3.ミンク4
「ルー知り合いなの?」
リトルが足をぶらつかせながら少女を見あげる。
「ね、かっわいいから、彼女?」
「そうかもね。」
リトルの質問にはカウンターの女性が答える。二人の見詰め合う様子を観察しながら、巻き毛の女性は頬杖をつく。
「お前、なんでこんなとこにいるんだよ!」
シンカが歩み寄れば、ミンクの驚きの表情は消え頬が膨らむ。
「シン……」
シンカの本名を呼びかけて、ミンクは慌てて言い直した。
「そっちこそ、なんでこんなとこにいるのよ!」
「仕事だよ。お前、だめだよ。帰れよ。」
真剣な表情で怒るシンカ。それがもっともだとミンクにも理解できるから余計に腹立たしい。
そう言うシンカの様子も仕事には見えない。当然いるはずの親衛隊も、ジンロの姿もない。以前シキが言っていた。シンカがお忍びで遊びまわっているっていう、それなのだ。
だとしたら、ミンクにも言い分はある。
「私が窮屈な思いしていたときに一人でそんな格好して。遊びまわっているって、本当だったんだ!」
「別に遊んでるわけじゃないよ!」
ミンクの肩に置いた手を、誰かに払われた。
シンカより一回り大きいプラチナブロンドの男だ。学生だろう、その服装は上でよく見かける。シンカは睨みつけて言った。
「なんだよ。」
「彼女が嫌がってるだろ。お前、ミンクの彼氏なのか?彼女にだまって遊びまわっているなんてよくないぞ。」
「そうだそうだ」と、後ろの学生がはやし立てる。酒が入っている様子。この男の目も少し酔っている。
シンカは眉をひそめる。酔っ払った学生たちが、ミンクと共にこんな場所にいるだけで苛立つ。
「ルーなんて、知らない!私、帰らないから!」
ミンクは背を向けて、奥の席に戻ろうとする。
「ミンク!」
ミンクまで酔っているのか?こんな危険な街に来るなんてわかっていたら大学なんか行かせなかった。
止めようとするクーナをすいとよけて、シンカはミンクの手をつかんだ。
「!」
振り向くミンク。
その目にうっすら涙を見て、シンカは手を緩めた。
不意に背後からクーナに組み付かれる。沸き立つ学生たちも立ち上がっていた。
「喧嘩はやめてよ!」
きゃーと女の子たちの声があがる。
ミンクも心配そうに振り返る。
その脇にブルネットの少女が立って、ミンクの肩に手を置いている。
例の、お友達か。
シンカはクーナの脇腹に肘を入れて、振り払う。
「どけよ、お前ら。」
大きな影が、学生たちの後ろから現れる。
アドだ。
「困るな、ルー。店で喧嘩なんかさ。」
「悪かったよ。」
シンカは内心安堵し、素直に謝った。酔っている学生相手に喧嘩したら、怪我させかねないから。それはミンクも困ることだろう。
「ルー、お前その子の男なのか?」
「ああ。」
臆面もなく肯定するシンカに、ミンクは少し頬を赤くした。隣に立つアレクトラは冷やかすようにミンクの腕をつつく。
「二人の問題なんだ。外に出るから邪魔しないでくれるか?」
そう言ってシンカは周りを見回すと、改めてミンクに声をかける。
「おいで、ミンク。」
ミンクは赤い瞳をぎゅっとつぶって、首を振った。
シンカの瞳に哀しい色がさす。
「いやだってよ。お前一人で出ていけよ。」
クーナがわき腹を押さえながら言った。やけに突っかかる態度のこの学生にシンカは苛立つ。
「だとよ。」
アドがシンカの腕をつかんだ。
シンカはくるりとひねって、アドを突き放した。
店内の皆が息を飲んだ。
「お前!俺とやろうってのか。」
不意打ちを食らったことに顔を紅潮させて怒るアド。シンカは小さくため息をつくと、目の前の大男を睨んだ。
「俺と、勝負しろよ。俺が勝ったら、ミンクは返してもらう。この間の俺の話も聞いてもらう。」
その言葉にミンクが振り向いた。
カウンターではバーテンダーが軽く口笛を拭き、学生たちは歓声を上げた。
目の前で痴話喧嘩するミンクたち、それに絡むクーナ。彼らの好奇心はそれだけでくすぐられるのに、この青年は有名な格闘家であるアドに挑もうというのだ。
身なりのいい青年が大柄なアドに叩きのめされる姿を皆が想像する。
その期待は興奮を呼び、酒を飲み干した学生たちは二人を急かす様に手拍子を始めた。
「ふん。いいだろう。そこの女、文句はないな」
彼らを包む一定のリズムの音は、引き返せないことを示している。
シンカが、どうしてそんなことを言い出すのか、ミンクには分からない。分からないが。このまま「危ないから一緒に帰りましょう」とは悔しくていえない。
ミンクはぎゅっと唇をかんで、小さく頷いた。シンカの視線を感じ、目をそらす。
(私だって、怒ってるんだから!皇帝陛下がこんなとこに一人でいるほうがずっと、皆を心配させるんだから!)
ミンクの思いももっともだ。
シンカは軽く肩を上下させ、手首を回して身体をほぐす。
「ルールは、なしだ」
そう言えばアドは目を細める。
「いいのか?オレのほうが有利だと思うが?」
「いいよ、俺は何でも使わせてもらう。あんたと力比べしたってかなうわけないからな」
そう言って、シンカは腰のナイフを示した。
「卑怯だぞ!」
学生の一人が叫んだ。
非難の目がシンカに向けられる。
その中にミンクがいる。じっとシンカを見つめる目は悲しそうに潤んで見えた。
泣くなよ。
シンカは、そう思う。
茶色みのかった短い金髪、深い緑の瞳で皆を見回すと、若き格闘家は言った。
「いいさ。好きにしろ。お前がナイフを使おうと、俺は負けないぜ。」
手を上げて皆を静まらせると、アドは店の外へと向かう。
シンカも後についていく。
戸口のところでリトルアドが、シンカの手を掴んだ。
心配そうに見上げる少年にシンカは笑いかけた。
「ごめんな。怪我はさせないから、安心しろ。」
「な、俺が心配なのはルーのほうだぞ!」
叫ぶ少年に、シンカは目を細める。
見つめる視線のほとんどが敵。二人を囲むように思い思いの場所で観戦を決め込んだ学生や通行人が人垣を作っていく。
薄暗い路地に黒い人の輪が出来上がる。
シンカは憧れの格闘家と向き合う。
まさか、こういう形になるとは思わなかったが、わくわくしていた。
初めてやりあった夜は「やっぱりすごいな」と感心したものだが。その相手に今は勝たなければならない。
アドは身長百九十八センチ、ウェイトは確か九十六キロ。シンカより、身長で二十センチ、体重で三十キロ以上違う。
普通に戦っていてはかなうわけはなかった。
ジンロの言葉を思い出す。
「なんでもありなら、勝算はありますよ」
大柄なのにかなり素早い。前回のけりを食らったことでシンカは学んだ。
今回はナイフを使わせてもらう。
その方がいいのだ。
卑怯といわれようと、これが一番、戦った後に遺恨がない。現役格闘家のアドが、見知らぬ青年に負けるわけには行かないのだ。だから、わざとナイフのハンデをつける。強さの基準をぶれさせることで、格闘家のプライドを守る。
聞けば「勝つつもりか」とアドは笑いそうだが。
シンカはナイフを抜いた。それは軍人用のもので、友人からもらった。軽くて、本来はシンカの体格ではあまり適していないのだが、持ち運びに便利で目立たないため、最近は長剣より、もっぱらこれで済ましている。
正対で構える。
アドは余裕なのだろう。正面を向き両拳を胸の前に軽く構える。
シンカはアドの得意な左ハイキックを警戒するため、どうしても左前の構えになる。
店の窓から、戸口から、学生とリトルアドが見守っている。
ざわめきが彼らを包む。
「やめておくなら、今のうちだぜ。」
アドが笑っていった。
「約束は守れよ。」
言いながらシンカが間合いを詰める。
同時にアドのローキックがシンカの左足に放たれる。
すっと足を上げて脛でガードすると、そのまま間合いを詰めて右ひざを繰り出す。
下がってよけるアド。
まっすぐ下がるのはくせなのか、シンカの出方を見るためか。
シンカは逃さない。そのまま詰め寄り、アドの足の甲を右足で踏みつけてナイフを突き出す。
「キャー」
観客の悲鳴。
アドは左足を封じられたために、一瞬遅れてシンカの突き出された手をつかむ。
その一瞬前に、シンカは右手から左手へナイフを投げ移す。アドがつかんだ右手を引くのにあわせて、右反転と同時に裏拳。左手に握るナイフの柄を突き出す。
飛びのいて避けるアド。
「ふん。なかなか、やるな。」
シンカの繰出す一手一手はすべて確実に急所を狙っていた。アドはそれに気付いている。
シンカはにっと笑う。
その笑顔は、ミンクの見知らぬものだった。
胸元で両手をぎゅっと合わせて祈るように二人を見つめているミンクは、はじめてシンカが本気で戦っているところを見るのだ。どきどきして心臓がおかしくなりそうだ。
「なんだか、いいなぁ」
ミンクの肩に手を置いて、アレクトラがそっと言った。
「いい?」
「うらやましいよ、ミンク。すごく愛されてるって感じで」
アレクトラはウインクした。
ミンクは黙って、シンカを見つめた。
「心配しなくても大丈夫っすよ。ルーは俺が教えたんです」
いつの間にか背後に背の高い大柄な男。灰色の髪に鋭い視線。
「ジンロさん!」
「アドの競技用の格闘技と、ルーの実戦用のとは性質が違う。アドもそろそろ気付くと思いますよ」
アドは目の前の青年が、今までと違う印象であることに気付いていた。武器を持つ相手と戦う。それも、その辺のいきがってる若者ではない。
見かけよりずっと大きく感じる存在感。そう、軍人に似ている。目の前の青年は人を殺した経験がある。そういう目をしている。アドは直感している。
あの人懐こい笑顔とのギャップが、かえってアドを嫌な気分にした。
睨みつける。
次のきっかけはアドの素早い回しげりで始まった。
先日とは違って、シンカは蹴りを腕でガードした。下がらない。ここで下がったら、アドの得意なパターンになってしまう。
もう一度とばかりに放たれた左ハイキックをかがんで避けるとシンカは右に一歩踏み出す。
背後を取ろうとするシンカ。
ハイキックは動作が大振りになる。放った後の隙が狙いどころだ。
しかし、そこはアドが早かった。
アドは待っていたとばかりに、そのまま右ひじで裏拳を繰り出す。
シンカもそこは想定内だ。
シンカは間合いを詰め、アドのひじに左手、拳に右手を絡めてひねり上げると、ぐんと押し込んでアドの軸足をはらう。
バランスを崩して倒れるアド。
一瞬、シンカが有利になりかかった。
が、アドは左手で逆にシンカの胸倉をつかんで、引き倒す。
投げを返された形になったシンカは、右肩から地面に落ちた。
アドが馬乗りになる。
数発、顔面にパンチを食らって、シンカの白い頬に赤い傷ができる。
完全にアドが有利になった。
はずだった。
アドのパンチをよけて右上腕を左腕で絡めとり、半身を起したシンカは、アドに下から抱きつくような格好で右腕をアドの首に回す。
その手にはナイフがあった。
左腕でシンカの後頭部を殴ろうと振りかざすアドに、シンカは耳元からささやいた。
「いいのか?」
刃がちくりとアドの太い首に食い込む。
アドの動きが止まった。
「卑怯だぞ。」
アドの声に、シンカは言った。
「俺は格闘家じゃないからな。言っただろう、最初から。誰かと戦うときは、相手を殺すつもりでやってる」
躊躇のない声色を感じて、アドは、黙った。
「俺の勝ちでいいかな」
シンカの問いにアドは小さく息を吐くと、悔しげに目をそらした。
その時のシンカの瞳を見つめたものは震撼したかもしれない。それは、太陽帝国軍、軍務官ゆずりの迫力ある視線だった。
冷酷な表情。
シンカは気づかなかったが。
それを、ミンクは見逃さなかった。
ミンクは初めてレクトを見たとき、シンカに似ていると思った。その時と同じ勘のようなものが働いて、やっぱりシンカはレクトの子供なんだなと思う。
強いわけだ。
感動のようなものが、少女の心にわきあがる。
心無い学生たちは、口々に卑怯だなどとこぼしている。
だが誰も、正面切ってシンカに物申す勇気はないようだった。その時点で、学生たちのほうがよっぽど卑怯だとミンクには分かった。
学生たちから離れて、シンカに歩み寄った。
シンカは立ち上がって、アドに微笑みかけたところだ。アドはただムッとしていた。
「ごめんなさい」
視線はシンカの足元のまま、少女は言った。
「二度と、ここには来るなよ」
厳しい表情でシンカが見つめる。シンカがいつものように当てる手は暖かく、ミンクは心地よいそれに涙がこぼれそうになる。その上シンカはしっかりミンクを抱きしめるのだ。
苦しいほどのそれはとても温かい。
(私が意地を張ったから、シンカは危険な勝負をした。それなのに、私のことを気遣うばかりだ。自分のことなんて何も考えていない。)
「ごめんね。」
小さなミンクの声にシンカは額のキスで応える。
「ジンロ、ミンクを頼む」
「気付いていたっすか」
回りもよく見えていたということか。ジンロはふと珍しく笑みを漏らす。
「目立つよ、お前。ミンクを頼む。俺、アドと仕事の話をしたいんだ。でも、よく場所分かったな」
「いえ、まあ、ここの出身なんで」
微笑むシンカにジンロはあいまいに答えた。レクトが自由にシンカの居場所を知ることが出来るなど、言えばまた親子喧嘩だ。
プライバシーも何もあったものではないが、皇帝陛下ともなればそういうものだろう。可哀想な気もするが。
「それより、俺も同行しましょうか」
笑うシンカは、いらない、と手を振る。
「シンカ、大丈夫?」
「ああ、後でな」
ミンクはジンロに引かれて、歩き出した。
「ミンク、帰っちゃうの?」
アレクトラが、口を開いた。残念そうな口調だ。
「うん。ごめんね。私、帰るよ」
銀の髪をゆらりと翻すミンク。その笑顔がいつもよりずっと可愛らしく見え、アレクトラはまぶしそうに目を細めた。
傍らのジンロは、見上げなければ表情が分からないほど大きい。歩きながらジンロはぼそりと声を出す。
「ミンク、あんまり心配かけないでくださいよ」
「だって、シンカだって皆に心配かけてる」
「俺が言ってるのは、シンカに心配させないようにってことっす。俺はあんたの心配はしないんで」
ミンクは頬を膨らめた。それはそうだ、ジンロがミンクを心配する必要はない。仕事なのだ。彼が心配するのは、シンカのことだけ。
すねた気持ちのまま、うつむいて、ジンロについていく。
「そうね、ジンロも仕事で来ているだけだもの、本当は私なんかより、シンカのこと守るはずなんだよね、シンカのために来たんだよね、私の世話なんか頼まれちゃて、迷惑だよね」
「ミンク」
「だって、窮屈なんだもの!シンカの恋人ってだけで、一人で出かけられないなんて!折角大学に入ったのに、お友達と同じように遊べないのよ!大学も送り迎えされてるし、誰にも本当のこと言えないし、私だって、皆と同じように、お買い物とか、美味しいもの食べに行ったりとか、したいのに、ずっと、我慢してるのに」
ほっとしたのか、シンカに言えずにいたことが、堰を切ったようにあふれ出した。シンカのほうが大変だから、忙しいから、そう思っていつも我慢していた。
「泣かなくたっていいじゃないっすか!」
ジンロは少し慌てた。
理不尽極まりない状況なのに、女の涙というものは厄介だ。無視できない気分にさせる。
あまり、女の子を泣かした経験はない。女ならともかく、十七歳年下のミンクはジンロにとっては子供と同じだ。ジンロは困った。
「じゃあ、今度シンカと出かける時に、一緒に行きますか」
「!ルーと一緒ってこと?」
少女の表情がころりと変わって、華やかに笑う。
「やったぁ!うれしいな、あのね、アレクトラが言ってた、とっても美味しいケーキを食べに行きたいの!だってね、一日五十個限定でね、店頭でしか売ってなくてね…」
ああ、ケーキ、それは無理かも知れない、そんなことを思いながら、ジンロはシンカの日々の努力を垣間見た気になった。