3.ミンク3
その頃、金髪をくしゃりと乱れさせた皇帝は前回同様、仏心街に来ていた。
今日も一人きりだ。一人で出かける時には誰にも、もちろん勘のいいユージンすら気付かれないように出てくる。
前回より時間が早いため人通りもそこそこある。代わりに囲まれること数回、それでもナイフを使わずにアドのジムまでたどり着いた。
閉まっている。灯りも消えていた。
アドの家までの通りに行きつけの店があるらしいから、そこをのぞいて見よう。いなかったら直接アドの家に行こう。そんなことを考えてシンカは歩き出す。
ドン。
薄暗がりの中、シンカは小さな子供にぶつかった。
腰くらいまでの身長の彼をとっさに捕まえて支える。
黒い髪白い肌、そのグリーンの瞳は少しアドに似ている。
「いってえな!おっさん。」
くすっと笑うシンカ。
「ごめん。」
おっさん、なんて言われたのは初めてだった。いつも大人に囲まれて子ども扱いされてきた。少し嬉しい気分だ。
少年は小さな手シンカの前に突き出した。
「慰謝料!」
「いくらだ?」
微笑んで話に乗ってみる。
「い、一フラン。」
「それじゃ、医者は診てくれないぞ。」
「え、じゃあ、十フラン。」
俺が子供の頃もこんな感じだったかも。精一杯、自分にとっての大金を口にする。
けれどそれは大人から見れば可愛らしいものなんだな。
「笑ってないで、払えよ!」
「なんに使う?」
「バズが足痛いって言うから。…そんなこと、あんたに関係ないだろ!」
「自分のためじゃないのか?」
「俺、元気だもん。」
少年の大きな瞳を見つめる。その目は生き生きしている。けっしてそらさない。この街では、あまり見かけない。いるんだな、こういう子も。
黒い髪をくしゃっとなでて、立ち上がると、少年に言った。
「俺がバズをみてやるよ。」
「なんだよ、医者かよ。それならそうと、早く言えよな。」
シンカは、先月、太陽帝国の医師免許を取得した。薬も機材もないが、この子に、ただ金を渡すよりはましだろう、と考える。
「お前、なんていうんだ?」
「俺、リトルアド。」
「アドの知り合いか?」
「ばか、そう呼ばれてるんだ!っていうか、そう呼んでほしいんだ。」
胸を張って一歩前を歩く少年に、笑みがこぼれる。
シンカはふと思いついて、聞いてみた。
「お前、この街のこと好きか?」
「おう。いろいろ大変だけど、楽しいよ。」
シンカが、アドの口から聞きたかった言葉だった。
リトルアドが青年を案内したのは小さな路地の奥の診療所だった。
小さなアルミの扉を押し開くと、すえた匂いがした。
さび付いた看板にかろうじて診療所と読める。
こんな町でまともな医者が営業できるとは思えなかった。もぐりかもしれない。
「ここだよ」少年が案内した部屋には、白いものの混じった髭を不精に生やした男が、白衣らしきものを着てさびた椅子に座っていた。
診察台にはこの間の片足の子供。
「なんだ、リトル、誰連れてきたんだ。」
男はシンカを見るなり睨みつける。酒の匂いがしていた。アルコールの類が駄目なシンカはそれだけで気分が悪くなりそうだ。この男、依存症か。
そう観察しながらもシンカはにっこり笑って見せた。
「僕、ルーって言います。この子に頼まれたので。」
上着を脱ぐと、診察台の子供に目をやる。
「ここは、俺の診療所だ。よそ者は出てってもらおう。俺は上の人間を見ると反吐が出るんだ。」
男は椅子を派手に鳴らし立ち上がると、シンカを押しのけようとする。
その手をかわして男を無視すると、シンカは横たわる子供の額に手を当てる。リンパ腺を確認する。
「おい!聞いてるのか!」
「一フランでいいっていったのは、それで酒が飲めるからか?」
金髪の青年は妙に迫力のある口調で、老医師のほうを見ずに尋ねる。
「それで、キチンと診てくれるなら、なかなかいい医者だとは思うけどね。」
子供は熱が高い。リンパ腺がかなり腫れていた。
「ふん、お前も医者か。お坊ちゃまが道楽で人助けなんて、泣けるねえ。特別な治療でもしてくれるのか?けど、バズは助からねえよ。治療はできても、薬を買えねえ。」
助からない、その言葉にシンカの傍らでリトルアドが身を硬くする。
「それでも、この子を助けたいって言う奴がいるんだ。この場所を貸してくれると助かるんだが。あんたは、寝ていても飲んでいてもいいからさ。」
シンカはそっとリトルアドの肩に手を置いた。
この医者もそんなに悪い奴ではないようだ。ただどうしようもなく金がない。薬も買えない。その憤りと絶望が酒に走らせるのか。それでも、ここで診療を続けるのはこの街が好きだからだろうか。
微笑んでゴーグルを外したシンカを見て、老医師は怪訝な顔をする。
「子供じゃねえか。」
「医師免許はあるよ。それに十九だ。」
「嘘つくな、どう見ても十六、七だぞ。」
反論する気にもならない。苦笑いしながら、シンカは子供の手に巻いたあの布を取ってみる。ひどく腫れてただれていた。
「あれからずっとこの布巻いてたのか?」
バズは瞳を開き、シンカを見る。少し笑った。
「俺がとったほうがいいって言ったんだけど、バズがどうしても取りたくないって言うんだ。」
リトルアドが覗き込む。
「うわ、すげえ。やっぱり、俺の言うこと聞いておけばよかったのにさ」
傷口の様子に少年は顔をしかめる。
シンカは医師に手を差し出した。
「ドクター、そこの酒、もらえるかな。」
「ねえよ。」
「そこにあるだろ、あんたの後ろの棚に。」
目ざとい青年に、しぶしぶ度数の高いブランデーを取り出す。
それで傷口を消毒すると、シンカはナイフを取り出す。
「どうするの?」
リトルアドが、緑の瞳を興味深そうに見開いている。
「ごめんな、これは応急処置なんだ。それより、リトル。さっきお酒でやったこと、お前できるか?」
シンカはナイフで自分の手首を切りながら言う。
「うひゃ!」
その様子に子供と老医師が痛そうな顔をした。
シンカはもちろん痛いが、表情に出すほどではない。なれている。
「お前、なにするんだ。」
医師が慌てて、シンカの血を止めようと、手首をつかむ。
「まあ、見ていてくれ。」
意外なほどの力でその手を引き離すと、金髪の青年は笑った。
滴る血液を子供の傷口にたらす。
じんわりと染み込んだ血液を見て、リトルアドが口を押さえる。
腫れていた手のひらが、見る見るうちに治っていく。
「少し特殊なんだ。一時間後には熱も下がるだろう。」
「お前、何者だ?」
シンカは医師の質問には答えない。
「なあ、リトルアド。今のは、俺の血でしかできない。だから、絶対真似するな。普通の人がやったら死んじゃうからな。お前は、バズがどこか怪我したら、お酒を使って消毒してやるんだ。バズは免疫不全になってるんだろ?」
そこで、老医師を見つめる。
「あ、ああ。母親から移されてな。」
「足を切断するまでいたって、それでも命があるんだ、あんた、相当いい腕してるんだな。これからもこの子達を頼むよ。」
握手するシンカの手首に、既に傷がないことを知って、老医師は固まる。
「俺のことは、忘れてくれていいから。」
「俺、忘れないよ。ルー!俺、あんたが気に入った。」
にっこり笑って、シンカの手を握る。
面白い子だな。
最後に、横たわるバズの手をそっと握ってやる。
この間は無表情だった子供は、なれない笑顔を浮べる。やさしくされて嬉しいのは当然なんだ。子供ならちゃんと顔に出る。心に響く。
それを忘れさせてしまうこの街は、やはり現状のままでは駄目だ。
改めてこの街の将来を考え直すことに決めた。
アド・エトロは、行きつけのバーにいた。
外から、ちらりとのぞく。カウンターで、プラチナブロンドの青年と話をしている。試合前だからかアドが飲んでいるのはアルコールではないようだ。さすがだな。
「ルーも、お酒買うの?」
振り向くと、リトルアドだった。
「いや、俺はアドに用があるんだ。」
「俺、医者のおっちゃんに頼まれたんだ。あ、アド!」
店の戸口に、大きな影。ぬっと、出された手が、シンカを押しのけようとする。
「やあ。」
シンカが笑ってよけると、アドは顔をしかめた。
「リトル、お前、なんでこいつといるんだ?」
「さっき、バズを助けてもらったんだ。」
にかっと笑う少年は、アドの足元をすり抜けて、店に入る。シンカも続いて入ろうとする。
「ここは、俺のスポンサーの店だぜ。」
若い格闘家は、金髪の青年を見下ろして言った。いいのか?入る勇気があるのか?
そんな表情だ。
「ルーも来いよ。」
リトルアドが、振り向いて笑う。
「ああ。」
シンカは笑顔を返して、アドの脇を抜けた。
カウンターに子供と二人で座ると、シンカはソーダ割りを頼んだ。飲めないのだが。
リトルアドはジュースをもらう。医者に、さっき使ったブランデーを買って来いといわれたらしい。いつものことのようでカウンターの男はにっこり笑う。
「あら、初めて見る顔ね。かっわいい!」
金髪の巻き毛の女が、赤いドレスの胸元を強調させつつ、シンカの前で顔を傾げてみせる。
「はじめまして。俺、ルーです。」
笑顔で答える。青年の黒い大きな瞳は、笑うととても魅力的に光る。一瞬、のまれた女性は、照れたように視線を外した。
「今日は、新しいお客さんが多いわね。ほら、あっちにも珍しい若い子達が。」
「学生?」
「あら、君もそれくらいじゃないの?」
振り向いて、ソファーに集団でいる若者たちを見つめる。
銀色の髪、赤い瞳、白い肌。
小柄な少女と目が会った。
「ミンク!」
がたりと、立ち上がるシンカ。
ミンクもこちらを見て立ち上がった。