卯木の長雨
この世界には、名前も知らない花があふれています。
この世界には、派手ではない花があふれています。
この世界には、大きくはない花があふれています。
それらの、なんと美しいことでしょうか。
朝、庭に出ると、白い花びらが私の目の前に舞ってきました。
小さなその花びらは、よくよく見てみると、そこらにちらほらと落ちています。
でも、どこからでしょう。庭にこんな花が咲くものは植えていないし、ご近所さんの庭でも見た覚えはありません。
周りを見渡す。近くを、遠くを。
そして、私は気づきました。
遠くはない山に、白い花が咲いています。
その時は、それだけでしたが、なんとなく庭のほうを見ていると時折ぱらり、ぱらりと白い花びらが舞ってきます。
それは、小降りだけど、長く続く雨のようです。
なんとなく。本当になんとなく、気になるものでした。
だからでしょうか。私は植物図鑑を取り出し、その花に似たものはないかと探し出しました。
写真と、目の前の花びらをじっと見比べる。
ひとつひとつやっていくと、結構な時間がたっていました。
少し、日が高くなるころ。ようやく花びらの名前を知ることができました。
ウツギ。空木、卯木という漢字で書かれるその花は、卯の花と呼ばれることもあり、5月から7月くらいが花が咲いているころということでした。
なるほど。それならば、今は花の終わりの時期。むしろ、少し長く咲いていたくらいでしょう。
ですが、私は少し気になる言葉も見つけました。
卯の花腐し。そんな言葉です。
今度は、国語辞典を手に取り、その言葉を調べます。
探すものが何なのかわかっているだけに、今度はさほど時間をかけず探し当てることができました。
卯の花の咲いているころに降る、長雨。卯の花を腐らせてしまうことから、”うのはなくたし”とか、”うのはなくだし”と呼ばれているようです。
俳句などで用いられる際には、桜に降る雨である”花の雨”と、陰暦五月ごろに降る”五月雨”の間に使われる、夏の季語だそうで。ここで私は、はて、と首をかしげます。
五月雨よりも前、つまり、梅雨よりはもっと前。
梅雨の入りが遅かった今年ですが、さすがにもう明けています。
私は、山に登ろうと思いました。
卯の花腐しで腐らず、散りもしなかった、元気な卯の花。その様子を近くで見たいと思ったのです。
時間は、昼頃。ちょうど暑い時間ですが、涼しい夕方まで待ち、暗くなりだしてから山を登るのは、低い山でも危ないでしょう。
水筒に麦茶を入れて、ウツギを見ながら食べるためのおにぎりを握ります。暑くて、汗が出るでしょうから、普段よりほんの少し、塩を強く。
さて、小さな冒険を始めましょう。
一緒に登る相手のいない、一人きりでの山登り。そう思うと、少しだけ不安です。
それでも、ウツギを近くで見るため、私は登ると決めたのです。
白くて小さな花は、色鮮やかな大輪の花と比べれば、派手さでは見劣りすることでしょう。
派手さでは見劣る。けれど、それが美しさで劣るとは、私は思えません。
庭先まで舞って来てくれたウツギは、地味でも、確かに美しい花だったのですから。
その美しさを間近で感じたいと思うのは、私にとって当然のことでした。
それほど険しくはないであろう山。それでも、登り始めて10分もする頃には足が疲れだします。
日差しは照り付け、汗は吹き出し、日ごろの運動不足を痛感するには十分な痛み。
帰りには同じ道を下るのだと思うと、足が悲鳴を上げそうです。
息は荒くなる一方で、鼓動は早くなる一方。
でも、心が弾む一方なのも、また確か。
疲れているのは、山を登っている証拠。それは、ウツギに近づいている証拠でもあるのですから。
ぜぇ、はぁ、と息を吐きながら、私はその風景を眺めます。
一面の白。
雪でも降ったのだろうか、と思うほどの白で覆われた地面がそこにはありました。
でも、今は夏。当然、それらは雪ではありません。
それらは、すべてがウツギの花でした。
庭まで舞って来てくれた、ウツギの花。卯の花。近くの地面には、こんなにたくさん散るものなのですね。
白い花たちを踏んでしまうことに申し訳なさを感じながらも、私はウツギの近くへと歩きます。
私の背丈とそう変わらない高さに咲く花に顔を近づけると、さわやかな香りを感じました。
たったそれだけのこと。それでも、ここまで登ってきたかいがあったというものです。
近くの木陰に座り、おにぎりを食べる。
散ってしまった、たくさんのウツギと、木に残った、少しのウツギ。
美しい自然を眺めながらの食事は、普段の食事にはない満足感がありました。
それからというもの、私は初夏の訪れを楽しみにするようになりました。
ぱらり、ぱらりと庭にそそぐ、ウツギの長雨。
それを合図に、山に登るのが、恒例になりました。
家族や、友人のできた今では、その人たちも誘って登っています。
地味だけど、確かに美しい、ウツギの花。
それは、今でも咲いてくれています。
今回の企画のお題は夏。と、言うことで「夏の季語」の一つである「卯の花腐し」から内容のイメージを膨らませて書いてみました。卯木の長雨、いかがでしたでしょうか。
作中でふれたとおり、卯の花腐しは五月雨より前の季語。初夏(今の暦だと5月から6月でしょうか?)の季語ですので、ウツギの花は8月までは咲いていないのでしょう。ですので、8月に読む話としては想像しにくいかもしれません。
開花時期も、作中では5月から7月という説明を採用しましたが、5月から6月という説明も多かったですし……ただ「今回は夏の季語を自分の中のテーマにしよう!」と決めて、いろいろと調べていたらウツギの花の画像を見かけ、そのかわいらしさに心を惹かれてしまったのです。ときめいたら形にしないと気がすまなかったのです。真夏に初夏の話を読んだなぁ、くらいに思っていただけるといいのですが……。
今年はゲリラ豪雨に猛暑が続き、厳しい夏になりそうです。どうか皆様、お気をつけください。私もパソコンの故障に伴う長編データ消失に負けず、話をつづります。以上、有瀬川辰巳でした。