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五章

 御繪県みえけんの深山に、隠れるように屋敷が建っている。屋敷には天照大神と瀬織津姫が集っていた。十月某日、彼女たちは日の本のために力を奮う。式年遷宮における遷御せんぎょの日に、闇を黄泉へと誘わんとする。

 天津神の後継者たる天津照は、その屋敷の一室――母、陽子がおわす一室にて膝を折った。

「お母さま。お喜び下さい。織津瀬里奈が瀬織津姫の力を無事に継ぎました。これで、本日の儀式を執り行うことが――貴女がこれからも天津家当主として生き続けることができます」

 照の言葉が、静まりかえった部屋に響き渡る。

 部屋の四隅には闇が潜み、その音の波を吸い込んだ。

 陽子がゆっくりと口を開く。紺色の着物に、地面に着かんほどのぬばたまの髪が流れている。

「その結果、織津の娘が死ぬわ」

「……………」

 沈黙が満ちる。

 そうして、数分が過ぎた。

 再び、陽子が言の葉を繰る。

「照。綾瀬さんもいらしているそうね」

「……はい。お母さまを裏切った女。追い返そうかとも思いましたが、国津の護衛が二名ついており、容易には――」

「いいわ」

 陽子が笑った。

「母から力を継いで五年。わたくしはずっと、綾瀬さんに会いたかった。けれど……」

「お母さま?」

 天津照は訝しげに母を見る。

「いいえ。何でもないわ」

 かぶりを振るう陽子。そして、ゆっくりと立ち上がる。

「照。綾瀬さんの元へ案内してくれる?」


 織津瀬里奈と綾瀬、国津禍人とククリは屋敷の一室に押し込まれていた。一般的な部屋よりも大きいとはいえ、この屋敷においては最も小さな部屋である。

「……そのっ、瀬里奈っ」

「ママっ。そんな顔をしないでくださいっ。瀬里奈は大丈夫ですっ」

 心配そうに瞳を伏せている綾瀬に対し、瀬里奈はお日様のような笑顔を浮かべていた。

 オッチャンが嘆息する。

「おかしいねぇ。瀬織津姫ってのは一応、穢れの神なんだがなぁ。こんな眩しい穢れがあるんかね」

 白髪の目立ち始めた頭や、目尻に刻まれたしわは、間違いなく中年男性のそれだ。しかし、一般的な中年男性は、女子中学生を眩しそうに見つめたりしない。

「……ロリコン?」

「いやいや! 口説いてるわけじゃないぞ!?」

 ククリの端的なツッコミに、オッチャンは焦った声を上げた。

「せっとくりょくがない」

「んなことないっしょ! オッチャンはノーマルラヴのナイスミドルなの!」

 ナイスミドルは決してそんなことを言わない。

 ククリは冷めた瞳をオッチャンに向けた。

「うふふっ」

 瀬里奈が可笑しそうに笑った。ぺこりと頭を下げ、ありがとうございますっ、と口にする。

 そうしてから、綾瀬の手を取る。

「瀬里奈はママが好きですっ」

「瀬里奈っ」

 突然の告白に、綾瀬が驚いたように目をみはる。

 瀬里奈が続ける。

「パパが好きですっ。武御那さんが好きですっ。和己せんぱいもっ、高良せんぱいもっ、禍人さんもっ、ククリちゃんも好きですっ」

「……ヒメ」

 彼女の生は、光だけが満ちたソレではなかった。事実、瀬里奈にとって友人と呼べる者は多くない。大概の者は知人でしかなかった。環境が変わることで話をしなくなる、その程度の存在だった。悪くすれば、敵ですらあった。

 瀬里奈自身の変人的な性格が他人を遠ざけたのか。人見知りとしかいえない心のありようが他人を拒絶していたのか。

 それでも――

「よしのちゃんが好きですっ」

 幼稚園で出来た友だちは、近くでずっと共に在ってくれた。

 そして、彼女の心が瀬里奈を前に進めた。

 それゆえに、彼女は、彼女ではない誰かを信じられる。『王子様』だと想える。

「瀬里奈は――照さまが大好きですっ」

 照とは、友とは呼べない関係なのかもしれない。けれど、瀬里奈は彼女が大切だと感じた。偽りだったかもしれないが、笑顔を向けてくれた。そんな神の娘は、どこか暗い目をしていた。

 彼女はきっと、瀬里奈を拒んでいる。

 それでも瀬里奈は、彼女を大切だと想った。想えた。

 愛されなければ愛せないというなら、それはきっと愛ではない。友ではない。王子様だと想う資格がない。

 どんなに拒絶されようと、瀬里奈は彼女と共に在りたいと、友で在りたいと願った。

「だから瀬里奈は――みんなといっしょに生きたいっ」

 心から、そう想った。


「なら貴女は――お母さまを殺すの?」

 激しい感情を抑えつけたようなその声音は、場を凍りつかせた。

 照が、陽子と和己、高良、内女をつれて、部屋の入り口に立っていた。

「貴女は瀬織津姫の力を継いだ。つまり、全ての過去を、事実を、実感しているはず。その上で生きたいと望むということは――そういうことなんでしょう?」

 一歩を踏み出して、照は身体の深奥に潜む力を解き放つ。

 その力は、天津神や国津神には、力を継いだ瀬里奈には、間違いなく、遠く及ばない。それでも……

 がんッ!

 風が屋敷の壁を突き破った。

「ひ、照様! 掃除をするのはわたくしですよ?」

「掃除くらいでガタガタ言うな、内女!」

 照の怒声にともなって、力が瀬里奈の身体をさらう。屋敷の外へと吹き飛ばした。

「きゃあっ!」

 地に身を打ち付け、瀬里奈が顔をしかめる。

「姫! ちっ、ククリ!」

「ん」

 ククリが照に襲いかかる。しかし――

 どんッ!

 幼女の拳を受けたのは、和己だった。

「照様は織津瀬里奈の元へ」

「……ええ」

 照が駆ける。

 その道を阻もうと、オッチャンが動くが……

 がんッッ!!

 衝撃が襲いかかり、オッチャンは瀬里奈とは違う方向に飛ばされた。

「悪いけど、気の済むようにさせてあげてくれ」

「……ッつう」

 天手力雄命の一撃は、充分すぎるダメージを大禍津日神に与えていた。

 その様子を横目で見て、ククリが嘆息する。

「ククリたちがあらそうイミはあるの?」

「ない」

 問いに、和己がきっぱりと答えた。

「でも、たたかう?」

「照様を阻むのなら、そうだ」

 やはりきっぱりと答え、建御雷神が刀を構える。

 ビリっ。

 刀には雷が宿っていた。

「……ビリビリはイヤ。はやくカタづける」

「やってみろ」


「瀬里奈っ! 禍人くんっ! ククリちゃんっ!」

 それぞれに戦いを始めた神々の名を、神になり損ねた人が叫ぶ。

 そんな人の子の前には――

「お久しぶりね、綾瀬さん」

 やはり神が――天津陽子がいた。

「陽子っ……ちゃんっ」

「二十年前――あの時もここで、わたくしたちは出逢った。そして、決別した」

 綾瀬が神の器でなく、ただの人でしかなかったために、彼女たちは袂を別った。

 それは、今も変わらない。綾瀬はただの人でしかなく、少しの力も有してはいない。

 けれど、陽子は微笑んでいた。少しの恨みも抱いていないようだった。

「陽子ちゃんっ?」

 訝しげに佇む綾瀬。

 一方で陽子は――

「陽子ちゃんっ!?」

「……ごめんなさい。ただそれだけを、言わせてください」

 深く深く頭を下げて、寂しそうに、そう言った。


 身に宿る『瀬織津姫』の力を解き放ったことは、今生においてまだない。

 それでも、瀬里奈はその感覚を識っていた。遙かなる昔から、『彼女』は力を扱うことが出来たのだ。

 しかし――彼女はそれを望まない。

「照さまっ! 聞いてくださいっ! 瀬里奈はっ」

「うるさいッッ!!」

 照の解き放った力が、瀬里奈の身体に鉛のような重みを感じさせる。重力を操っているのだ。

 ズンっ!

「……ううっ……」

 大地に身を沈めて、瀬里奈が呻く。

「織津瀬里奈! 貴女は! 貴女はッッ!!」

 照が叫ぶ。

 彼女の表情は怒りに満ちていた。他の感情など窺い知れない。

 けれど――

(照さまがっ、泣いてますっ)

 瀬里奈には、そう見えた。

「貴女たちはッ! 貴女までもッ! 全てをお母さまに押しつけてッ! 許さないッ! 決して貴女を――瀬織津姫をッ!」

 ズンッ! ズンッ!

 照が掌を突き出すたびに、瀬里奈が地に沈んでいく。痛みが彼女の身体を駆け抜ける。

(痛いっ、ですっ。でもっ、これが瀬里奈のっ、『瀬織津姫』の罪でっ、罰だからっ。これでいいっ、ですっ)

 ズンっ! ズンっ!

 沈みゆく身体。けれど、致命的なダメージを受けることはない。

 瀬里奈に宿った力は、それほどに強いものなのだ。

(この強い力はっ、みんなを救うためのものっ! だからっ――)

 望むことを、望むままに。

「瀬里奈は決してっ、誰の死も望まないっ!」

 それが、彼女の願いだ。

(瀬里奈が死んだらっ、パパもっ、ママもっ、よしのちゃんもっ、照さまだってっ、みんなが悲しむんですっ! 分かってますっ! だからっ、瀬里奈もっ、照さまのお母さんもっ、絶対死んだりしないようにっ、頑張りたいんですっ!)

 瀬里奈は皆の想いを信じた。幸せを願う気持ちを、信じた。

 だからこそ瀬里奈は、願いを抱いた。欲張りとも言える願いを…… 

(でもっ――)

 けれど、その願いがもしも、決して叶わないというならば――

(その時は……ごめんなさいっ、よしのちゃんっ)


 スゥ……

 一帯に闇が落ちた。突然の現象に、争っていた神々は戸惑い、視線を巡らす。

「これは――お母さまっ!」

 その闇は、深山の屋敷一帯のみにもたらされたようだった。遠くの稜線は、光に包まれている。

 日の本に宿る闇の気が、主神の意思を受けて集い始めたのだ。

「……っ! んんっ!」

 照の背後で、瀬里奈がうめき声を上げた。

 それは、当然のことだった。二十年に一度の儀式が始まったのなら、瀬織津姫に闇が集う。

 闇は神の身を蝕み、死へと誘う。

「お、織津さ――」

 バッと振り向き、照は無意識のうちに、瀬里奈へ駆け寄ろうとした。

 しかし、直ぐに立ち止まり、口を真一文字に紡ぐ。

 彼女にとって、瀬里奈はそういう役割だったはずだと、無理矢理そう、納得した。

「それが貴女の責任……」

 穢れの神。主神の荒御魂。闇を負うべき代替神。

 瀬織津姫が果たすべき――責務。

「それを果たしてよ。お母さまにこれ以上……押しつけないでよ……」

 織津綾瀬が神の器でなかったために、日の本において日常的に生じる負担は『天照大神』に集ってきた。そのことが、天津陽子の命を少なからず削ってきた。

 その様子を目にして育った少女は――懇願するような瞳を、瀬里奈に向ける。

「――っ! はっ、はいっ。わかってますっ、照さまっ」

 前髪をいじる照の言葉を受け、神は微笑んで見せた。

「瀬里奈は絶対っ、照さまのっ、お母さんをっ」

 言葉を途切れ途切れに紡いで、彼女は笑う。

 どう転んでも『彼女』だけは救うと――かつて望んだように『彼女』に光を与えると、そう決意したのだ。

「だからっ、泣かないでくださいっ、ねっ?」

「……泣いてなんか、ないッ」

 光がこぼれ、地に落ちた。


 同じ時、メタメタに壊れた屋敷の中で天津陽子が胸を押さえていた。彼女は、苦悶の表情を浮かべて、膝をつく。

「よっ、陽子ちゃんっ!?」

「……始まったようですね。くうっ!」

 胸に痛みを覚えて、陽子は床に倒れ込む。

(そっ、そんなっ…… 式年遷宮の儀式で集う闇はっ、瀬織津姫――瀬里奈に偏るはずっ。陽子ちゃんがこれほどまでに苦しむということはっ、瀬里奈はもっと……)

 かつて瀬織津姫を継がんとしていた人の子は、過去に得た知識を思い出して顔色を青くした。目の前の陽子が心配なのに加えて、彼女以上に苦しんでいるだろう娘のことが気にかかった。

「くッ…… あ、安心なさって、綾瀬さん。わたくしは――わたくしがッ!」

「陽子ちゃんっ?」

 陽子がハァハァと、胸を押さえて荒い息を吐く。

(わたくしこそが……)

 ばたんッ!

 彼女たちの背後で物音がした。

「う、つめ?」

「ぐぅ! あッ! きゃああぁあ!」

 床に這いつくばって、天鈿女命がもがき苦しんでいた。胸を押さえて、身体を折っている。

 陽子は訝しげに眉をしかめる。

(闇が……内女をも苦しめているッ!?)

「うあああああああああああああああぁああ!!」

 屋敷の外からも叫び声が聞こえた。

「ぐッ。た、高良……?」

「まさかっ、禍人くんとククリちゃんもっ?」

(おそらくは、和己も……)

 天津神が、国津神が、日の本に溜まった苦しみを引き受けている。

 皆が――闇を背負っている。


「ん。けっこーキツイ」

 ククリが地面にへたり込んで呟いた。

 その隣では、和己が顔を顰めて膝をついている。刀を大地に突き刺して、倒れ伏しそうになるのを必死にこらえていた。

「くっ。これは――」

 まとわりつくような陰の気が、空から、大地から、天津神の身に襲いかかる。

 彼らを包むのは――黄泉へと還るべき闇だ。

(これが、日の本の闇……か……)

 瞑目して精神を集中し、和己はとつぜんもたらされた苦しみに耐える。しかし、彼を覆う力は片鱗でしかない。

 ともすれば、この闇の数十倍、数百倍の苦しみが、天照大神に、瀬織津姫に降りかかるのだ。

 それはつまり――

(……照様ッ!)

 天津照は、まだ天照大神ではない。しかし、彼女の母が、そして、おそらく彼女の友と呼んでいい人物こそが、天照大神であり、瀬織津姫であるのだ。

 死は照を捕えない。しかし、悲しみは彼女を蝕むだろう。

「ヒメはむちゃをする」

「瀬織津姫が――これを?」

「たぶん」

 天津神の問いに、小さな身体の国津神がコクリと頷いた。

(なぜ、織津瀬里奈はこのような…… 闇は彼女を蝕むはず…… なぜ、僕を、国津神を…… 死を恐れ、逃げた結果なのか? それとも――)

 和己の中に、ひとつの仮説が生まれた。事実とは限らない、ただの仮説。しかし、万が一にも運命というものが優しく在ってくれるなら……

(そうであれば、そして、そのようなことが可能ならば――微かな、本当に微かだが、希望があるのだろうか……)

 そのように思いながらも、彼は沈痛な面持ちで俯く。耐えがたい苦しみが、身体を駆け抜けた。


「うっ! ぐうぅぅう! ああああああああああああ!」

「最近の若いのは、堪え性がないねぇ」

 地面をのたうち回って叫ぶ高良に、オッチャンが言葉を向ける。

 しかし、かく言う彼も苦悶の表情を浮かべている。

 ばさっ! ばさっ!

 空を鳥がかけた。

(ただのカラスか…… 化け物鳥のような怪異が産まれないということは、闇はまだ、姫や陽子くんの制御下だろう)

 日本という大地全体の力を継いだ神二柱が今、集い続ける闇を神々へもたらす。

(荒御魂たる瀬織津姫は主に闇を受け入れるだけの存在。ならこれは、天照大神――陽子くんか?)

 オッチャンがそのように考察を加えるなか、闇の気配が減る。

 すうッ。

「っ……な、何だ? 急に――苦しくなくなった」

 大地に寝転んだまま、高良が呟いた。息づかいはいまだに荒い。もう満足に動くことが出来ないようだ。

「天照大神が、君にはもう無理だと判断して闇の委託を取りやめたのさ」

「闇の委託……だって?」

 訝しげに尋ねた高良へ向けて、オッチャンが肩をすくめる。

 大禍津日神は禍々しき気には慣れているゆえ、闇を受け入れてもまだ余裕があるのだろう。整ったままの息づかいで、語り始めた。

「本来であれば、天照大神と瀬織津姫で引き受けるべき日の本の闇を、天照大神が制御下において皆に分配しているんだよ」

 それが、神々が負っている苦しみの正体だ。

「神の力を継いでいる者は、光の気、闇の気の違いはあれ、自然の気の扱いに慣れているからね。主神とその荒御魂が負うべき闇を、多少なり受け入れることは可能だろう」

 そして、自己防衛のため、持てる力の限りに闇を相殺しようとする。

(それで全ての闇を相殺しきれば…… けれど……)

 古より、全ての闇の気の扱いを天照大神や瀬織津姫が担ってきたのには、当然わけがある。単純に、膨大な量の闇に耐え得るのが彼女たちだけだったのだ。

(国津だろうと、天津だろうと、一柱が担える闇なんてせいぜいがゼロコンマ数パーセント……)

 ピッ、ピッ。

 顔を顰めて膝をつきつつ、オッチャンがスマホをいじる。画面をタップしてアプリを起動した。

 アプリの名は『ヤミノキはかっちゃお!』という。名前こそふざけているが、その実、このアプリはインターネットのネットワークを介して日本各地に設置された観測機と連動しており、日の本に停滞している闇をササっと計測できる。国津武御那の作品だ。

(残九十五パーセント、か。これでもよくやった方だろう。天手力雄命が早々にダウンし、恐らくは、ククリや建御雷神――あとは天鈿女命もいたか――あいつらも限界…… オッチャンももって数分、か)

 今も、闇は日本各地から集っている。ここ二十年で生じた陰の気は膨大な量となっている。オッチャンがいくら頑張ったところで、残九十パーセントまでもっていくのが限界だ。

 そうなればもう、道は二つに一つだ。

(陽子くんの力は、リーダーの言っていたとおり弱まっている…… 単純に強弱で論じるなら、姫が間違いなく有利。けれど――うちの姫は甘そうだからねえ…… 照くんのために喜んで闇を受け入れそうだよ)

 かぶりを振って、禍人がため息をついた。

(その時は――)


(和己せんぱいもっ、内女さんもっ、ククリちゃんもっ、もう無理そうですっ。禍人さんはしばらく大丈夫そうですがっ、闇はまだまだ…… このままじゃっ)

 天津、国津双方の神々への闇の分配を取りやめた結果、瀬里奈の負担がぐんっと高くなった。身体を蝕む闇に耐えきれず、瀬里奈は膝をつく。胸を押さえて、荒い息をついた。

「はあっ、はあっ。んんっ!」

「お、りつ……さん…… 貴女は……何を……?」

 神の力の一部を継いでいる少女は、瀬里奈を経由して神々に分配される闇の気を視ていた。しかし、そのような話は聞いたことがない。闇の気は天照大神か瀬織津姫に集い、その役割を担った者が死ぬことで黄泉へと還る。それだけのはずだった。

 いま目の前で生じている事象は……

 瀬里奈が苦しそうにしながらも、微笑む。

「えへへっ。ちょっと皆さんに頑張って貰えばっ、照さまのお母さんも瀬里奈もっ、みんなで笑えるかなってっ、そう思ったんですけどっ、ダメかもしれないですっ。ごめんなさいっ、照さまっ」

「な、何を謝ってるのよ! 私はそんなこと頼んでない! 私はお母さまをお助けしたいだけ! 織津さん、貴女なんて闇を受け入れて、さっさと……し、死ねばいいのよ!」

 黒く艶やかな御髪を――額にかかるそれを、照が触る。

「瀬里奈はっ、照さまのことが大好きですっ」

 唐突な告白だった。

 照は瞠目し、それから嘲笑を浮かべる。

「……そんなの、瀬織津姫の記憶が天照大神の気にある種の『運命』を感じただけよ」

 その言葉に、瀬里奈はかぶりを振る。

「ううんっ。そうじゃないとっ、瀬里奈は思うんですっ。瀬里奈はっ、ただの瀬里奈としてっ、アマテラスオオミカミでもなんでもないっ、ただの照さまが大好きなんだってっ」

「……貴女の勝手な考えじゃない」

「えへへっ、そうっ、ですねっ。でもっ、瀬里奈はそう想うんですっ」

 笑みが眩かった。

 照は右手を持ち上げて、言葉を繰る。

「私は…… 私は、貴女が大嫌いよ。お母さまをお救いするための道具としてしか見ていない」

 少女は淡々と言葉を繰る。余計な感情を廃するように、淡々と。

「これから、貴女が……死んで……二度とその脳天気な顔を見なくてよくなれば、どれだけ清々するか……わからないわ」

「嘘――ですよねっ?」

 断言するかのような口調だった。実際、瀬里奈の顔には笑みしか浮かんでいない。

 照はたじろぎ、しかし、直ぐさまあざ笑うかのように顔を歪めた。

「いいえ。嘘じゃない。それも、貴女が『そう思いたい』だけでしょう?」

「いいえっ」

 頑とした否定。

そこにあるのは、意地などではなく、確固たる意思――信念だ。

「瀬里奈はっ、照さまが大好きでっ、出逢ってからずっとっ、あなたを見ていましたっ。だからっ、わかるんですっ」

「な、何が――」

「前髪っ、触ってますっ」

 瀬里奈の指摘通り、照は自身の前髪に触れていた。しかし――

「だから――」

 何だというのか。

 瀬里奈が微笑む。

「照さまは嘘をつくときっ、前髪を触るんですっ」

 ぴくりと、照の動きが止まった。

 細く長い白魚のような指先は、ぬばたまの前髪をしきりにつまみ上げていた。


 かぁー! かぁー!

 屋敷から歩み出た陽子の瞳には、空を翔る黒鳥の姿が映った。その黒鳥は常とは異なり、漆黒の翼が八つ。身体は人並みに巨大化していた。

 闇に耐性のないモノから、妖と成る。まずは獣だ。続いて、人。そして、神。もう時間は、あまりない。

「……はぁ、はぁ。や、闇を……制御しきれなくなっているわ。このままだと、闇は屋敷がある一帯のみでなく、日の本すべてを覆う。災厄が、闇の気が、国を傾ける」

 そのような事態を防ぐのが、彼女たちの、主神とその荒御魂の役目なのだ。

 なれば、採る道は――

「陽子ちゃんっ! 大丈夫っ!?」

「……ええ、大丈夫です。わたくしは大丈夫。役目を果たさねば」

 天照大神の役目。

 瀬織津姫の役目。

 綾瀬が顔をくしゃくしゃに歪める。

「……わたしが力を継いでいればっ、そうすればっ、瀬里奈もっ、陽子ちゃんもっ――」

「大丈夫。大丈夫だから。綾瀬さん」

 微笑んで、陽子は右手を振り上げる。

 ガギイイィイ!

 金属と金属がぶつかり合ったような音が響いた。

「まっ、禍人くんっ?」

 陽子を、オッチャンが襲撃したようだ。

 オッチャンの右手には紙の棒が、左手には禍々しい気配を発する紙型が握られていた。

「っつ! 貴方は……大禍津日神ですね。綾瀬さんを連れてきてくれた国津の者。礼を言いましょう」

「やめてくれるかい? オッチャンは君を――陽子くんを殺そうとしてるんだけどね」

 すちゃ、と紙の棒を構える姿は、緊張感がない。けれど、表情は真剣そのものだった。

 対する『天照大神』には――

「そうですね。瀬織津姫は国津の姫。貴方が『天照大神』の死を望み、『瀬織津姫』の確実な残存を望むのは、自然なことです」

 柔らかな微笑みが浮かぶ。

「わかっているなら――」

「わかっているからこそ」

 ぱぁんっ!

 オッチャンの右手に納まっている紙が、鋼鉄以上の硬さを誇る紙の棒がはじけ飛んだ。

 紙片がひらひらと、季節外れの冬の結晶のように地に落つる。

「貴方のことは心置きなく阻める」

 びゅっ!

 瞬く間に進み出で、陽子は禍人の懐に入り込む。そして、そのままの勢いで災厄の神のみぞおちに掌底を打ち込んだ。

「ぐっ…… うぅ」

 ガクリと禍人が地に伏した。そのまま意識を失う。

 同時に、彼が担っていた闇が――


「け、けど! 私が貴方を……好き……かもしれないのは、それこそ天照大神の記憶が、瀬織津姫の気に懐かしさを覚えるからに過ぎない! ある種の運命的な繋がりが造りだした偽りの感情! きっとそう!」

 そうであればよいと、彼女は願う。心の深淵よりあふれ出す願いだ。

 彼女に芽生えた想いが偽りでないならば、これから突きつけられる現実に、どうして耐えられよう。

 そしてそれは――

「はいっ。瀬里奈もそうであって欲しいとっ、今は思いますっ」

 今となっては、彼女の願いでもあった。

「え?」

 予想外の言葉に、照が呆ける。

 彼女たちの周りの闇が急激に濃くなった。

「だってもうっ、瀬里奈が死ぬしか選択肢がないみたいですからっ」

 瀬里奈は感じていた。

 先ほど、禍人の気配が希薄になった。恐らくは気絶してしまっている。

 これで、闇に耐えて未来を救えるのは、天照大神と瀬織津姫しかいない。

 そして、まず闇が集うべきは『瀬織津姫』なのだ。

 闇が蠢き、瀬里奈へと迫る。

「お、織津さん!」

「照さまっ。瀬里奈はがんばりますっ。だから――」

 ――よくやったって、褒めてやる

(はいっ。たくさんがんばりますからっ、よしのちゃんもっ)

 神が太陽のような笑みを浮かべた。

「褒めてくださいねっ」


「じゃーねー! また明日!」

「うん! またね、よしの!」

 小比類巻よしのは、チームメイトと別れて帰路についた。土曜日とはいえ、部に所属する者は練習に勤しまねばならぬのだ。クタクタになった身体にむち打って、家路を急ぐ。

(ふー、疲れた、疲れた。来週が練習試合だからって、先生気合い入れすぎ。大会ならともかく、練習試合でそこまで根詰めなくてもさぁ。なんか、相手校の顧問が幼なじみのライバルで負けたくないとか何とか聞いたけど、そんなのあたしらの知ったこっちゃないってゆーかさー)

 だらだらと歩みつつ、よしのは夕焼け空を見上げる。紅く染まった雲がどこかもの寂しい気分にさせた。

(そういえば、瀬里奈だいじょぶかしら? 昨日はあんな話のあとに急に休んで…… おじさん曰く、ただの風邪らしいけど、メールの応答もないって結構酷いのかな?)

 昨日、金曜と、本日、土曜に数件のメールを送信しているが、その返信はいまだない。

(ったく、あの子は心配かけて…… 月曜に説教ね)

 腕を組みつつそのようなことを考え、よしのは何気なく視線を織津家の方向へ向ける。夜の闇が落ち始めた山々を瞳に入れた。

(あれ? まだ暗くなるには――ああ、曇ってきたんだ。うっわぁ、真っ黒な雲。天気予報では雨なんて言ってなかったけど……)

 不吉とさえ映る黒雲が空を覆い始めていた。

「早めに帰ろ」

 少女は帰路につく足を速めた。そして、帰ったらもう一度、親友にメールしてみようと決意する。

 理屈などないが、ただただ、言い知れぬ不安を覚えていた。


 日の本の大地に拡散していた闇が急速に収束する。緩慢としていた集結は、一柱の意思によって加速する。

 モクモクとした黒雲が深山を覆った。

「あっ、あああぁああぁあっ! くううぅうっ!」

(まだっ、ですかっ? まだっ、日本中の闇はっ、集まらないっ、ですかっ? もう辛いですっ、苦しいですっ!)

 本来、闇を負うべきではない身体ゆえ、その苦しみはよりいっそうのものとなる。

 それでも、彼女は――『瀬織津姫』は遙かな昔から、そう在ることを望んだのだ。

「織津さん! 織津さん!!」

「……ひっ……かりっ……さまっ」

「ごめんなさい…… ごめんなさい……!」

 飛びそうな意識を何とかつなぎ止めて、瀬里奈が笑う。

「なんでっ……あやまるっ……んっ! ……ですかっ?」

 神の笑みを瞳に入れ、少女は顔をくしゃくしゃにして叫ぶ。

「だって、私こそ裏切り者だ! 私たちは共に苦しむべきなのに……私は何もできない! 何も……ッ!」

 闇の集う身体を、照が抱いた。その瞳は濡れていた。

(照さまがっ、泣いてますっ)

 眼前にある哀しみの象徴を見つめ、瀬里奈もまた目を赤くする

(ダメだなあっ、瀬里奈っ。こうならない未来がっ、欲しかったのにっ)

 照の瞳に宿る光を契機として、瀬里奈の脳裏によしのの泣き顔が、綾瀬と太久郎の泣き顔が、出逢った人々の悲しみに暮れる姿が浮かんだ。

 明るい未来など、そこにはなかった。

「嫌だ! こんなの嫌よ! 織津さん! 瀬里奈!」

 抱きしめてくれる腕が、とても温かい。

 名を呼ばれることが、とってもとっても嬉しい。

(瀬里奈はっ……瀬里奈はっ、幸せですっ。照さまが大好きでっ、よしのちゃんが大好きでっ、パパもママもっ、武御那さんもっ、みんなが大好きでっ、みんなの笑ってる顔が大好きでっ)

 だから――

「……死にたく……ないなぁ……」


 ぱぁんッッ!!

 瀬里奈の身体を起点に光が弾けた。

 眩い閃光に顔をしかめながら、瀬里奈と照が地に転がる。

「それなら――わたくしが担いましょう。本来の役割を」

 天津陽子がゆっくりとした足取りでやってきた。先ほどまで瀬里奈に集っていた闇を、一身に背負っている。

 闇の量は先ほどまでと比べものにならない。

 しかし、彼女は瀬里奈よりもしっかりと佇んでいる。闇を受け入れている。雄々しく立っている。

 瀬里奈は目尻を乱暴に拭い、声を張り上げた。

「だっ、駄目ですっ! だってっ、あなたはっ、照さまのっ――」

「それは貴女も同じです。綾瀬さんにとって、照にとって、貴女は大切な人。わたくしはもう十分に生きました。わたくしは、『わたくしたち』は、何百年も『貴女たち』に貸しがある。だから、今回は――」

 上空に滞留していた闇が盛んに波打ち、一気に降りてくる。

 各地の曇天は晴れ渡り、発生していた怪異もまた消え去った。

 ずううううぅううぅうッッ!!

「ぐっ…… ああああぁああぁあ……!」

 闇が本来あるべきところ、天津陽子の元へ集い始める。

 天照大神の荒御魂たる神の元へ――瀬織津姫の元へ……

 そうして全ての闇が集った時――

「お、お母さま……」

 娘の呟きに、母が微笑む。陽光のような笑顔だった。

 彼女はそのまま着物の袂に手を入れ、カプセル状の物体をつまみ出す。流れるような動作で、それを口に含み――

 ごくッ。

「陽子ちゃんっ!」

「お母さまッッ!!」

「……あ……」

 駆け寄る二人と、呆然と立ち尽くす一人。

 ゆっくりと、穢れ多き神の身体が崩れ落ちる。

「全ての闇を、わたくしが誘いましょう――姉上」


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