君はきっと怒るんだろうな。
昔のテクスト。塩漬けにしておくのもアレなのでお蔵出し。
前に置かれたアメリカンコーヒーの香りが僕の鼻をくすぐる。昼下がりの喫茶店にはほとんど人がいなかった。
きっと砂みたいなもの。そう、君は言った。
「まるでさらさらと風に飛ばされていって、いつか輪郭を失って忘れ去られてしまう」
君は、長い黒髪を払いながら、君自身のことをそう表現した。ふわ、と鼻先に、君のシャンプーの香りが当たった。
そんなわけはない。その時の僕はたぶん首を横に振ったはずだ。でも、あの柔らかな日差しが降り注ぐいつもの喫茶店の中にあったはずの時計がどんな時計だったのかを思い出すことができずにいるし、コーヒーの香りはただ平板なコーヒーの香りが思い出されるだけで、どんな気持ちが湧くでもなかった。それどころか、僕の差し向かいに座って微笑んでいるはずの君の顔もまるで思い出せない。いや、もしかしたら、君はそもそも微笑んですらいなかったのかもしれない。君の姿があまりに眩くて、僕はいつも目をそむけていた気がする。そうして僕は、君の本当の顔を思い返すことができずにいるのかもしれない。
それは一般論の話? きっと僕はそうやって取り繕ったはずだ。苦いコーヒーで口を湿らせて。
すると君は、コーヒーをすすって答えた。
「いいえ、あなたはきっと誤解をしている。わたしが今話しているのは抽象論じゃない。もっと具体的で、もっと取り返しのつかないこと」
そう、君はいつも、小難しいレトリックで僕を困らせた。具体的だと言いながら、まったくその言葉には中身がない。そんな気がした。
「じゃあ、なんだっていうんだ」
「そうね、たとえば、なぜあなたは存在するのかな」
きっとそれがありがちな「存在意義」とか「生きる意味」ではないことは僕にもわかった。きっと君は、もっと化学的、ないしは実際的なことを聞いている。そんな予感があった。
曖昧に頷くふりをすると、君は少し頷いた。
「きっとそれは、わたしがいるから」
ん?
小首をかしげる。君は口を開く。だって君は優しいから。
「人間は一人で生きていけないっていうのは分かってるでしょ? 人に寄りかかってるとかそういう話ではなくて、わたしがあなたのことを認識しているからあなたがいる。そんな話」
ああ。
この話か。僕は合点した。
君はよくこの話をする。それこそ、ご飯を食べている最中とか、キスをする直前とか--。いずれにしても、君は事あるごとにこんな話をして場の空気を悪くした。僕が時々抗議をすると、君は僕の鼻先をつんとつついてふふ、と声を上げた。それが、理系と文系の頭の違いなのね、と。
つまるところ、文系の僕には分からない理屈が君にはあって、なんだかそれが寂しかっただけのことだ。
でも、そんな僕のことなんて、君はまったく意に介さなかった。
「要は、この世の中のすべてをつなぎとめているのは観測者なの」
「観測者」
「そう、いくら星が存在するとしても、その星を見る人がいなければ存在しないも一緒でしょう?」
なぜか嬉々としながら君は喋っていた。それに君は気づいていたかい?
「つまり、裏を返せば、もし、この世界の皆がわたしを見なければ、わたしは存在しなくなる。そういうこと」
化学の実験のような口ぶりで、さらりとそんなことを言う君は、恐ろしく綺麗だった。
きっと、僕は訳も分からず顔をしかめていたのだろう。君は悪戯っぽく笑った。
「試してみる?」
と。
君は、僕の鼻に人差し指を延ばした。冷たい感触。でも、僕にとっては温かくて優しい、そして残酷な、きみのて。
僕はきっと、この指が好きだったんだ。細い指を見ながら、僕はそう思った。
「目を閉じて」
言われるがまま、僕は目を閉じた。コーヒーの苦い香りと君の指の甘い感触だけが伝わってくる。
「はい、目を開いて」
目を見開くと、そこにはもう君はいなかった。ぽっかりとした空白だけが、コーヒーの香りをないまぜにしてその場に横たわっていた。君が持ってきていた、ハンドバックだけを残して。
その日から、君は僕の前から姿を消した。
君を知る人はたくさんいる、はずだった。なのに、君のことを覚えている人は誰ひとりとしていなかった。君は、消えてしまった時にいろんなものを残している。ハンドバッグから始まり、財布や身分証明書。それどころか君が住んでいたマンションや使っていた車さえもごっそり残っていた。にもかかわらず、誰も君がいなくなったことには気づかなかった。
理屈は分からない。でも、僕はある仮説を立てた。
きっと君は、皆の観測の目から逃れる術を見つけたのだろう、と。誰かが蒸発した時に騒がれるのは、『あの人がいない』という事実を観測されているからだ。でも、君は何らかの手段によってその事実さえも観測させなかった。そういうことなのかもしれない。
文系の僕には、今一つ分からない。でも、きっとこういうことなんだろう。
君がいなくなって一年。
僕はある賭けに出ることにした。
場所は、君がいなくなったあの喫茶店。あの時と同じようにアメリカンコーヒーを頼んだ。柔らかな日差しもあの頃のままだ。一年前の、あの日のまま。
アメリカンコーヒーをすすって、僕は目を閉じた。コーヒーの香りが鼻先をかすめる。でも――。その中に、君の香りを見つけた。
シャンプーと、君の甘い香りを。
僕は目を閉じたまま手を伸ばした。
温かな何かが指先に触れた。ふにふにとしてやわらかい何かに。
と――。
「なんで観測されちゃったんだろう。あなたが文系だから?」
目を開こうとしたのに、その声は僕に目を開けるのを禁じた。そ
「ずっと探していたんだ」
「ってことは、あなたにはずっと観測されていたってことになる。『わたしがいない』ということを認識しているということは、あなたは私を観測したままだったってこと。わたしの実験は失敗みたい」
「失敗してよかった、って言ったら、君は怒るかい」
「怒る」
はは、目を閉じたまま僕は笑った。
「でもね、君がいくら怒ったって、僕には関係ないんだ。だって、これは僕の思いだもの。誰に怒られようが、これは僕の思いだ。――失敗してよかった。心からそう思うよ」
「ふん」
鼻先に、冷たい感触が走る。細い指の感触も一年ぶりだ。
でも、その感触も、やっぱり温かかった。
僕はゆっくりと目を開いた。目の前に座っていたのが天使だった、なんて言ったら、君はきっと怒るんだろうな。