おとまりプリンセス
夕食は宇海愛結の作った料理を堪能し、浴室はすべて檜で作られていたものだった。筧菜翠にとっては駅前にある温泉旅行の広告でしかお目にかからなかったもので、実際に入るとリラックス気分とか最高の贅沢を味わうという心境にはなれなかった。自分がここにいていいのかという申し訳なさにも似た違和感が先立っていた。
愛結と、筑波家のご令嬢である玲がほとんど一方的に宿泊を決めて、菜翠は最初は困惑したものの、腹をくくると、とりあえずこの環境を楽しもうとつとめた。むろん、がんばるだけですべてがうまくいくわけでもなく、純和風に満ちたお屋敷にきらめく菜翠の好奇心は早くも飽きを見せ始めていた。西洋のお城めいた宿泊施設ならまた考えが異なっていただろうが……。
誠心誠意を尽くしてくれた愛結には申し訳ないと思いつつも、菜翠はほとんどの局面を愛想笑いで流していた。彼女の昔話はともかく(この人は本当にいったい何歳なんだろうと疑問に思いながらも)屋敷の内装に関してはてんで興味はなかった。彼女も安長飛鳥ほど単純思考でないはずだから、こちらの心情の機微もわかっていたことだろう。そのうえでにこやかに対応してくれている。玲に対する暴走がなければ、彼女はまさに本職のメイドであったのだ。
玲の『お友達』の選別も終了し、そのまま就寝の時間となる。当然といわんばかりに菜翠は玲と同じ空間で寝ることになった。同じ布団で、ではないあたりマシか……と菜翠は思うことにした。寝間着がオシャレな白のネグリジェなのは正直ありがたかった。玲も同じ姿である。
こうして慌ただしい一日がようやく終了したわけだが、日と日をまたぐ夜に、菜翠は最後のダメ押しを食らうことになる。
菜翠はふと目を覚ました。知らずうちに緊張を蓄積させていたのだろう、全身をぶるっと震わせる。
(お、おトイレいきたい……)
思い当たって、菜翠は困った事態に直面した。アユさんの話をちゃんと聞いていなかったせいで、トイレの場所がわからないのである。ゴメンと思いながら玲を起こして場所を聞こうとするも、先を越されたらしい、布団が空になっている。
いよいよ本格的に困り果てた菜翠は仕方なく、硝子のはめられた障子戸を開けて暗い屋敷内を散策することにした。時計は見なかったが、古い言い方をすればまさに丑三つ刻というべき時間だろう。人も音も寝静まっており、菜翠自身の足音だけが不気味に響いている。案内表示くらいつけといてよ……と菜翠は心の中で愚痴をこぼす。
焦りが緊張に直結して、菜翠の表情は硬かった。突然の事態に見舞われるようなことがあれば、間違いなく彼女はひっくり返り醜態を見せつけることになるだろう。中等部にもなってこれだけは勘弁してほしかった。
だから、明かりのついている部屋を発見して菜翠は安堵したものである。硝子障子から仄暗い光が漏れていて、まだ人が起きていることを示している。
どこの誰かさんか知らないケド、悪いけど場所聞かせてもらいますよー……と少女が硝子戸に手をかけようとしたそのとき、今度ははっきりと声が聞こえた。
「……っ!! あぁ…………❤❤」
菜翠の動きが硬直する。聞こえてきた声は彼女にとって明らかに異質をきわめたものだった。
(アユ……さん……?)
声の主はわかったが、彼女の身に何が起こっているのかについては見当のつきようがない。彼女の声は眠たげのようであるが、ときおり短い悲鳴が跳ね上がる。どこか痛いのかな……菜翠がそう思った、そのとき。
「ふぅ……今夜はいちだんと激しいのですね、お嬢さまぁ……」
(お嬢サマ!)
レイがここにいる……!? 菜翠はわけもなく心臓が高鳴った。てっきりトイレに向かったとばかり思ったが、メイドさんと一緒に何をしているのだろう。
アユさんの優しげな声がまた響いた。
「ふふっ……菜翠さんもお嬢様の洗礼を受けられるなんて……わたくし愛結、かなーり妬けちゃいますわ~」
「愛結は手を出しちゃ駄目、菜翠は玲のエモノなんだから」
何がなんだかよくわからないけど、とりあえず自分はアスカさんと一緒に『ほしがき』として吊るされることはないようだ。確かに怨恨沙汰を避けられるのは喜ばしいが、そもそもよく知らない相手にエモノとして扱われていること自体、あまり気分がいいとは言いがたい。
愛結がお嬢様に対して「わかりましたよーっ」とすねた女子高生のような声を上げたが、ふと、それがきょとんとしたものに変わる。
「あら、まだ続けます? これ以上されたら明日の業務に差し支えが出るのですが……」
「寝坊していいの、玲が許可する。今の愛結は玲の実験台なんだから」
「実験台……切ない響きでございますね。わたくしはこんなにお嬢様を愛してますのに……」
「……そんなこと言いつつ悦んでるくせに」
「あら、バレてしまいました? うふふ……そうですわ。わたくし、お嬢様が求めてくださるだけでじゅうぶん幸せですの。『お友達』なんて口実で、本当はわたくしのからだ目当てで帰ってこられたのでしょう……?」
「それもある。でも、お友達を選ぶために菜翠を呼んだのも本当なんだから」
「ええ、ええ、わかっておりますとも。ふふ……同じことをされた、菜翠さんは果たしてもつのでしょうか……」
トイレに行くつもりだったのも忘れ、菜翠は思わず二人の会話に聞き入っている。そのせいで、至近距離までゆっくり迫ってくる存在に気づかなかったのであった。
「…………あの……」
「ひ………………!!」
黒の地毛どころか皮膚まで逆立つ思いだった。幸い、失神も失禁も起こらなかったが、全身から汗が噴き出て、心臓が体内でぐるんと一回転したような心地である。
菜翠の前にいたのは寝間着姿の女性だ。筑波家のメイドの一人だろうが、旅館の仲居さんっぽくも見える。客人の菜翠に対して恐縮そうな顔になっていた。
「も、申し訳ございません。何か宇海さんに御用でも……?」
「い、いえ、トイレに行こうとしたら迷ってしまって」
「そういうことでしたか。それなら御案内いたしましょう。こちらです」
がくがくと菜翠は頷き、優しい笑みを浮かべるメイドさんの後についていく。歩きながら、菜翠はさらに冷や汗の垂れる思いであった。
(どッ、どうしよう……ゼッタイ、ボクが盗み聞きしてるのバレてるよね……? うう、明日どんな顔して二人に会えばイイんだよぅ……)
ソレ以前にいったいボクどうされちゃうの!? という恐怖感がつきまとい、そして扉の向こうから絶えず聞こえた、幼子がくちゃくちゃとご飯を食べるようなおぎょうぎの悪い音が布団に潜り込んでからもなお、耳に擦りついて離れなかったのであった。