1.新しい季節3
中央政府ビルの特別車両ゲートからジンロの車で戻ると、シンカは専用のエレベーターに乗り込んだ。百五十階まではあっという間だ。
シンカは瞳のレンズを外し髪を整え、眉の化粧を取る。手馴れたもので約一分後にエントランスに到着したときにはいつもの彼に戻っている。
扉が開くとちょうど秘書のユージン・ロートシルトと鉢合わせした。
「!陛下!」
「!ユージン。今帰りなのか?」
どきりとする。出かけるときに声をかけていないのだ。
「陛下、お帰りのところ申し訳ありませんが、一つ決裁をいただきたい案件が届いております。急ぎということで、南星環境省の方がお持ちになりました。」
ユージンは、再び彼女のオフィスに戻ろうとする。
この時間まで仕事をして疲れているのだろうに、きっちりした姿は朝見かけるその美しい姿と何も違わない。亜麻色の髪をキチンと結って清楚な曲線を描く眉、派手ではないが印象的な瞳は、秘書官として一片の非もない。年齢は確か二十七歳くらいだったと記憶している。
そのあたりは友人のシキのほうが詳しいくらいだ。
太陽帝国皇帝付きの若き主任秘書官ユージン・ロートシルトといえば、ブールプールで知らないものはないくらいのセレブリティだそうで、女性の憧れになっているのだ。
ミンクも憧れていると言っていたかな。
「執務室にお持ちいたします。」
振り向いて、にっこり笑う。
「いいよ。ここで。」
シンカは、ユージンについて秘書のオフィスに入る。
書類に目を通す間、ユージンはじっと皇帝を見つめている。
「いつも、こんなに遅いのか?」
ユージンのデスクのコンピューターでファイルを展開して報告書を読みながら、シンカが尋ねる。
その蒼い瞳をユージンは瞬きもせず受け止める。
「いいえ。今日は陛下がお出かけのようでしたので、アシラさまとのお約束の時間までと思いまして。」
シンカがそっと抜け出していることを彼女は知っている。それでいて特段騒ぐこともなく、さりげなくフォローしているのだ。
そんな風に仕事に取り組める姿勢は素晴らしいと思うが、夜遊びしてきたシンカにとってはちくりと罪悪感だ。可能なら放っておいて欲しい。
「ユージン、こういう日は帰っていいんだから。俺に合わせることないんだ。」
傍らに立つ女性を見上げる。
「いいえ。陛下がお仕事なさっている時間は常におそばにおります。それが秘書官の務めですから。それに私、陛下のおそばにいられる事が誇らしいのです。」
少し面映い。シンカは視線を逸らす。
「……俺はあなたが理想と思う皇帝になれているのかな。」
「はい。」
ユージンの穏かな視線にさらされて、こんな会話をしていることに耐えられなくなってくる。照れることすらできない。
沈黙がシンカには重い。
横を見れば、ユージンが微笑む。
意味もなく鼓動が早まる。
シンカはなんとか報告書を理解して、コメントとサインを入れた。
星間通信の整備できていない惑星への開発計画に五年の期限を切って、シンカはその理由と今後のスケジュールを提出する指示とを書き込む。
サインとリングにある印璽を入れ込むと、決裁済みファイルとしてフィックスした。そうして誰も変更できないファイルにしてから担当に戻すのだ。こうすることで、シンカ自身が判断し決裁した書類は内容をたがえることなく、政策に生かされる。
「それじゃ、後よろしく。」
シンカは立ち上がって、秘書室を出る。
振り返れば、ユージンはまだ深く頭を下げていた。
「なあ、ユージン。もう遅いんだからちゃんと公用車で帰れよ。」
驚いて顔を上げた秘書官は目を丸くして、そう、少女のように頬を赤くした。少しばかり完璧な表情を崩させたことが面白くてシンカは笑った。
運転手つきの公用車で帰るように指示して、若い皇帝は執務室に入っていく。
その、後姿を見送りながら、美しい秘書は自分の胸の鼓動を聞いていた。
たった一回、目を通しただけの長い報告書に、担当者の納得できるように意見と展望を盛り込んで、的確な判断を下す。
こんな素晴らしい素質を持った人物は大臣クラスにもそうはいない。彼女はそう思う。
金髪の青年の真っ直ぐな蒼い瞳に、彼女は恋をしていた。
皇帝は決して私のプライベートな部分に立ち入らない。その気遣いは、大切にされていると感じることができる。でも……もう少し、近づけたら。
小さく、ため息をつく。
中央政府ビルの最上階。洗ったばかりの銀色の髪を拭きながら、少女はぷんと頬を膨らませた。
「遅いんだから!会議会議って、私の話聞いてくれないの?」
「ごめん。」
満面のやさしい笑みで謝られると、ミンクのほおの風船はすぐにしぼむ。
「な、どうだった?俺、学校って一度も行ったことないからさ、想像つかなくて。」
肩に手を回しながら、ソファーに座らせる。
「あのね、私もどきどきしちゃった。説明会場の外でね、先輩がたくさんいて、いろんなサークルに勧誘しているの。」
「サークル?」
「うん。スポーツのとか、乗馬とか、文学研究会とか、なんだかたくさんあって。講義の後に、週に一回とかそういう活動をするんだって。講義の内容もね、自分で選択したものを受けられるから、まず、今学期になにを受けるのか、決めなきゃいけないの。」
「へえ。面白そうだな。ミンクは、なにを受けるんだ?」
「まだ、これから考える。来週から正規の授業なのね。それまでは、いろいろ見て回れるんだ。説明会であった、同じ学部の女の子と仲良しになったから、その子と回ろうかと思ってるの。」
「どんな子?」
「ちょうどね、このビルの四階で働いている人の娘さんで、私も、同じように政府ビルにお勤めしている人の子供って言っちゃった。」
少女は小さく舌を出す。
シンカは蒼い瞳を細める。先ほどのユージンとは全然違う。ほっとできる。
仕事柄たくさんの仕事のできる女性に出会うが、ミンクにはそんな風になって欲しくなかった。彼女たちがいやだというわけではないが、生きることにストレスと達成感と目的を持っている彼女たちは、自分の理想の枠に入り込んで常に完璧な様子を見せる。
先ほどのユージンを思う。
彼女が俺に特別な感情を抱いていることは感づいている。
けれど、仕事柄そばにいられることで満足している。先ほどのようにどんな人間でもわかるくらい態度に出しているのに、本人は仕事だからと言い訳する。
はっきりと表に出されないために避けることも断ることもできずにいる。その態度を無視できないシンカにとっては、つらい。
ミンクの素直な言葉を聞いていると安心する。からかえば怒り、抱きしめれば照れる。その素直さは愛しいと思える。
「瞳の色とか変える必要はないとは思うけど、大丈夫か?」
「うん。遠い惑星の出身ってことにしてあるもの。これは本当だし、大丈夫。私はシンカと違って、あんまり表に出てないから。テレビとかに映るわけじゃないし。彼女ね、ブールプールの一番有名な進学校から、来たんだって。すごい、しっかりしてるの。」
「かわいい?」
「シンカ?」
睨むミンクに吹き出す。
「冗談だって。今日のミンク、いつもよりいい感じだよ。やっぱり、行くことにしてよかったな。」
「うん。ありがとう!」
青年に額の髪をなでられて、少し頬を赤くするミンク。シンカはよく、こうして額に触れたがる。それがミンクにどんな気持ちを起こさせるかはあまりシンカは気にしていないようだ。
「今日は、早く寝ろよ。俺、これからアシラと打ち合わせがあるんだ。」
甘い気持ちにさせておいてこれなのだから、ミンクも口を尖らせる。
「えー、これから?」
「アシラも忙しいんだ。ごめんな。ちゃんと髪を乾かして、すぐに寝るんだぞ。」
シンカは少し熱っぽいミンクの額に軽く唇を当てて、抱きしめた。
無理させてもいけない。ミンクは、体が弱い。
毎日授業があるようになると、今までより忙しくなるはずだ。注意して見ていてあげないといけないな。
生まれたときから、そばにいた。唯一、俺と同じ故郷、デイラの記憶を持つミンク。彼女を失うことはできない。
大切に、大切に守る。