おしゃぶりプリンセス(前編)
冬でも汗をかくような行為におぼれ果てると、菜翠は玲と同時にベッドに倒れ込んだ。震える手でタオルケットを肌にかぶせると、全身が奇妙な暖かさに支配された。隣にいた玲がタオルケットから剥き出しの肩から上をのぞかせた。
「……菜翠」
「レイ……。今日はお互いゲンキが残ってたみたいだねー……」
玲は乱れた前髪を掻き揚げながら、かすかに口角を持ち上げてみせた。実際、珍しいことではあった。ベッドに這いながら呼吸を整えているうちにそのまま寝息を立ててしまうことも結構あったのだから。
(ソレにしても……)
今の自分がこうしていられるなんて、昔の自分からは想像もつかなかった。ルームメイトの突飛のない行動に振り回されて、些細なことで喧嘩しあって……。だが、それもここに行き着くまでの軌跡と思うと、なんだかおかしくて、同時にいとおしい気分にさせられて、菜翠は手を伸ばして玲の茶色い頭をぽふぽふさせる。玲は猫のように目を細めてこれを受け入れていたが、ややあって、菜翠のすべすべとした手を掴んで自分の顔の前に引き寄せていた。
「あ……っ」
菜翠の指は玲の可愛らしい唇の中に吸い込まれていたのであった。わざとらしい水音を奏でながら舌を這わせ、口腔で指をもてあそぶ。危ういくすぐったさになけなしの理性が溶かされているうちに、菜翠の人差し指と中指は唾液まみれになっていた。
ぷはあっ、と音を吐きながら玲は唾液の橋とともに唇から指を離した。ぷつりと糸が切れ、湿った指をとろみがかった瞳で見つめた。
「……思い出した」
「え? ナニを……」
「昔、こっそり舐めてたら、菜翠にもの凄く引かれたこと……」
言われて菜翠も、記憶を過去へとさかのぼらせた。
「あ、ああ。確かにそんなコトもあったね。さすがにいきなりじゃボクだってビックリするよ……」
「菜翠の指、美味しそうだったんだもん。指だけじゃなく、菜翠のすべてが玲にとって美味しいものだけど。だって、菜翠は玲のエモノなんだから……」
照れくさそうではなく、断言するように言うのがいかにも玲らしい。ここまでよく喋ったものだが、しばらくして玲の両まぶたは不安定げに上下され、それが完全に閉ざされるとシーツの上に突っ伏すようにして倒れ、静かな寝息の奏者と化していったのであった。
◆
筧菜翠が初めて筑波玲のおしゃぶり事情と鉢合わせたのは、筑波邸を訪れたおよそ二週間後、制服が夏服に完全移行されるほんの少し前の日のことだった。当時はすでに蒸すような夏日が先行されており、菜翠もすでに冬服をクローゼットにしまい、ネグリジェもノースリーブのものに変えていた。
異変に気づいたのは、筑波邸訪問から三日後のことだ。いつものように目を覚まし、歯を磨こうとしたとき、歯ブラシをつかむ触感がおかしかったのである。おかしかったのは歯ブラシではなく、歯ブラシを取った指のほうだった。中指、人差し指、薬指が極端に湿り気を帯びていたのであった。
ルームメイトに『エモノ』呼ばわりされてしまった菜翠だが、菜翠自身はこのときは別に玲に好意を寄せていたわけではない。むしろその逆であるが、それは憎しみというより、自分よりカワイイ女の子が身近に存在することへの対抗意識からくるものであった。
かなり奇妙な少女ではあるが、さすがに菜翠もこの湿り気をゆで卵おデコの少女と結びつけたりはしなかった。家族に向けられる愛情ならいざ知らず、生身の同性の指をウットリとしながら舐めつくすなんて、菜翠にはツイテイケナイ世界の話だったのだ。
最初は特殊な寝汗と決めつけた菜翠だが、それが何日も続くと、さすがに身体に異変が生じたのではないかと不安にかられてしまい、とある日の放課後に中等部の保健室を訪ねることにした。
中等部の養護教諭の名前は高城綾音というらしい。形のいい胸部が高そうなワイシャツの布地を押し出し、身なりはきちんと整っているのに谷間に挟まるネクタイだけが情操教育に対するアンチテーゼを示しているかのようだ。清潔感のある白衣を羽織り、タイトのミニスカートから伸びた黒タイおみ足は椅子の上で魅力的に組まれている。
美人だが、えらく眼光が鋭いこの先生に菜翠は最初、強い恐怖を抱いていた。きちんと話さないとすぐさま苛立ちの針を向けられるのではないかと危ぶんだほどだ。だが、それは完全に菜翠の偏見であり、たどたどしく話をするあいだ、高城先生は嫌そうな顔一つせず、親身に生徒の話に耳を傾けてくれたのである。
「指だけが異常に汗をかく、ね……。たしかに手掌多汗症という病気は存在するわ。『手に汗を握る』という慣用句があるけど、あれは緊張することによって交感神経が手に汗をかくよう指示をするからなの。だから緊張を感じつづけていれば自然と交感神経も活発になり、それが慢性化すると、些細なことで汗をかくようになり、結果として多汗症たるものが生まれてしまうわけ」
「そ、そうなんですか」
圧倒されたようすで菜翠が頷く。病状の詳細を聞いて、まさに今、交感神経が荒ぶっているように思えたが、朝のときの手汗とはまた違う感覚のように思えた。だが、それを高城先生に打ち明ける勇気はなかった。ここまで深刻な話になるとは思わなかったし、これ以上底に行きつく勇気もなかったのである。
先生は椅子をキイ、と動かし、黒タイに包まれた脚を組みかえた。
「あたしは精神科医じゃないからね。本格的な問診は専門外なんだけど、誰かに悩みを打ち明けることによって心が軽くなることもあるでしょ。月並みな質問になるけど、ここ最近何か悩み事とかはない?」
「なやみゴト……ですか」
そんなものは決まっている。だが、ヘアバンドぬいぐるみおデコ少女のことを口にしようとしたとき、謎の自制が菜翠の唇に錠をかけた。彼女のことをどこから何まで話せばいいのかとっさに判断がつかなかったのである。意見や説明をすることに慣れていないせいもあった。玲以外の、同年代の少女どうしのおしゃべりならまだしも。
だが、問診はプロではないと言うも、高城先生は生徒の心にかなうために、職務以上のはたらきで菜翠の口から情報を引き出してみせた。どうにかして玲の人となりを聞くことができ、その内容はざっくばらんな先生を興がらせた。
「話を聞く限り、その筑波玲というルームメイトは筧さんとぬいぐるみにずいぶんとご執心のようね。筧さんは彼女の存在によって強い緊張をおぼえるのかしら?」
「ソレは……」
どうだろう、と菜翠としても不明瞭であった。振り回されているのは事実だとして、それが緊張に結びつくのはただ一つ。彼女が菜翠のことを『エモノ』と見なして、いきなり接近してくるときぐらいだろう。
玲に対する感情が不透明な菜翠だが、不思議なことに玲に何をされても「ジャマ」だの「出て行け」たのという発想にはいたらなかった。追い出したら、彼女を押し付けられる子が気の毒だと思えたし、甘ロリを愛する菜翠もまた普通の子でないと薄々自覚していたからであろう。対抗意識も、マウントをとりたいというよりはむしろ、菜翠の矜持と精神を安定させるために勝利の台座は必要だったのである。そしてそれは、おデコのルームメイトを寮部屋から追放してどうにかなるものではないのだ。
もっとも、中等部の一年生がここまで明確な意思を言葉にするのは難しい。菜翠はしどろもどろになり、高城先生も彼女のさらなる言葉から解決の糸口をつかむことはかなわなかった。とりあえず経過を見て、後日改めて来るように言うしかない。先生がそう決意したそのとき。
「ふぃー、あやねっち〜、ぷかぷか〜」
果てしなくノーテンキな声とともに保健室の扉がガラリと開かれた。やってきた声の主は、信じられないことに、教師だった。菜翠のクラス担任でもある数学教師だ。
「水垂先生、今は生徒と問診中なの。一昨日きやがってね」
高城先生の声音は職業としての教師どうしの関係を超えたものがあった。菜翠は半ば唖然として、高城先生と数学教諭の水垂志緒子先生の顔を交互に見やった。
志緒子先生は今年で二十四歳になるそうだが、薄い黒のショートヘアに包まれた幼顔は、実年齢より五歳ほど若く見えた。サマースーツとタイトスカートを着こなしているが、ブラウスから飛び出るバストは高城先生のそれをはるかに凌ぐ大きさで、まるで二つの丸い浮き具が美しいかたちで備わっているかのようだ。この『ぷかぷか』こそ情操教育の天敵というヤツであろう。
その志緒子先生は高城先生のあしらいに対し、ふてぶてしく背筋を反り返らせた。
「ふふーんっ。何を隠そう今の志緒子ちゃんは、なんと二日前からやってきた志緒子ちゃんなのですよっ。……およよ? 菜翠ちゃん。こんにちはだね~」
「お、お疲れサマです……」
担任のゆるい笑顔に、菜翠はぎこちなく挨拶を返した。対して高城先生は同じ先生に向けて親しげに悪態をついてみせる。
「筧さんが完全に白けちゃう前に、さっさと二日前の世界とやらに引き上げなさい。あたしはこれでも忙しいっての」
「あうー。せっかく歩く副交感神経と言われた志緒子せんせーがやってきてあげたのに~」
「はいはい。おかげさまでセロトニンで全身しょびしょよ。罰金の支払いは一括でよろしく」
「からだでしはらうせつやくのじゅつ!」
なんだか教師どうしで会話のドッジボールが繰り広げられているようだが、菜翠からしたら、あまりにも先進的すぎる眺めだ。言葉を一つかける余裕もない。
ふと志緒子先生のブラウスに目がいった。彼女のブラウスは高城先生のシャツと同じく白で、その布地からうっすらと下に着ているものが見えたのであった。ブラジャーではない。どうやら黒の競泳水着を下に着ているらしい。そう言えば、水泳部の顧問でもあると友人の副島瞳から教わったことがある。
競泳水着に包まれた胸ごと、志緒子先生は顔と身を乗り出した。
「それでそれで? ふたりして何話してたわけ? ちなみに言っとくけど、菜翠ちゃんはまだ十二歳よ~ん?」
「わあってるっての」
わざとらしい苦々しさで言った後、菜翠に対しては優しく「またいらっしゃい」と呼びかけて菜翠を帰らせたのであった。
教師ふたりになると、この水泳部顧問の誤解を解く必要もあって、綾音先生は菜翠との会話をすべて打ち明けた(念のため、厳重に箝口令を敷いたうえでのことである)。水垂先生の回答は明白だった。
「それって、玲ちゃんが夜中にこっそり菜翠ちゃんの指をぺろぺろしてたんじゃな~い?」
「志緒子もそう思う?」
「察してたから、菜翠ちゃんを急いで帰らせたんでしょ~?」
「不思議のままに済ませたほうがお互いに好都合だと思ったからね」
保健室に入り浸りの自分と違って、志緒子は数学教師として玲の姿を直接見たことがあるはずだ。いつもぷかぷか浮いているように見えながら、志緒子の着眼点は鋭く、そこから導き出される印象が外れることは滅多にないことだった。
「しかし、まあ、いらんところで出てきたもんね」
「そーお?」
「いつぶちまけるかと思って肝が冷えたわ。慌てて筧さんを帰らせたけど、どんな顔になってたものか……」
「あやねっち素の時点で顔こわいもんね~」
「命ひとつで、もっとスゴいの見せたげるけど?」
黒タイに包まれた脚を跳ね上げ、パンプスのつま先を突きつけられた志緒子がわざとらしい悲鳴とともに飛び退く。
「まあ……こんなボケかましてる場合じゃないわよね。結果として、あたしたちは教師の責務をほっぽり出したわけだし」
「あたしたち~?」
「あたしたち」
「それって菜翠ちゃんに真実を打ち明けなかったこと~?」
「打ち明けたところで筧さんが気味悪がって、それはそれで関係がぎくしゃくするでしょうけどね。こういうのはいったん衝突しあわせないと、なあなあの変化しか訪れない……」
語らなかったことに罪の意識はそれほど感じていない。隠していたことによって菜翠がこちらを憤慨するのなら、かえって好都合ですらあった。こちらが憎まれ役になることで、玲への矛先がにぶるのであれば。いくらでも恨み言を聞いてやれる。
そもそも、生徒どうしの喧嘩に教師が仲裁を入れることを綾音はよく思っていなかった。茶々入れしてしまったら、生徒たちの頭で自らの在り方を鑑みるクセがつかなくなると考えていたからだ。できることと言えば、最悪の事態を想定してセーフティネットを密かにしつらえるぐらいである。
沈黙にひたると、綾音の威圧感はものすごいことになる。それに対してケロリとしていられるのは目の前にいる志緒子ぐらいのものであろう。力のある和やかな声で語った。
「まー、傷ついちゃったら優しく癒やしてあげればいいじゃない~。ちょうどベッドもあるし、証拠も隠滅もできるしね~」
「それで丸くおさまれば、片手の指なんて可愛いものね」
さすがに水泳部の練習に顔を出さねばヤバいと脳天気な先生は去っていき、ようやく静かになった保健室で、部屋の主はふたりの少女の行く末を案じつつコーヒーを淹れたのだった。
高城綾音先生は【この世界で 生きていく(https://www.alphapolis.co.jp/novel/798310137/39145377)】の登場人物で、考案者は作者と同じく坂津眞矢子様です。
水垂志緒子先生は坂津眞矢子様作品【勝負はワンペア(https://www.alphapolis.co.jp/novel/798310137/390167750)】の主要登場人物であり、考案者は、ええーっと……どこかの斉藤なめたけと申すもの、だそうです。




