おおげんかプリンセス
真夜中の『指しゃぶり』事件以降、菜翠と玲の関係はますますギスギスしたものになっていった。菜翠は玲に対する不快感と薄気味悪さをさらにつのらせ、玲は玲で、菜翠に対する欲求不満を、しなやかな肢体に内包させていた。
会話という会話もほとんどおこなわれず、たまに声が発せられたと思えば、それは毒と針をともなうものであった。
「レイ! スペースが狭いんだからヌイグルミを床に広げないでよ! 何度言ったらわかるのさ!?」
「菜翠だって、その香水は家族に移っちゃうから駄目って言ったじゃない!」
お互いに自分の不満をぶちまけ合い、二間の溝を絶望的にまで深めていく。本当はどちらも望んだことではなかったはずなのに、こじれた関係はどこまでもいびつに心を傷つけていく。
菜翠が苛立たしげに玲のぬいぐるみを押しのけた。端から見れば、突き飛ばしたのと相違ない。ぞんざいな扱いを受けた『娘』を前にして、玲がけたたましい悲鳴を上げた。
「やめて! 玲の家族に何するの!?」
「ちょっと寄せただけじゃん。だいたい、ボクの居場所を奪おうとしたレイが悪いんだろ」
「また玲のこと悪者にして! 玲だって菜翠の化粧の匂いをずっとずっと我慢してたのに!」
おでこ全体を真っ赤にさせながら、玲が菜翠の机から化粧水のビンを引ったくって床に叩きつけた。フタがはずれ、クリアな液体と甘ったるい匂いが床にぶちまけられる。
次の瞬間、菜翠の頭に完全に血がのぼった。今まで出したことのない怒声を上げる。
「ナニするのさ!! コレ、ものスゴく高かったのに……!」
乱暴に掴みかかり、涙目になりながらも玲も負けじと反撃にかかった。菜翠のウイッグをむしり取り、胸元についた甘ロリータのボタンが引っぺがされる。でかいテディベアのアンの足が踏まれ、小さいぬいぐるみのクーコなどは無情にも蹴り飛ばされてしまった。
「痛い! 痛い! エモノのくせに玲に逆らうなんてッ!」
「ダレがエモノだ! レイなんか大ッキライ!!」
ものすごい勢いで菜翠がルームメイトの少女を突き飛ばす。幸運と言うべきか、玲の小尻はアンの豊かな腹が受け止めてくれたため、大事にはいたらなかったが、今の玲は自分の娘を気にかける余裕もなく、菜翠を反撃することしか考えられなかった。
「出てけッ! 玲の部屋から出てってー!!」
「ああ出てってやるさ! ココロもイノチもない、ただのヌイグルミを『家族』とか言っちゃってるオカシイ女のコの部屋なんか、コッチから願い下げだよ!」
菜翠としては脊髄反射で出た暴言であったが、これを受けた玲は、感情を一変させた。今までの闘志や敵意が一瞬にして消え失せ、代わりに顔を支配したのは、純粋たる絶望と恐怖だった。
「レイ……?」
「あ……あ……あ……」
喉を振り絞るような声。自分の意思で発したものとは思えない玲の声が、憎しみに駆られていた菜翠の心をきしませる。
「ああ……ああ……ああ……!」
玲はもはや菜翠の顔を見ていない。目の焦点が合っておらず、頭を押さえる両手が限界まで震えている。
「…………い、いやああぁぁああぁぁああッ!!」
非常ベルよりもけたたましい絶叫を放つと、玲は弾けたように立ち上がり、呆然と立ち尽くす菜翠にぶつかりそうになりながら部屋を去っていった。菜翠がようやく立ち直ったときには、すでに憎悪はどこへやらの状態であったが、代わりに玲の恐怖心の半分を引き取ったような心境に陥っていた。
「う、うぁっ……」
被害でいえば菜翠のほうが遙かに大きかったが、そのようなことはもはや気にならない。ただごとでない玲の反応に、自分がとんでもないことを言ったような気がして激しい後悔に襲われる。
(ボクは……ボクは、なんてコトを……!)
自分の身体を抱きながらうずくまる。逃げ出したルームメイトを追いかけるべきなのだろうが、恐怖にすくんで身体が言うことを聞いてくれない。
吐き気がおさまらず、頭がぐらぐらと煮えたぎる。『レイをコワしてしまった……』その事実を受け入れるには、十三歳の菜翠には重すぎることだった。軽はずみから放たれた暴言をどのように清算しなければならないかを考えると、どれほど厳しい想像も現実に敵わないように思われた。
それだけでない。玲は筑波家のご令嬢で、その娘がこのような目に遭わされて、両親が許すはずもない。お嬢様に偏愛しているメイドの宇海愛結も、さすがにこちらに対して黙ってはいられないだろう。
うなだれた頭を上げると、窓の外はすっかり夕方になっていた。何時間、同じ姿勢のままでいたのか記憶も定かではない。ほとんど無意識に呼吸を荒げていたらしく、肺までも疲労困憊に陥ってしまっている。新鮮な酸素をゆるやかに吸い込み、水を飲もうと思い、財布を持って一階の自動販売機まで向かう。ウイッグをかぶり直さず、外れた胸のボタンもそのままである。もし周りから奇異な目で見られたら、それこそ玲を傷つけた罰なのだろうと菜翠はひとまず覚悟を決めることにした。
購入したミネラルウォーターで乾ききった喉を潤すと、ちょうどそのとき友人の副島瞳が現れた。菜翠の姿を見た瞬間に派手にのけぞり、ついで心配そうに顔を覗き込んできた。
「うわ! 菜翠っちどうしたの? スゴい顔というよりヤバい顔なんだけど」
どうやら外見より先に表情のほうを気にかけられたらしい。冷静に考えれば当たり前の話だ。
とりあえず「何でもない」でやり過ごすと、瞳は気がかりなようすを引きずったまま立ち去ろうとしたが、一歩目のところで本来言うべきだったことを思い出したらしい。
「あ、そうだ。寮監さんが筧さんのことを呼んでたんだった。なんか大事な話があるって」
レイのことかな。そう思うと、菜翠の心臓は握りつぶされる直前のリンゴになったかのような心地になるのであった。瞳に礼を述べると、菜翠は寮監室に向かう。
初老の寮監もまた、憔悴しきった菜翠に面食らっていたが、「大丈夫」の返事を受けて、とりあえずは本題に入ることにした。
「あなた、確か筑波さんのルームメイトさんよね?」
「は、はい……」
「筑波さんのお家の方からお電話がありました。番号を言いますからすぐにかけてあげなさい」
指先まで見えない汗で滲むのを感じながら、菜翠は寮監に言われるがままにボタンをプッシュする。ややあって出てきたのは、玲の専属メイドである宇海愛結であった。
「菜翠さん……お嬢様と何かあったのですか? お嬢様は何もおっしゃらないので……」
どうやらルームメイトは家に帰っていたらしい。そんなことすら菜翠は知らなかったわけである。身一つで部屋を出たものと思っていたが、交通カードのたぐいは持っていたのだろうか。
深刻そうな愛結の口調に、菜翠は後ろめたさのせいもあって、隠し立てをするつもりはまったくなかった。玲と喧嘩したこと、大事な家族をただのヌイグルミと罵ってしまったこと。愛結は深い沈黙をたたえていたが、やがて気遣わしげな声が流れた。
「……菜翠さん。玲お嬢様がお屋敷に着くなり何をなさったと思います?」
「いえ、いったいナニを……?」
「お部屋にあったぬいぐるみを全部捨てようとなさいました」
菜翠の背骨が完全に凍りついた。メイドさんの話によると、部屋に戻ってくるなりかんしゃくを起こし「こんなもの、いらない!」と、大事にしていたはずのぬいぐるみに乱暴をはたらきまくったという。ハチマキメイドの安長飛鳥に身体を押さえられて、ようやく大人しくなったらしい。
寮監が見守っているのもお構いなしに、菜翠は極限まで声を震わせていた。
「ど、ど、どうして、そんなコト……」
「そうですね……菜翠さんにお心当たりをうかがうまではわかりませんでしたが、今ならわかったような気がします。まあ、お嬢様の性格を考えれば、いつか一悶着が起こるであろうことは薄々わかっておりましたが……」
宇海愛結の声はどこまでも優しい。お嬢様のこともあって、さすがに沈みがちではあったが絶望の淵にひたっているというわけではなさそうだ。少なくとも、菜翠の憤慨と失言について責める意図はなさそうである。
「最初に申し上げておきますが、この件に関して菜翠さんは必要以上に悲観なさる必要はございません。正直なところ、わたくしはお嬢様のこのかんしゃくを、むしろよい傾向ととらえているのですから」
「……どういうコトですか」
「ぬいぐるみを溺愛されているお嬢様ですが、時を経れば、いずれは手放さなくてはならなくなる。そして薄々、お嬢様もそのことをご理解しておられるはず。ですが、わかっていながら現実を受け入れることができず、逆にしがみつくかのごとくぬいぐるみに傾倒されてしまった……」
菜翠は理由もわからず息を呑む。玲がオカシイくらいヌイグルミにはまっていることはわかっていたつもりだが、このような事情があることまでは知らなかった。もっとも、中等部一年の子どもにはまだ理解の早い出来事なのかも知れなかった。
愛結が続けて言う。
「菜翠さんは、お嬢様が初めて執着された、人間のご友人なのです。お嬢様は付属小でもぬいぐるみとたわむれてばかりで、周りとは距離をおいておりましたから。我々といたしましても、多少なりともぬいぐるみの呪縛から解放されてほしいと願っておりますから、お嬢様をこのようにした責任も兼ねて、お二人のことをサポートしていきたいと思います。むろん、すべては菜翠さんのご意思しだいですが……」
その菜翠は、愛結さんのご高説に圧倒されていた。特に意外に思ったのは、彼女がここまで冷静にお嬢様のことを見ていたという点である。「玲おじょうさむぁああん❤」とトチ狂う一面とはまったく別の意味で、なかなか読めない人物であると菜翠は思うのだった。
いずれにせよ、愛結の申し出に対してすぐに答えが出るものではなかった。ひとまず回答を保留にして、別のことを尋ねた。
「あの、アユさん……」
「はい。なにか?」
「もし、レイがヌイグルミを手放すとしたら、そのヌイグルミは……どうなってしまうのです?」
「あれだけのぬいぐるみを処分するのは私としてもさすがに惜しゅうございますので……。そのうち、知り合いのお子様に譲るか、バザーで出品することになるでしょうね。……では、お嬢様に何かありましたらまたご連絡いたしますので、菜翠さんのほうもお嬢様のことについてお考えのほうをよろしくお願いいたします」
通話が終わると、菜翠は寮監に挨拶をし、自分の寮部屋に戻ろうとする。とりあえず愛結に叱られることなく一旦は事態をやり過ごすことになったが、やはり玲を精神的に追いつめてしまったという自責が菜翠の表情を曇らせ続けるのであった。
玲の心は言わば、成虫に羽化する前のさなぎと一緒だ。殻の中で時間をかけて中身を成熟させていくべきであったのに、自分の不注意によって未発達のまま殻を破ってしまったのだ。その結果、彼女の心は突きつけられた現実に押し潰されることになり、改めて自分の浅はかさを思い知らされて菜翠は涙ぐみそうになる。
陰鬱さを引きずり、菜翠は誰もいない寮部屋へと戻る。凄惨な喧嘩のあとが生々しく現実のなかにあり、こぼれた化粧水の匂いが、ひたすら菜翠の鼻をつくのだった。




