は目を剥くことになる。肩からシュミーズに包まれた背中を手のひらでつたうとき、ブラジャーをつけている感触が一切なかったのだ。この調子だと、下穿きも身につけていないのかもしれない。まさしくシュミーズ一枚の格好というわけだ。
もっとも、そんな菜翠の些細な驚きも気にしていないようすで、玲は自分の思いをつらつらと語り出した。
「菜翠と離れてから、玲のしてることがいかに馬鹿馬鹿しいかわかったの。菜翠のことをないがしろにして、ぬいぐるみなんかにかまけちゃって。そんな自分が嫌になって、愛結に頼んでぬいぐるみを全部処分してもらうことにするの……」
「ダメだよ!」
思わず声が大きくなる。玲がぎょっとしたようすで制服姿の少女を見上げた。
「ヒドいコト言っちゃったボクがこんなコトいうのもアレだけど、ヌイグルミ捨てちゃえとか言っちゃうレイなんて見たくないよ……」
「でも、屋敷のぬいぐるみはほとんど愛結たちに任せきりだし、玲は本当はすべてのぬいぐるみを愛していないかも知れない……。でもいいの。薄々わかってたから、玲もいつかこの子たちを手放さなければならないって……ッ」
言葉尻が新たな嗚咽と重なった。いずれ訪れるであろう未来に、今の玲の心が耐えられないのは火を見るより明らかである。菜翠は焦った。
「そんな! いきなりゼンブ捨てちゃうなんて、レイのココロが完全にコワれちゃうよ!」
「だって! 寮部屋に運んだりしたら、また菜翠と場所で喧嘩しちゃう……!」
必死に訴えかけられて、菜翠は白熱しそうになった自分の心を必死で抑えつけた。ここで声を荒げたら、哀しい思いをした大喧嘩の二の舞である。玲も同じことを思ったのか、はやる気持ちを表情に残しつつも、口をつぐんでいる。
菜翠は、慎重に言葉を選んだ。
「とりあえずさ。レイのタイセツにしてる家族とトモダチだけでも手元に置いておこう? それ以外のヌイグルミについては、アユさんが他のヒトに贈ろうかって言ってたから。とにかく、あのコたちをゴミとしてポイするなんてダメだ。ゼッタイに」
巧みな説得ではなかったが誠意は伝わったようで、玲の表情にも微かに笑みが戻った。
「うん、そうするの。やっぱり菜翠のほうが玲の子たちのこと、よくわかってる……」
不意打ちに絶賛されて、菜翠はしどろもどろになった。
「そ、そんな、買いかぶりすぎだよ。レイだって、ボクの好きなお洋服のコト、よくわかってくれてるのに」
菜翠のファッションについて、玲は時折アドバイス、というより口出しすることがあった。もっとも、当時の菜翠は玲に対する不信感とプライドが邪魔して反発したもので、真夜中の指しゃぶりの件以降はすっかりなりをひそめていたが、私服のセンスを見ても、一目置くべきものであることは認めざるを得なかった。悔しい思いは当然あるが、今なら素直にその現実を受け入れられそうな気がする。
だが、今の菜翠はその衣装を着ていないし、ウイッグも付けていない。先ほどの決意を聞かされた玲は、再び泣きそうな表情で懇願の声を上げた。
「菜翠はもう、あのようなお洋服を着てくれないの……?」
「レイが気に入るというなら……そうしたいところなんだけど。今のボクは新しい服を買うおカネがなくなっちゃったんだよ」
母親からお小遣いを大幅に減額されてしまったことを話すと、玲は「かわいそう」と同情の声を発し、しばらく考え込んだすえに、こう提案してきた。
「じゃあ、菜翠のお洋服は玲が買う! 筑波家の一人娘の買ったものにしちゃえば、菜翠の親だって口を挟むことはできない……」
「ええっ!?」
衝撃的な展開に、菜翠は喜びを表明するいとまもなかった。おそるおそる尋ねてみる。
「そ、それはスゴく嬉しいんだけど……。でも、ホントにそんなコトしてもらっちゃってイイの? ボク、レイに対してナニも返すコトができないよ……?」
「いらない。菜翠が側にいてくれるだけでいい。側にいてさえくれれば、他に何もいらないの……!」
必死に訴えかけながら、玲は思いっきり菜翠の身体を抱きしめた。シュミーズを押し出す胸の質感が大胆に菜翠の身体に伝わってくる。
「玲、菜翠のことが好きなの。菜翠のことを、玲だけのエモノにしたいの。だから、夜にこっそり菜翠の指をなめたりして……。菜翠が好きでいてくれるなら玲、何だってしたい。ああ、菜翠……玲だけのエモノ……」
必死さに狂的なものが加わったかのような玲の瞳。菜翠の返事もまるで催眠術に半分かかっているかのようであった。
「ボクも……ボクも、レイと一緒にいたい……。レイが望むかぎり、ずっと、一緒に……」
「嬉しい……! じゃあ、今から一緒に『ちぎり』を結びましょう……」
菜翠から離れた玲がシュミーズの肩紐を外す。白い薄布がスルリと足元に落ちると、一糸纏わぬ姿となった少女は色っぽく微笑んでみせた。