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四章

 キーンコーンカーンコーン。

 チャイムが鳴り響き、三海中学校は昼休みを迎えた。

 よしのが給食を共に食べるため、瀬里奈の席へとやって来る。

「今日はカレー、カレー、カレーの日ぃ」

「ふふっ。黄色くなっちゃいますよっ、よしのちゃんっ」

 浮かれ調子のよしのを目にして、瀬里奈が笑う。

 しかし、よしのは心外だとでもいうように顔を顰めた。

「カレーの日に毎回歌うのは瀬里奈でしょ? あたしはあんたのが感染うつっただけだっつーの。ったく、いつもなら調子合わせて歌うくせに…… 独りでとんだ赤っ恥じゃない!」

 ぷりぷりと怒る友を瞳に映し、瀬里奈は苦笑した。

「そっ、そうでしたっけっ? すみませんっ、よしのちゃんっ」

「……あんた、何かあった?」

「えっ?」

 友の問いに、瀬里奈はぎくりと頬を引きつらせる。

 よしのがため息をついた。

「分かりやすいわね。……でも、例の王子様が休んでるからってわけでもなさそうね」

 空席となっている天津照の机と瀬里奈を交互に見てから、よしのは言い切った。瀬里奈の様子が、残念だという程度の気持ちを通り越して、落ち込んでいると言ってもいいもののように窺えたからだ。

「喧嘩でもしたとか?」

「……いえっ。喧嘩とかっ、そういうのでなくっ」

 口ごもり、瀬里奈は瞳を伏せた。涙こそ浮かべていないが、泣いているようだった。

 よしのは口を真一文字に結び、どっかと椅子に腰掛ける。

 そうして数分が経ち、給食係が配膳を開始した。空腹を刺激するカレーの匂いが教室を満たした。

 瀬里奈とよしのも、クラスメイトが成す列に並ぶ。

 ご飯とカレーと、福神漬けと牛乳と、デザートはシューチーズだった。黄金のタッグといってもよい献立だ。しかし、約二名の表情は硬い。

 ぱくぱくぱくぱくっ。

 無言で食べ続ける彼女たちは、ある種、異様と言って良かった。普段悪目立ちしている二人だけに、なおさらだ。

 ぱくっ。

「よしのちゃんっ」

 ぱくっ。

「何よ」

 ぱくっ。

「聞いて欲しいことがっ……あるんですっ」

 ぱくっ。


 給食を食べ終わり、瀬里奈とよしのは屋上へと続く扉の前へやってきた。屋上は基本的に立ち入り禁止である。それゆえ、この場所にわざわざやってくる者など居ない。時には、バカップルがイチャついていることもあるが、今日に至ってはそのようなこともない。

 落ち着いて話をするには最適な場所だった。

「で? 何?」

「……少し変なことを聞くと思いますっ。ごめんなさいっ」

「今あやまられても困る。まだ何も思うとこがないし」

 歯に衣着せぬ物言い。それが心地良く、安心できた。

「……あのねっ、よしのちゃんはっ、瀬里奈が死んだらっ――」

 ビシぃ!

 額にチョップが入った。よしのチョップだ。

「いっ、いたいですうっ……」

「さっきの謝罪は適切だったわね。あたしは今、とても怒っています」

「……はっ、はいっ、ごめんなさいっ」

 怒り顔の親友に、瀬里奈は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。その一方で、少し嬉しくなる。常軌を逸した変人である。

 それでも、彼女は目いっぱい縮こまり、ううぅと唸る。

「あのっ、でもねっ。同じようなことっ、もっと聞くんですっ。ダメっ、ですかっ?」

「……ふぅ。ダメだけど、まあいいでしょ。ただし、あとでまとめて怒るから!」

「はっ、はいっ。ごめんなさいっ」

「謝るのもあとでまとめて。んじゃ、続けて」

 屋上へ続く扉に背を預け、よしのが先を促した。

 瀬里奈はこくりと頷く。

「瀬里奈が死なないとっ、みんなが死んでしまうんだとしたらっ、よしのちゃんは瀬里奈が死ぬべきとっ……思いますかっ……?」

「場合による。瀬里奈じゃなくてもいい余地があるなら、瀬里奈じゃない奴を差し出す」

 それは、きっと誰もがそうだろう。

「絶対にっ、瀬里奈じゃないとダメだとしたらっ……どうでしょうっ?」

「瀬里奈が死ななくてもいい方法を探す」

 大切な人を諦めきれない傲慢な者は、その道を歩むだろう。

「それでもっ、瀬里奈が死ななければいけないとしたらっ?」

「なら仕方ない。諦める」

 全ての道を絶たれたなら、きっとそうするしかない。

 泣いても、叫んでも、みっともなくあがいても、最終的に出来ることは、それだ。諦めて崩れ落ちる。

「……えっ、えへへっ。ですよねっ。うんっ、瀬里奈もそうですっ。きっと、それでいいんだってっ、そう思いますっ」

 馬鹿みたいに笑って、瀬里奈が言う。とりとめもなく、言葉を連ねる。

 どんなに頑張ったところで、最後には諦める。それで、終わり。それで、ただ終わり。

 それで――

「それで、よくやったって、褒めてやる」

「ふえっ?」

 よしのの言葉に、瀬里奈が間の抜けた声を上げた。

「何よ? 褒めちゃダメなの? あんた、いいことしたんでしょ?」

 いいこと、なのだろう。他人の代わりに死ぬ、それはいいことだ。きっと。

 でも、それで、褒めて、何が変わるのだろうか?

 何も変わらない。きっと、何も変わらない。

「はっ、はいっ…… でもっ、褒めてっ、それで何があるのでしょうっ?」

「何もないでしょ」

 明快な答えだった。

「何もないっ、ですかっ?」

「うん。何もない。それでいいでしょ」

「いいんっ……ですかっ?」

「いいでしょ」

 何を当たり前のことを、とでもいうように、よしのが言った。

(いいんですねっ。そっかっ……)

「これで終わり? なら、まとめて――」

 ようよう、親友の顔が怒りに染まっていく。よっぽど溜まっているらしい。

 しかし、まだ聞くことがある。

「あああああっ、あのっ! まだちょっとっ……」

「じゃ、さっさとして。早く発散したい」

 積もりに積もった感情は、そろそろ限界を超えそうだ。

「はっ、はいっ。今度はそのっ、さっきの瀬里奈にっ、よしのちゃん自身を当てはめて欲しくてですねっ」

「……んん、あたしが他人のために死ななきゃいけないとして、ってこと? まあ、確かに親友が死ななきゃいけないのと、自分が死ななきゃいけないってのとはだいぶ違うわね」

 この場合、人によっては死を選ぶだろう。もしくは、決して死を選ばないだろう。

「そうねぇ…… うーん……」

 顎に人差し指をあてがい、よしのは考え込んでいる。迷いに迷って、それから、彼女は大きく頷いた。

「あたしなら、瀬里奈が死ぬって場合と一緒だな。最後の最後までごねて、本当に、絶対にダメってなったときだけ、諦める。ちょっと違うのは、死んじゃったら自分を褒められないってとこかな? そんときは、瀬里奈が褒めてよ。それでいいや」

 答えに、瀬里奈は瞠目する。

「……最後までっ、頑張るんですかっ?」

「何よ、いけない?」

「だってっ、瀬里奈はっ…… よしのちゃんが死んじゃうんならっ、絶対諦めたくありませんっ。照さまが死んじゃうんでもっ、パパやっ、ママやっ、ついでに武御那さんが死んじゃうんでもっ、諦めませんっ! でもっ、瀬里奈が死んでっ、みんなが助かるんならっ、きっとっ、瀬里奈はっ――」

 ビシぃ!

 よしのチョップが炸裂した。

「これと別に、あとでもっと怒るからね……!」

 低く抑えた声で、よしのが言う。

 瀬里奈は目尻に溜まった涙が流れ落ちないよう、必死で堪えた。

「でもっ、だってっ、それでみんなが幸せなんですっ!」

「んなわけない」

 必死の叫びに、しかし、よしのはあっさりと言い返す。

 なぜなら、心の底からそう信じているから。彼女の友は、絶対的に間違えているから。

「なんで、あんたが死んで、あたしが幸せなの?」

 本当に、絶対に、どんなに力を尽くしても救えないのだと、その段に至るまで、よしのは瀬里奈を諦めないと言った。ならば、『瀬里奈が死んで幸せ』な世界など、絶対にあり得ない。

「なんで、あんたが死んで、あんたのパパが幸せなの? なんで、あんたのママが幸せなの? 武御那って誰か知らんけど、その人だって幸せだなんて、絶対に絶対に言わない」

 家族は、そう在ってくれるだろう。家族は、瀬里奈の幸せを願ってくれるだろう。

 けれど――

「それに、天津照だってきっと、そんなこと言わないッ!」

 ……ぐっ。

 俯いて、瀬里奈が唇を噛む。

 よしのは知らない。照のことを知らない。きっと、照は言うのだ。瀬里奈が死んでよかった、と。

 すううぅうっ!

 瀬里奈が、大きく息を吸った。

「そんなことないもんっ! よしのちゃんは間違ってますっ! 何もっ、よしのちゃんは知らないくせにっ! 照さまはっっ!!」

 フぅッ! フぅッ!

 荒い息で呼吸し、瀬里奈は必死で涙を拭う。ごしごしと、顔を殴るように、拭う。

 その様子を瞳に映し、よしのは大きく息をはいた。呆れたように、それでいて、慈しむように、優しい瞳で息をつく。

「……ばか瀬里奈。どうしようもない馬鹿。あり得ない馬鹿。ばーかばーか」

「なっ、何なんですかっ! 瀬里奈はお馬鹿ですけどっ、そこまでばかばか言われたくないですっ!」

「天津照は――あんたを好きよ」

 突然の告白だった。しかも、第三者による告白。加えて、当人はこの場にいない。

 予想外の言葉に、瀬里奈が呆けた。

「見てれば分かる。親友の王子様となれば、まあ、その、気になるからさ。結構みてるわけよ。あんたに負けず劣らず」

 少しだけ頬を染めて、よしのが言った。

 その様を瞳に映し、瀬里奈は顔色を青くする。

「らっ、ライバルっ」

「ここでボケるか、あんたは……」

「ボケっ……?」

 涙を浮かべたまま、不思議そうに小首を傾げる瀬里奈。素のようだ。無量大数の評価点を受けるほどの変人だ。

 ふぅ。

 小さく息を吐き、よしのは苦笑した。

「あの女は大概、あんたをウザがってる」

「ふえっ」

 瀬里奈が泣きそうな声を出した。

 しかし、事実は曲げられない。

「ウザがってる程度ならまだよくて、嫌悪しているように見えることもある。正直、よく一緒に帰るな、と一昨日も昨日も思ってた。何か、どうしても果たしたい何かがあって、仕方なく一緒に帰るのかなって」

「うううぅううぅぅうっ……」

 最早、泣いていた。

「でも、それが全部じゃないみたいだった。尻尾を勢いよく振って懐く子犬みたいなあんたを、あの女は戸惑いながらも眩しそうに見てた。憧れてるとか、そういう感情に見えた。それから、同志を見てるような、それこそ、運命の人に出逢ったような、そんな顔をしている時もあった」

 瀬里奈が息を呑んだ。

「あんたはもしかして分かってないのかもしれないけど、あたしだってあんたのこと、ウザいと思ってる。さすがに嫌悪まではしないけど、今だってすっごくウザい。それどころか、毎朝くらいのペースでウザい」

「ええええぇええええぇえっっ!!」

 もはやここに来て、どれだけ叫び、どれだけ涙ぐんだか分からない。数年分の感情を吐き出している気分だった。

 小動物のような目で、瀬里奈がぷるぷると震える。

「でもさ、それでも好きなのよ」

 ぴたッ。

 震えは――止まった。しかし、涙はまだ止まらない。

 親友のそんな顔を目にし、よしのは笑う。

「きっと天津照も、同じなのかと思う。あたしはあいつを知らない。でも、瀬里奈のことは知ってる。そして、瀬里奈のことを見る、あいつの目を知ってる。だからあたしは思うんだ。あいつはあんたが好きだ」

 言葉が胸にしみた。

 温もりが心に満ちた。

 自分が知った絶望は、きっと絶望だけではないのだと、小さな小さな希望だとしても、残っているのだと、信じたくなった。

「だから、あんたが死んで幸せなんて思う奴、絶対いない。二度と言うな、ばか瀬里奈」

「……はいっ。ごめんなさいっ。お馬鹿な瀬里奈でごめんなさいっ。よしのちゃんっ!」

 ずっと流れていた涙は、まだまだ止まらない。悲しい気持ちも、寂しい気持ちも、嬉しい気持ちも、瞳からこぼれ落ちていく。

 瀬里奈の様子はさきほどまでと違う。何かから解放されたように、少なくとも、吹っ切れたように見えた。

「……よっし! どうやらこれで終わりね。なら、続けて積もりに積もった怒りを吐き出させていただこう。覚悟しな、瀬里奈」

 昼休みはまだ二十分ほどある。たっぷり絞られそうだ。

「はっ、はいっ。お願いしますっ! よしのちゃんっ!」


 瀬里奈は全てを知った。

 天照大神が、日の本の大地全てに宿る自然の力を受け入れた神であること。

 瀬織津姫が天照大神の荒御魂、言うなれば、穢れだけを受け入れる代替神であること。

 神宮式年遷宮の年、溜まりに溜まった日本国全体の穢れを、荒ぶる魂を、瀬織津姫に宿る力を、浄化しなければいけないこと。

 それはつまり、日本の大地を司る神、天照大神か瀬織津姫か、いずれかが一度、滅ばねばならぬということ。

 天津陽子か織津瀬里奈か、二人のうちどちらかが死ななければいけないということ……


 次の日の早朝、瀬里奈はこっそりと家を抜け出した。大きめの鞄に着替えを数着詰め、スマホは家に置き、待ち合わせ場所へと向かった。

 そこには、天津家の面々が集っていた。

「おはようございますっ、照さまっ! 和己せんぱいっ! 高良せんぱいっ!」

「おっはよーっ! 昨日はよく眠れたかな、瀬里奈ちゃん?」

「はいっ! よしのちゃんと喧嘩してっ、怒られてっ、すっきりしたので朝までぐっすりですっ!」

 底抜けに明るい声で、瀬里奈が応えた。彼女の顔に浮かぶ笑みは自然で、無理をしている風でない。

 高良は破顔した。

「いいねえ。女の子は笑顔が一番。照様なんて一昨日から仏頂面で、綺麗なお顔が台無し――」

「高良。無駄話はそこまでだ。……照様、参りましょう」

 和己の言葉を受けて、照が一歩を踏み出す。

 すぅ。

 その隣に、瀬里奈は並んだ。

「照さまっ。おっはようございますっ」

 にぱっ。

 朝陽に負けない、眩い笑みが放たれた。

 しかし、対する少女の陰気は晴れない。

「……………」

 無言で去って行った。

 ……うるっ。

 少しだけ、ほんの少しだけ、弱気の光が瞳を濡らす。

(いっ、いいえっ。泣きませんっ。頑張るんですっ。だってだって、照さまは瀬里奈の王子様なんですっ。照さまのお母さんがっ、瀬里奈がっ、どうなるのかっ、まだ全然わかりませんけどっ、きっと幸せな未来だってあるはずですっ。その未来でっ、瀬里奈と照さまはっ――)

「織津瀬里奈。父母や国津武御那は?」

「ふえっ?」

 突然に声をかけられ、瀬里奈は飛び上がる。

 彼女の隣には、いつの間にか和己がいた。

「かっ、和己せんぱいっ! えとっ、パパもママも寝てるうちに出てきましたっ。武御那さんもっ、徹夜してなければ寝てたんだと思いますけどっ」

「……そうか」

 回答を耳にして、素直に頷く和己。

 その頭を、高良がはたいた。

「そうか、じゃないだろ! いいのかい、瀬里奈ちゃん?」

「はいっ。ちゃんとお手紙も置いてきましたっ。だからっ、いいんですっ」

 これが今生の別れになる可能性もあるのだから、置き手紙だけでいいはずがない。けれど、瀬里奈は無事に帰る未来を、希望をもまた思い描いている。だからこそ、天津神たちが戸惑うほどの笑顔を浮かべていられた。

 にこにこにこにこっ。

 馬鹿みたいに微笑み続ける織津家の娘の顔は、照にとって少々いらだたしかった。

「……行くわよ。新幹線の時間に遅れてしまう」

『はっ』

 低い声に、和己と高良が付き従う。

 瀬里奈もまた後を追った。その顔には、自嘲めいた苦笑が浮かぶ。

 彼らが目指すは――那羅なら

 自然に還った瀬織津姫の力が宿る、天香久山の聳え立つ地である。

「まだ、青い杜鉄道は動いてない。八沢駅までは飛ぶわ。見つからないように高度は上げるのよ?」

「……えっ? 飛ぶっ、ですかっ?」

 何気なく呟く照に対して、瀬里奈が戸惑った声を出した。照と共に何度か空を飛ぶ体験をしてはいるが、瀬里奈自身は当然ながら飛べない。

「織津瀬里奈は僕が運ぼう」

「すっ、すみませんっ、和己せんぱ――」

「いえ。織津瀬里奈は……高良、頼むわ。和己は国津の襲撃を警戒すること。いいわね」

 頑とした口調だった。

「かしこまりました。照様」

「はいはーい。じゃ、お手をどうぞ、お姫さま」

 和己が下がり、高良が一歩を踏み出した。

 そうして差し出された手には目もくれず、瀬里奈は頬を染めていた。

「きゃーっ」

 嬌声を上げて身もだえする。

「……状況だけ見ると瀬里奈ちゃんが俺に惚れてるみたいだけど、視線の向かう先がおかしいね、うん」

 瀬里奈の瞳は、彼女の『王子様』を映していた。

(照さまが瀬里奈と呼んでくれましたっ)

 実際は、織津瀬里奈とフルネームで呼んでいた。どちらかといえば、他人行儀ここにきわまれりといったところである。しかし、大宇宙根元に住まうと謳われるほどの変人である瀬里奈は気にしない。

 すぅ。

 照は瀬里奈に視線を向けることなく、冷めた瞳を携えて宙に浮かぶ。和己もまた彼女に続いた。

「ほら行くよ、瀬里奈ちゃん。早く掴まって?」

「あっ、はいっ。よろしくお願いしますっ、高良せんぱいっ」

 慌てて、瀬里奈が高良の手を取る。

 すると、すっと瀬里奈の身体が浮かび上がった。

 びゅッ!

「ひゃっ!」

 天津家の三名と瀬里奈が、勢いよく天へと飛び上がった。あとには早朝の静かな町並みだけが残される。


 数秒ののち、神々のお姿が明けの明星に紛れた頃、更に別の影が地を飛び立った。


 六時四十一分。八沢駅から、東北新幹線ハヤブサ四号が発車した。平日金曜の朝ということもあり、乗車しているのはスーツ姿の者が多い。

 そんな中、三人席の窓側に照、真ん中に和己、通路側に高良が、二人席の窓側に瀬里奈が座っている。旅の目的はともかく、照と旅立てる状況に心を躍らせていた瀬里奈は、この席順に少しばかり気落ちして小さくなっていた。

「いじめはかっこわるいねえ。な、ククリ」

「でも、にあう。ヒメにはそういうイメージがある」

 乗降位置に身体を滑り込ませたオッチャンと幼女が呟いた。座席のある車両をのぞきこんで瞳を細めている。その正体は、国津禍人とククリである。

「イメージで人をいじめるなんていけないぞ、ククリ。オッチャンはお前をそんな子に育てた憶えは――」

「そだてられてない。それより、ククリたちはなんでついてく? ヒメをつかまえて、アマツをねじふせればいいだけ。このままいかせれば、ヒメはしぬ」

 幼女の端的な言葉に、オッチャンが苦笑する。

「リーダーが言うには、天津陽子――天照大神だけでは、式年遷宮における最後の儀式が失敗に終わる可能性があるらしい。天津宗家当主殿は疲弊していて、例の儀式に耐え得ない。いくら何でも、アレを失敗させるわけにはいかんからねえ」

「……でも、ヒメがきけん」

「天香久山から力を継いだばかりの姫なら、全てを天津陽子に押しつけて儀式を終えることが可能なはず……とリーダーが言ってた」

「……………ぜんぶリーダーのウケウリ」

「オッチャンは生まれつき、遣われる側の人間なのさ。会社でも万年ヒラだしねえ」

「かわいそう」

 自嘲気味に言うオッチャンを、幼女が哀れんだ目で見る。

「お客さま」

 その時、国津家二人の背後から声が聞こえた。

 二人は不思議そうに振り返る。彼らの視線の先には、鉄道会社の制服を着た者がいた。

「車掌の二戸と申します。本日はご乗車ありがとうございます。申し訳ございませんが、乗車券を拝見させてください」

 丁寧な口調ながら、車掌の視線は疑わしげだ。

 ハヤブサ四号は空席がまだあるはずだった。乗降箇所で立ったまま乗車することを許されるのは、指定席券が完売している場合のみである。お手洗いに立ったということで、一時的に身を置いている可能性もあるが……

 がしっ。

「うるさい。じゃま」

 ククリの呟きにともなって、車掌の身体が崩れ落ちる。幼女の掌につつまれた顔が、トロンと呆けた。

「……はい、申し訳ございません。よい旅を……」

「ん」

 フラフラとした足取りで車掌が去って行った。

「精神操作完了っと。これで東卿とうきょうまでは問題ないね。ご苦労さん、ククリ」

 ねぎらいの言葉を受け、しかし、ククリは責めるような視線をオッチャンへ向ける。

「……キップくらいかうべき。ククリもグリーンシャがいい」

「オッチャンは金と力のない色男でね。あの方と違って、無い袖は振るえないさ。おっと、良い子は真似しちゃいけないぞ」

 ククリが小さくため息をつく。そして、ずり落ちたリュックサックを背負い直した。


(うぅ…… 東卿・卿都間も同じ席順でしたっ)

 瀬里奈たちは卿都駅で東海道・山陽新幹線ノゾミ二百十九号を降車し、構内を早足で歩いていた。

「次は近鉄卿樫きょうかし特急です。こちらへ」

「ええ」

 和己を先頭にして、照、高良、瀬里奈と続く。掲示に従って駆けた。

 そのように急ぐ若者たちを追って、三つの人影が足を速める。

「……そう急がなくても、次の列車を待てばいいとおもうね。オッチャンは」

「うんどうブソク。よくない」

 フラフラの歩調で、肩で息をする中年に、幼女が呆れた視線を向ける。そうしながらも、照たちに遅れないように走る。

「はぁ…… はぁ……」

 その更に後方を、もう一人がふらふらになりながらも駆けていた。

 織津綾瀬である。

「……ヒメママもいそぐ。のりおくれる」

「ククリちゃんはっ、元気っ、ねっ。ふぅ」

「っ、はぁ。綾瀬くんは一人でグリーン車に乗ってたんでしょ? 三海市から八沢市の間もククリに掴まって飛んでたし。オッチャンたちよりも体力残ってるのと違うんですか?」

 売り場で一番安い乗車券を買いながら、オッチャンが尋ねた。

「元々の体力が少ないのっ。禍人くんこそ営業職でしょっ。そんなに体力なくてどうするのっ」

「移動は車ですよ、大概。というか、綾瀬くんはまだ三十代でしょう? オッチャン、五十代よ?」

 益にも害にもならない無駄な口論である。

「みにくいあらそい」

 改札を抜けホームを目指す三名。彼らは若者たちから大分遅れて、発車時間ギリギリで特急列車に乗り込んだ。


 卿樫特急を降車してからいくつかの電車を乗り継いで、四名が香久山駅に降り立ったのは、十三時を少し過ぎた頃合いだった。

 彼らの眼前には、天香久山が――瀬織津姫の元となる霊気を蓄えた御山がある。

「照様。お待ちしておりました」

 巫女装束姿の女性が、照たちを出迎えた。腰の辺りまで伸びた黒髪を、後ろで緩く結わえている。

「ご苦労様。準備は出来ている?」

「はい」

 女性がしずしずと低頭する。

「あのっ、照さまっ。こちらはっ?」

「……天津内女うつめ

 瀬里奈の問いに、照は最低限の言葉のみで応じる。

 一方で、内女が微笑む。

「初めまして、織津様。内女と申します。天鈿女命の力を継いでおります。以後、お見知り――」

「以後などない。無駄話はいいわ。案内なさい」

 にべもなく、照が言い放つ。

 内女は何かを言いたそうにしていたが、口をつぐんで最敬礼した。

「はい。承知いたしました。こちらへどうぞ」

 足音を立てずに、すっすと進んでいく。

 照と和己がそのあとに続いた。

 瀬里奈もまた、寂しそうに笑ってから、続く。

 その直ぐあとを、高良が追った。

「……ごめんね、瀬里奈ちゃん」

「高良せんぱいっ。いいえっ、いいんですっ」

「照様は君が嫌いなわけではないと思う。俺は照様に幼少の頃からお仕えしているからね。信じてもらっていい」

 嫌っているというよりは、嫌うように努力しているように、高良には見えていた。

 それは、和己や内女にとってもまた、同様の認識だった。

「……はいっ、ありがとうございますっ」


 ざっざっざっ。

 木々に覆われた山肌を若者が歩む。先頭を内女が行き、和己、照、高良、瀬里奈と続く。彼らは無言で先を急ぐ。

 天津家の面々は皆、健脚であるようだった。一方で、織津家の娘は肩で息をしつつ必死で追いすがる。

(はあっ、はあっ、足っ、んっ、痛いっ、ですうっ)

「高良」

「え? ああ、了解でっす。瀬里奈ちゃん。お手をどうぞ」

 照の端的な呼びかけを受けて、高良が後ろで四苦八苦していた瀬里奈に右手を差し伸べた。

 限界を迎えていた瀬里奈は、素直にその手を取る。

「あっ、ありがとうございますっ。高良せんぱいっ」

「いえいえ。っていうか、照様。そろそろ飛んで山頂目指しません? ここまで登れば木々に紛れられますし、人に見られませんって」

 照が立ち止まり、考え込む。

「……そうね。じゃあ、和己。手を」

「はっ」

 内女が飛び立ち、和己が照を抱えて飛び立つ。その後、高良が瀬里奈の手を引いて飛び立った。

(照さまもお疲れなんですねっ。一緒ですっ、ふへへっ)

 天地無用の変人が、気味悪く頬を染めた。

「ぱっと見、俺に抱きかかえられて照れてる風だけど、絶対違うよね?」

「何を仰ってるんですっ、高良せんぱいっ?」

「いいえ、何でも」


 天香久山の頂にはテントが用意されていた。その内で、内女に手伝って貰って、瀬里奈が白装束に着替える。

「終わった?」

 外で待っていた照が、中をのぞき込む。

 ぱあっと瀬里奈の顔が輝いた。

「はっ、はいっ。似合っていますかっ?」

「……下らないことを聞かず、準備ができたのなら出てきなさい」

 すっ。

「……………」

 つれない態度に、瀬里奈がしょんぼりと肩を落とす。

 その肩に手が置かれた。

「照様は無理をなされているように、わたくしには見えます」

「……内女さんっ」

 にこりっ。

「俗世でいうところのクーデレとか、ツンドラとか、そういう性格なんですよ、あの方は。ちょっと難易度の高い設定値ですよね」

 そういう内女の言葉もまた難易度が高い。

「……………ツンドラっ? 地帯ですかっ?」

 瀬里奈が小首を傾げている一方で、内女は更に言葉を連ねている。

「本家のお偉い方々――月讀命様や素戔嗚尊様の御前では、礼儀正しいお嬢さまっという態度を取られるんですけど、普段はそれはもうツンツンしていまして…… やや二重人格気味というか何というか」

 とするならば、学校で過ごしていた時や、瀬里奈と話をしていた時は、猫を被っていたのだろう。

「そういったところが可愛らしいとは思うのですけど、何をもってデレてなさるのかがわかりづらいんですよね。どうにも攻略しづらいというか、ギャルゲーキャラとしては最高難易度ですよ、絶対」

 この巫女はどこかおかしい。変人だ。

 おかしな巫女がにこりと微笑む。

「今のところわかりやすいデレポイントは和己くんくらいですね」

「ふえっ? 和己せんぱい、ですか?」

 瀬里奈が目を瞠る。

「ええ。照様は和己くんにだけはデレデレですよ。気づきませんでした?」

 言われてもピンと来なかった。しかし、それは学校での照を基本に考えていたからだろう。

 今のツンツンした照をデフォルトとするなら、確かに和己に対してだけ態度が柔らかい……気がする。

「照様がっ、和己せんぱいとっ! ふわあっ!」

 紅くなった頬を両手で押さえて、瀬里奈が照れる。

「二人きりだと凄いですよ? んんっ!」

 咳払いしてから、内女が下手な演技を始めた。

「食べさせなさい、和己。かしこまりました。ダメ、あーん、となさい。はっ、では、あーん。あーん、むぐっ。もぐもぐ。次はショコラケーキよ。はっ、あーん。あーん。と言った具合で、見ている方が恥ずかしくなる始末」

「えええええええぇえっっ!!」

 恥ずかしさとうらやましさから、瀬里奈が甲高い声を上げる。もちろん、羨望の対象は和己である。自分も照にあーんとしてあげたい、という妄想が脳内を駆け巡った。とんだ変人――いや、変態である。

「それどころか――さあ、和己。照様。二人の時にそんな風に呼ぶのは止めて。照。お願い、貴方といるときだけは、ただの女の子でいたいの。しかし、僕は貴女にお仕えする身、そのような…… なら命令よ、和己、キスなさい。なんっっていう貴女には少し刺激の強い展開もッッ!!」

「内女」

 低く抑えられた声に、内女が肩を跳ね上げる。彼女の記憶が確かならば、その声は――

 ぎぎぎ。

 油を差していない機械のように、内女がぎこちなく首を回す。

 にっこりと怖いくらい機嫌が良さそうな、照がいた。

「あ、あら、照様。どうかされました?」

「どうかされました……じゃないわ! 準備が出来たなら出てこいと言ったでしょ! それが何を! 嘘八百を並べてるんじゃない!」

「はッ、はい!」

 怒声を背にして、内女がテントを飛び出した。

「……まったく」

 呆れた瞳を携え、照が頭を抱えた。そして、瀬里奈に瞳を向ける。

「貴女も早く出なさい。時間がないのだから」

「えとっ、はいっ。照さまっ」

「あと」

「?」

 小首を傾げた瀬里奈に、照が指をつきつける。

「さっきのはホントに全部嘘だからね! わかってるわね! 織津さん!」

「はっ、はいっ! だいじょぶですっ、照さまっ!」

 コクコクっと何度も頷く瀬里奈を瞳に入れ、照が前髪を触りながら瞑目する。

「ならばよろしい。早く来なさい」

「はいっ」

 さっさと出て行く照に続いて、瀬里奈が出入り口へと足を向けた。


 照や内女が向かった先、和己や高良がいる辺りがざわついていた。

 少し遅れて続いていた瀬里奈は、足を早めてその場へと向かう。山の上ということもあり、足下が整備されていない。あまり急ぎすぎると転んでしまいそうだった。

 ゆっくりと、それでいて急ぐ。

「はじめましてっ。照ちゃんっ」

(あれっ? この声はっ)

 聞こえてきた声音は慣れ親しんだものだった。

 かの者は天香久山の頂で、腰まで伸ばした茶の髪をたなびかせている。

「ママっ!」

「瀬里奈っ。まったくもうっ、黙って家を出るなんてダメよっ?」

 ひらひらと手を振り、織津綾瀬が言った。彼女の両脇には、国津禍人とククリが控えている。

 彼らは、天津和己と高良を制圧し、頂に陣取っていた。

「邪魔をする気? 織津綾瀬」

 内女を従えた照が、綾瀬を睨み付ける。

 対して、綾瀬は楽しそうに笑っていた。

「邪魔だなんてそんなっ。わたしも織津の娘っ、瀬織津姫の力を継ぐことは出来なかったけどっ、今回の儀式の大切さはわかっているつもりよっ」

「ならば何の用?」

 尋ねられ、綾瀬が寂しそうに微笑む。

「最後の悪あがきっ、かなっ」

 ずんッ!

 大地が揺れた。山が震え、野鳥が空へと飛び立つ。

(じっ、地震っ?)

 風が舞った。奔流が山裾から頂へと吹き上がる。山の全てが頂に――綾瀬に集おうとしているかのようだった。

 照がキッと綾瀬を睨み付ける。

「今さら貴女に何が出来る! 瀬織津姫の力が貴女を、器ではないと拒絶しただろう!」

「それはっ、わたしが若く未熟だったからかもしれないっ。今からでも陽子ちゃんと共に歩めるのならっ!」

 頂に集って舞っていた風が――ただ一点を目指した。

 暴風が木々をしならせる。

 力が、瀬織津姫を形成しようとする。

「ママっっ!!」

「っ! だっ、大丈夫よっ、瀬里奈っ。わたしがっ」

 集った風は竜巻となって駆け上がる。天に穴が空き、青空が姿を見せた。

 頂が光り輝く。

「ああああああああああああああああああああぁああああぁああっっ!!」

「ママぁあっっ!!」

 叫び声が木霊した。


 苦しそうに叫ぶ綾瀬を瞳に映して、国津禍人とククリはため息をついた。

 彼らは、綾瀬の望みを叶えるためにこの地に赴いたわけではない。

 勿論、彼女の願いを叶えることで目的が達せられるのならば、問題はない。しかし、そうではないようだ。

「やっぱり、ヒメママじゃむり」

「うん。というわけで、姫に全てを任せることになるようだね」

 呟くと、オッチャン――国津禍人が懐から紙片を取り出した。そして、それを高く掲げる。

唱略しょうりゃく! 八百万神やおよろずのかみ! 聞こし召せ! 大祓詞おおはらえのことば!!」

 ずんッッ!!

 頂に集っていた力の奔流が、紙片に引き込まれていく。

「っ! 禍人くんっ!?」

 力の波から解放された綾瀬が叫んだ。

「陽子くんのために頑張りたい綾瀬くんにはすまないけど、オッチャンとククリはリーダーと太久郎さんに頼まれててね。さすがに死ぬまで無茶をさせるわけにはいかんのよ。それくらいなら、当初の予定通り、姫に背負わせるさ。――ククリ!」

「ん」

 ひゅっ。

 瀬里奈の眼前に、国津ククリが突然あらわれる。神の脚力が、数メートルの距離を瞬時に縮めた。

「えっ?」

「ヒメのでばん。がんばれ」

 ぱしっ。

 手を取られた瀬里奈は、気がつくと綾瀬とオッチャンの隣――天香久山の頂に立っていた。

 吹き荒れる風が、瀬里奈の栗色の髪を乱暴になびかせる。

(すっ、凄い風っ……ですっ)

 暴れる髪を抑えて、細めた瞳で辺りをうかがう。

 禍人がいた。

 彼は、右手の人差し指と中指で紙片をはさみ、突き出す。

「さあ。君が――瀬織津姫だ」

 神の力を吸い込んだ紙が瀬里奈の額に突きつけられる。

 そして、力が集った。


 **********


 遙か昔、天津と織津の子らが結ばれた。彼らには双子の娘たちが生まれ、姉は陽の娘、天照大神の後継として大切に育てられ、妹は陰の娘、瀬織津姫の後継たる忌み子として座敷牢で育てられた。

 姉は座敷牢をたびたび訪れ、妹に外での生活について話を聞かせた。

 彼女が学んだこと、体験したこと、全てを聞かせた。

(姉上は残こくです…… わたくしはおばあさまがお亡くなりになるまでここで暮らし、ここで瀬織津姫の力をつぎ、式年遷宮の年までここで死んだように生き、一生をおえる。そんなわたくしに、光にみちた人生を見せつけて……)

 妹は姉を恨み、陰の気を一身に受け続ける。

「みんなの前ではうつむき加減で言葉すくなにって、強せいされるのよ? 何で好きなように振るまっちゃいけないのよ、ねえ? 藤原さまはいつもいつもいばり散らしてうっとうしいし、平さまは言葉づかいも所作も乱ざつで全体的にイヤ。天照大神の後継なんてまったくいいことない。外なんてつまらないよ」

 小さな悩みを吐露する姉を、妹は睨み付ける。

 しかし、姉は気づかない。

「ただね。大陸のお話は楽しいよ。今日は、唐土もろこしからの輸入品を見せてもらったの。とってもきれいな絹の織もの」

 姉が言をもって、織物の美しさを懸命に表現する。

 しかし、妹の心には響かない。

(うるさい、うるさいッ!)

 耳を塞ぎ、妹は縮こまる。

 牢の外にいる姉は、なおも言葉を繰り続ける。

「あとね、海に行ったのも楽しかった。藤原さまや平さまが一緒だったのはすっごくイヤだったけど、お父さまも一緒でね? お母さまは具合がお悪いみたいで、ご一緒できなかったのだけど――」

(うるさいッッ!!)


 天津家当主と織津家当主が相次いで亡くなり、天照大神と瀬織津姫の力は双子の姉妹へと引き継がれた。彼女たちは式年遷宮を数日後に控え、それぞれの生を享受していた。

 姉は天津家の当主として、天照大神として、大いなる光として生きていた。

 妹は座敷牢で、瀬織津姫として、日の本の闇を一身に受けて、心を閉ざして生きていた。

 こつ。こつ。こつ。

 地下へと続く梯子を、かすかな足音を立てて降りる。

 光が闇に立った。

「……何の用? 天照大神?」

「何の用も何もないでしょう? 子供の頃からわたくしは――わたくしたちは、こうして話をしてきた」

 それは、十数年の時において紡がれてきた、一つの絆であった。

「それで――わたくしは貴女への妬みを強めてきた。陰の気を溜め、偉大なる瀬織津姫に成り果てた。貴女の思惑通り」

「……………」

「きっとわたくしは、日の本に蓄えられた闇の気配を一身に受け、瀬織津姫として正しい最期を迎えることが出来るでしょう」

「……………」

「貴女が望んだ未来は、きっと訪れる」

「……そうね」

 ずっと沈黙を続けていた天照大神が、ついに言葉を紡いだ。

 瀬織津姫は苦笑する。

「そんな風に悪びれることもなく頷かれると、逆に清々しいですね。さあ、姉上。本日はどのようなことがございました? お聞かせ下さい。わたくしの心を――もっと醜くしてください」

 その瞳は、いっそ真摯でさえあった。


 日の本を闇が包んだ。負の感情は大地を駆け抜け、かの地に集う。闇が岩戸に吸い込まれていく。

「まったく…… 彼女はいつになれば片を付けるのだ。二柱だけであの岩戸に隠れてどれだけ経つと――」

「堪え性がないな、兄者よ。果報は寝て待つのがよいぞ」

 藤原家と平家の当主が、岩戸を見つめていた。

 彼らの他にも、数多の高貴な者たちが――天津神が見守っていた。

 日の本のそこかしこから、人々の抱く負の感情がもたらされ続けている。もはや七日の時が過ぎていた。闇が蓄積され続け、ここ数百年に類を見ない闇が世を満たしている。

 そのような中、岩戸の内では、天照大神と瀬織津姫とが対峙していた。

「貴女は本当に残酷ですね。こうして集うた闇は、一気にわたくしの身を蝕むでしょう。幼少より負の心を培ってきたわたくしとはいえ、このとてつもない闇を受け入れるには相当の苦しみを負うことになります。……貴女は、最期の最期まで、わたくしに苦しめと、そう仰るのですね」

 双子の妹が微笑みを浮かべ、言った。

 対する姉が、まったく同じ笑顔を浮かべる。

「ここでより多くの闇を受け入れることで、向こう百年は闇の色が薄くなりましょう。わたくしたちが苦しむことで、多くの人の心を守ることができる。素晴らしいと思いませんか?」

 言うことはわかる。そして――

「ええ、結構なことです。わたくしは決して貴女に逆らわない。巨大な闇を背負っても正気を保ち、大人しく殺されてみせましょう」

 それこそが彼女の役割だ。


 ゆるりと、豊葦原の中津国に光が満ち始める。

 闇を一身に受けた神は、全てを背負ったまま黄泉の国へと旅だった。

 岩戸の床には、首筋から血を流した少女が横たわっている。その手には銅剣が握られていた。

 彼女は全ての闇を受け入れた刹那、携えた銅剣による一撃を、自身に向けて放った。

 その命と共に、闇が黄泉へと誘われたのだ。

 ドクドクと流れ出でる紅を見つめて、残された少女が嗤う。

 暗い瞳で、嘲るような笑みを浮かべて、歩みを進める。

 岩戸の外側からは歓声が響き、岩と岩の隙間からは眩い光が侵入していた。

 すた。すた。すた。

 ゆっくりとした足取りで、少女が歩む。

 分身の死を背に負い、嘲る。

「貴女はやはり――です」


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