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三章

 朝靄に包まれたかのように幻想的な光景のなか、瀬里奈の視線の先だけがぼんやりと明るんだ。頼りない明かりに包まれて、幼い頃の瀬里奈と綾瀬、太久郎が幸せそうに笑っていた。

「パパっ! ご本よんでくださいっ!」

「ああ。では、これにしようか」

 言って、太久郎は一冊の絵本を取り出した。表紙の絵を見ると、王冠をかぶった金髪の少年が白い馬にまたがり、黒髪の女性に手を差し伸べていた。

 瀬里奈が可愛らしく小首を傾げる。

「こちらのおかたはどなたですかっ、ママっ」

 それをこれから知ろうというのだろうに、何とも落ち着きのない幼児である。

「王子様よっ」

「おーじさまですかっ? それはどんなっ……?」

「んんっ、そうねっ」

 つぶらな瞳で尋ねる瀬里奈に、綾瀬が楽しそうに応じる。

「パパのことよっ」

「ちょ、ちょっと綾瀬さん?」

「うふふっ」

 イチャイチャイチャイチャ。

 四歳の娘がいるとは思えない、あたかも新婚であるかのような二人である。織津家は何とも平和だ。

 瀬里奈はその様子を目にして、なるほど、と頷いた。

「おーじさまっ。せりなっ、おぼえましたっ」

「それとねっ――」

「?」

 綾瀬が太久郎とイチャつきながら、言葉を続ける。

「瀬里奈だってっ、わたしにとっての『王子様』なのよっ」

「せりなもっ?」

 ニッコリ。

「うんっ。特別で大切な人――それがっ、王子様っ」

 母の言葉に、幼い瀬里奈は頬を染めた。胸に温かい気持ちが満ちる。

(……おーじさまっ)

 その日から、彼女は『王子様』を求めるようになった。


 キーンコーンカーンコーン。

「ふえっ」

 六時間目の終了を告げる鐘の音が響き渡った。

 瀬里奈は、だらしなくよだれを垂らした顔を上げる。

「今日はここまでです。日直、号令を」

「起立」

 がたッ。

(あわわっ。寝てましたっ)

「礼」

 よだれを拭いて、瀬里奈が慌てて立ち上がる。そして、クラスメイトの号令に従い礼をした。

「着席」

 がたがたッ。

 クラスメイトたちが席に着き、教科書などを机の中にしまい込む。そうしてから、班ごとに移動を開始する。

 帰宅する前に、清掃活動に勤しまねばならない。

 そのようななか、瀬里奈はぼうっと立ち尽くす。

(夢っ…… いつのことだか思い出せませんがっ……)

 先ほどまで見ていた光景に、小さく笑む。

 そして瀬里奈は、照へと視線を向けた。

(ママっ。きっと照さまがっ、瀬里奈の『王子様』ですっ)

 そう確信しているようだが、照からすればいい迷惑だろう。何しろ、曲がり角でぶつかっただけなのだ。朝から衝突するというのは確かに、特別感だけはひとしおであるが……

 キラキラッ。

「熱い視線をウンメイノヒトに送ってるとこ悪いけどさ。掃除いくよ」

「あっ、よしのちゃんっ」

 声をかけてきたのはよしのだ。十年来の親友を瞳に入れ、瀬里奈は頬を染める。

 照だけでなく、彼女もまた――

「あのっ、よしのちゃんも瀬里奈の『王子様』ですからねっ」

 普段から思っていることではあるが、改めて口にするのは数年ぶりのことである。照れくさそうに紅くなっているところが、そこはかとなく気持ち悪い。想像を絶する変人だ。

 声をかけられたよしのは思い切り顔を顰めた。

「お断りだ、ばか瀬里奈」

「えええええぇえぇえっ! なななっ、何ですかっ!」

「何でもクソもないわッ! 涙ぐんだって撤回なんてしないんだからねッ!」

「そっ、そんなあっ…… あっ! あれですよねっ、ツンデレですよねっ!」

「違うわあぁあッッ!!」

 微妙にすれちがっている親友たちは、騒がしく言い合いながら空き教室の掃除に向かった。

 その様子を、神が見送る。

「えっと、天津さんはうちの班だから廊下の掃除な。からぶきしてくれる?」

「ええ。わかったわ」

 声をかけてきた男子に対して小さく微笑んで応えた照は、教室から出て行く瀬里奈をこっそりと見つめた。

 不満げな表情や楽しげな表情、どれも生き生きとしていた。

「……でしょ」

「え?」

 訝しげに、男子が聞き返す。

「いえ。何でも」

 首を横に振るい、前髪をしきりにいじる少女は瞳を落とした。

(そんなに幸せならいいでしょ? 充分でしょ? 貴女の責任を果たしてよ…… ねえ、織津瀬里奈)


「天津神の力というのは私のそれを凌駕するわ。だからこそ、和己と高良が護衛として私に付いて青杜まで来ているの」

 公園のベンチに並んで座り、瀬里奈と照は話をしている。

 和己と高良は少し離れたところに佇んでいた。高良は笑顔で和己に話しかけているが、対して和己は話をする気がないようだ。無言で照たちを見つめている。

 その視線の先で、瀬里奈が小首を傾げた。

「えっ? ですがっ、照さまもアマツカミなんですよねっ?」

「……貴女は人の話を聞いてないの? 天津神――天照大神の力は今、お母さまの元にあるわ。私はその力の一部を使えるだけ」

「あっ、あうっ。ごめんなさいっ。瀬里奈っ、お馬鹿でっ……」

 ふぅ。

 小さくため息をつきつつも、照は笑みを浮かべて話を続ける。

「天津神の子々孫々には多くの場合、力の一部が引き継がれるわ。私が力を有するゆえんはそれよ。天原あまはらの民、というようにくくられるわね」

「アマハラノタミっ、ですかっ。おっ、おいしそうですねっ」

 とんちんかんな返答をする少女を瞳に映し、照の笑顔が崩れた。大いに呆れている。

(……おいしそう? 天原の民、アマハラノタミ、ハラノタミ――ハラミ、かしら? 変わった子ね)

 無言の視線を受けて、瀬里奈が顔を紅くする。汗がひっきりなしに流れ落ちた。

(やっ、やっぱりっ、変なことを言ってしまったようですっ。ううっ、呆れられてますっ)

「ともかく、私は今のところただの天原の民でしかない。けれど、将来的には天照大神と成る。だからこそ奴らは、私が本家を離れた今を機と見て襲ってきたのよ。私が死ねば、お母さまが亡くなったあと天照大神が確実に不在となる」

 気を取り直して微笑みを浮かべ、照が言った。

 優しげなさまは、出来の悪い生徒を指導する女教師のようである。

「奴らっ、ですかっ?」

国津神くにつかみ。天津神の対抗勢力よ。大国主命おおくにぬしのみことという主神の元に集う神々。天津神が天津家という縁で繋がるのと同様に、国津神は国津家として繋がるわ。実際に会ったことはないけど」

「クニツカミっ、ですかっ…… あとっ、クニツケっ」

 口にしてみる。すると、瀬里奈は既知感を覚えた。

(クニツケっ。何だか聞き覚えがっ……)

 話だけを聞いていると、全てが外国語のように感じるが、クニツケというのは――

「国津っ? 国津家っ、ですかっ?」

「……ええ。そうよ」

 照があっさりと頷く。

 その一方で、瀬里奈が驚愕にて息を呑んでいる。

(国津っ……武御那っ、さんっ? えっ? でもっ、国津家はっ、照さまたち天津家の対抗勢力ってっ……)

 織津家の居候、遠い親戚であるという男、国津武御那は、二十歳で無職、毒にも薬にもならない穀潰しである。

(同姓っ、というだけですっ、きっとっ。武御那さんがっ、あんな風に照さまを襲うなんてっ……)

 瀬里奈は武御那のことがあまり好きではない。積極的に嫌うことはないが、だからといって好きかというと、違うと断言できる。しかし、それでも家族のようには思っている。彼は、もう五年も共に暮らしているのだ。

「どうかした? 織津さん」

「……いっ、いえっ。何でもありませんっ、照さまっ」

 笑みがぎこちない。

(だっ、大丈夫ですっ。武御那さんはっ、クニツケではっ……)

「国津武御那は国津神の一柱、建御名方命たけみなかたのみことの力を継いだ者よ。織津さんのお家に居るわね?」

 びくっ。

 何気ない風に紡がれた照の言葉に、瀬里奈は青い顔で身を硬くする。

「いえっ、でもっ、武御那さんはっ……あんなことっ……」

 弱々しい言の葉を紡ぎ、瀬里奈は家族を庇う。

「……照さまや和己せんぱいっ、高良せんぱいを襲うなんてっ、そんなことっ」

 苦しげに、瀬里奈は言葉を絞り出す。涙を浮かべ、見ている方が心を痛める。

 そのような瀬里奈を見つめ、しばし、無表情を貫いていた照だったが、一転、微かに笑った。

「大丈夫よ。国津家の者だからといって、必ずしも私たちの敵というわけではないわ。二つの家には交流だってあるの。例えば、和己は元々国津の出なのよ」

 数十年来、和己に宿る建御雷神の力は、その源泉たる霞ヶ浦という湖に眠っていた。近年、力強き建御雷神の力を受け継ぐことのできる者が顕れなかったためだ。

しかし十年前、まだ五歳だった和己が、建御雷神の力を受け継ぐ器――実験体として提供された。結果的に実験は成功し、和己はみごと建御雷神の力を継いだ。もっとも、その成功がどの程度の高さの確率をもって決行されたのか、それはわからない。

 ともかくとして、かつて国津の名を受けていた男児は、天津和己と名を変えて、天津照の供をすることとなった。

 当の和己は、高良がかけてくるちょっかいに反応しないよう努めている。真っ直ぐ前を向いて、照の周囲に気を配っていた。

 ひらひらっ。

 照が和己に向けて、笑顔で手を振る。

「和己は真面目で勤勉、非の打ち所がない。天津家内での信頼も厚いわ」

 そう言い切るが、実際は風当たりが強いことも多い。照のお付きであるため、面だって何かされることも、言われることもない。しかし、和己の存在に眉をしかめる者もいる。

「だから私は、国津だからといって敵視する気はない。国津武御那が私たちを襲うというなら全力で潰す。けど、そうでないのなら、貴女の家族は、私たちの敵じゃない。だから――大丈夫」

「……照さまっ」

 瀬里奈がぱあっと顔を明るくする。とても嬉しそうだった。

 対する照もまた、前髪を触りながら笑んではいるが……

(建御名方命は遠い昔からずっと、天津への反感が強い。朝の襲撃に無関係ということはないでしょう。ましてや、織津家に居るというなら……)

 忙しく頭を働かせながらも、照は微笑み続ける。慈しむような瞳で瀬里奈を見た。

「ねえ、織津さん。なぜ私が、こうして色々なことを貴女に教えるのだと思う?」

「はいっ?」

 改めて問われると確かに不思議だった。その必要性はない。

「……えとっ、うーんとっ、なぜでしょうかっ?」

 茶の髪の先端を指でいじりつつ懸命に考えたとて、瀬里奈には想像もつかなかった。頭を抱えて苦しげな声を出す。六時限目を寝て過ごしたことで身を潜めた知恵熱が、再び姿を現しそうだった。

 クスクスと、照が微笑む。

「それは、貴女も関わりがあるからよ、織津さん」

「……………えっ?」

 戸惑いの表情を、瀬里奈が浮かべた。

 照は構わず続ける。

「織津家は代々――瀬織津姫せおりつひめの力を受け継いできたの。貴女は瀬織津姫と成る。それが運命なのよ」


 暗い部屋に青年が居た。ぼさぼさの黒髪に、だらしなく生えた無精ひげ。お世辞にも立派とはいえない格好だった。

 青年は盗聴の受信機を脇に置き、スマートフォンを取り出す。そして、アプリケーションの一つを立ち上げて、タバコのアイコンと菊のアイコンをタップした。


 照が口にしたのは、全く聞き覚えのない名だった。

「セオリツヒメっ……?」

「そう。またの名を、撞榊厳魂天疎向津姫つきさかきいつみたまあまさかるむかつひめ

「ツキっ、サカキイツっ……ミャタっ?」

 覚えきれない、とてつもなく難解な名だった。

 しかし、瀬里奈はどこかで聞いたことがあるような気がした。

(ついさっきどこかでっ……気のせいでしょうかっ?)

「そして、撞榊厳魂天疎向津姫――瀬織津姫は、ある神の荒御魂としての側面であると、巷説にささやかれる」

「アラミタマっ、ですかっ?」

 再三、瀬里奈が愚鈍に言葉を繰り返す。話の難解さは、とっくの昔に彼女の理解の範疇を超えている。それでも、最低限でしかなくとも、努力を怠らないのが瀬里奈のいいところではある。

(アラミタマっ。やっぱりっ、似たような言葉をちょっと前にっ――)

「つまりね。天照大神と瀬織津姫、私と貴女は――」

「照様!」

 どんッッ!!

 和己の叫びに続いて、轟音が響いた。公園のベンチが砕ける。

(えっ! ま、またっ?)

 瀬里奈は朝に続いて、照の腕に抱かれてふわりと中空に浮かんでいた。

 照はヒュっと旋回して、タっと地に降り立つ。

「……まったく、ずいぶんとタイミングがいいわね。盗聴でもしてるの?」

「うん、まあ。たぶんな。おっと、勘違いするなよ。盗聴犯はオッチャンじゃないぞ。オッチャンの仲間な。だから通報とかはせんでくれ、頼むから。こう見えても妻子持ちでね。職を失うのは勘弁だ」

 照の問いに応えたのは、四十代前半ぐらいの男性だった。凡庸とした顔つきではあるが、瞳に宿る光は強く鋭い。このご時世において、くわえタバコなどしている。

「何かあれば、セクハラ、リストラ、エトセトラ。オッチャンに厳しい世の中だ。やれやれだ。タバコ税は増える一方だしね。まったく嫌になる」

 自称オッチャンは、その後もつらつらと不景気への不満を垂れ流し続けたが――

 ぱあぁんッッ!!

 天津神の一柱が力を発現させたことで、閉口を余儀なくされた。

「やったか、高良?」

「んにゃ。手応えがない。防がれたな」

 もくもくと上がる土埃に遮られ、オッチャンの姿は見えない。

 しかし、攻撃を加えた当の高良が言うのだから、先の一撃は、不景気を憂うオッチャンを滅してはいないのだろう。

「若者は元気だねぇ。オッチャン、驚いちゃったよ」

 その証左として、オッチャンの元気な声が届いた。土埃が晴れ、その姿もようよう視界に入る。

 笑顔のオッチャンの前には、小さな影が在った。

「……子供っ、でしょうかっ?」

「コドモじゃない。ククリ」

 ぼそりと呟かれた声は、しかし、確固たる意思の力をもって周囲に響く。

 ぱあんッ!

 そして、衝撃が天津神たちを襲った。

 和己と高良が衝撃に顔を顰める。照もまた、殴られたような痛みを覚えて、左肩を押さえる。

「つうぅ」

「ひっ、照さまっっ!!」

 膝をついた神に駆け寄りつつ、瀬里奈が金切り声を上げた。

「大丈夫。手加減はしてくれてるみたいだから」

(屈辱ではあるけど、ね。ちッ)

 表面上は微笑み、心の中でのみ毒づく。

 主神の娘はギンっとククリを睨み付けた。ともない、神の力が空間を翔る。

「オン」

 対して、ククリが端的な言葉を発し、構えを取る。すると――

 ぱあんっ!

 何かが弾けるような音が響き、風がククリのふたつに結わえられた細くしなやかな髪をなびかせた。

 照の攻撃があっさりと霧散した。

「よわい。シュシンでなくそのむすめなら、ククリのてきじゃない」

 それは事実だった。照の力は、天原の民の中では上位に位置するが、神の中では下の下と言ってよい。いくら、主神天照大神の力を一部継いでいようとも、だ。

「……国津神でありながら、陰陽道なんていう人が扱う術に頼るとはね。神としての誇りはないの?」

 苦々しい顔で、照は負け惜しみを口にした。

 しかし、ククリは無表情で肩をすくめる。

「かんたんによりつよいチカラをだせるなら、どんなものでもリヨウすべき。ほこりばかりあってもダメ。アマツはあたまがかたい」

 効率よく強さを求めるなら、彼女の言葉は間違いなく正しい。そして、昨今の風潮においては、常識的とも言える。

「オッチャンもそう思うねぇ。陰陽道だけでなく、スマホやパソコンのようないわゆる科学を利用するのもうちの主流さ。まあ、オッチャンはそういうのは疎いけどね」

 ひゅッ! キィンっ!

 苦笑を浮かべていたオッチャンを、刃が襲う。

「おっと。怖いねえ。うちのリーダーの命令で、殺すなアンド殺されるなって言われてるのよ。さすがに刀はやめてくれんかな?」

「そちらの事情など知らん」

 和己が日本刀を手に、オッチャンに襲いかかっていた。

 対するオッチャンは、厚紙で出来た棒を手に佇んでいるのみだ。

「紙を鋼鉄並みの硬度に変質させる…… 貴様もただの中年ではないな」

「まあ、一応ね。国津禍人まがひと。いわゆる、大禍津日神おおまがつひのかみだ。で、あのチビっこは国津ククリ。菊理姫神くくりひめのかみ。ま、よろしく」


「……ふぅ。こいつは少々きびしそうだなぁ」

 和己がオッチャン相手に苦戦しているのを目にして、高良は苦笑した。

 照は照で幼女から子供扱いを受けている。

「うん。逃げよう」

 いい笑顔で、天津高良が――神たる天手力雄命が言い切った。

「――えっ。たっ、高良せんぱいっ?」

 瀬里奈が戸惑いの声を上げる。

 しかし、照や和己は特に反応しない。それぞれの戦いに集中しているのだろう。

「勝てない喧嘩はしないの、俺。ほら、負けるとかっこ悪いでしょ? じゃね」

 すッ、と手を上げて、上空へかけあがる。神は直ぐさま見えなくなった。

「えっ、ええええぇえええぇえっ!」


 和己とオッチャンが刀と紙を手にして争っている一方で、照はククリと対峙している。

「おとなしくするならこれでオワリ。ククリはこれいじょーがんばりたくない」

 あくびをかみ殺しながら、ククリが言った。

 その態度は、照のプライドを著しく傷つける。

「は!」

 気負いと共に、天照の御子が地を蹴った。瞬時のうちにククリに迫る。

 瀬里奈から見るとその間は一瞬で、ククリが地に伏す未来しか思い描けなかった。

 しかし――

「うっとうしい。ヒキギワをおぼえるべき」

 呟いた幼女は、照が突きだした右の拳を取って引く。バランスを崩した照の足を払い、転ばせた。そして、そのまま照を組み敷いた。

「照さまぁっ!」

 瀬里奈が悲痛な声を上げた。

 その様を瞳に映したククリは、ビシっと瀬里奈を指さす。

「ヒメはいまよろこぶべき。かってるのはククリ」

(……? 何を仰っているのでしょうっ?)

 戸惑いながらも、瀬里奈は構わず照に駆け寄る。

 ククリは仕方がなさそうに、照から飛び退いて、ふああ、とあくびした。

「大丈夫ですかっ」

「……ええ」

 分の悪さに顔を顰めつつも、照は内心でほくそ笑む。そして、再び力を練った。

 天照大神の力の片鱗は、彼女が望むだけであらゆる剣にも盾にも変じる。剣も盾も、その練度によって威力は変わるのだが、どのみち、彼女が継いでいる力ではククリに通じない。

「むだ。ホントにあきらめが……」

 ククリが呟いた、その時――

 がああああああああああああああぁあんッッ!!

 空から降り来た何かが地を穿った。辺りを振動が伝播し、あたかも地震のようである。

「……くっ。ヒコウカソクのままでチャクチ。むちゃ」

 跳び退って避けたのか、ククリが無事な姿で呟く。しかし、余裕での回避とはいかなかったようで、尻餅をついて隙を見せている。

 そこに……

 ひゅっ! どんっ!

 衝撃が襲った。

 幼女の小さな身体は、弾かれた鞠のように地面を跳ね、転がる。

「無茶だろうと、勝てる喧嘩ならやるんだな、これが。ほら、勝つと格好いいだろ?」

 天より降り来た天手力雄命――高良が笑顔で言い切った。彼は怪力自慢の神、天手力雄命の力を継いでいるが、少年の身体が邪魔をしているのか、本来あるべき怪力を発揮できない。往年の力を発揮しようとすると、今回のように充分な勢い――地上数十メートルから降り来るくらいの勢いが必要になるのだ。その結果、大地を穿ち、あまつさえ激しく振るわせるまでの力が発揮できるのである。

 しかし、確かにその怪力には目を瞠るものがあるが、正直なところ、彼の言葉に反してあまり格好よくはない。相手が幼女だというのも、かっこ悪さを印象づける。

 高良自身も、地に転がる幼女を目にすると気持ちが萎えたらしい。顔を顰めた。

「うっわ。罪悪感、パねえや。照様、これ労災おりますかね? 心的外傷を負った、っていう意味で」

「天津家は会社ではないのだから、労災なんてないわよ。高良」

 幼女を吹き飛ばした高良も、隙をついて力をぶつけた照も、日常会話をするように何気ない口調で話していた。

 しかし、大地に入ったヒビが、砕けたベンチが、どうしようもない非日常を証明していた。

(……ベンチってっ、いくらくらいで弁償できるのでしょうかっ)

 ぼうっとした頭で瀬里奈はそんなことぐらいしか考えられなかった。


 オッチャンは紙の棒を構えながら、腰のポケットから紙片を取り出す。紙片は人の形をしていた。

「急急如律令」

 呟きに伴って、紙片はぶくぶくと大きく成っていく。

「……今朝の襲撃は貴様か」

 朝方に天津神たちを襲ったのは、やはり人型の紙だった。

「そういうことだね。オッチャンは弱いから、こうして増援がないとダメなのよ」

 弱気なことを口にするオッチャンだが、そこまでの弱者かというと、それは違う。神の力で強化された紙の棒は、同じく神の力で強化された刀に強度で劣っていない。強い力を証明している。加えて、剣の腕も悪くはない。

 現に、和己は数度の打ち合いをもってしても、オッチャンを討てていない。

(この男の動き、フェンシングか?)

 和己は天津家にて剣道の指導を受けている。段位を持つ大人からも一本を奪う腕だ。それゆえに、相手が慣れ親しんだ剣道の動きを採ってくれるのならば、早々に戦いを終わらせる自信がある。

 しかし、フェンシング特有の手数の多い突きの攻撃は、和己に戸惑いを覚えさせた。

(……本当の達人ならばそれでも斬り伏せている)

 若者が顔を顰める。自分の力のなさに嫌気がさした。

 オッチャンはその様子を瞳に映して、苦笑する。

「単純に剣では勝てないってぇので、オッチャンは人型だしたのよ? 何を悔しそうにしてるのかねぇ」

「……………っ!」

 和己は言葉も発さずに、オッチャンに斬りかかった。正眼の構えからそのまま突きを繰り出す。鋭い一撃は、そのままオッチャンの喉元を貫くものかと思われた。しかし、人型の一体が、その突きを、身をていして遮り、邪魔する。

 オッチャンが青い顔で、及び腰になった。

「お、おいおい! 悪くすりゃ人殺しになってたぞ、少年!」

「……………っ!」

 やはり応えず、和己は刀を小さく振るう。威力を求めず、手数を増やす。小手、胴、面、胴、と連続で繰り出される一撃は、防御についている人型の数を減らしつつ、オッチャン自身の身体に浅い傷を入れる。

(ひゅーっ、こいつはクレイジーだ)

 和己は攻撃に集中するあまり、防御の姿勢を取るつもりがないらしい。オッチャンが生み出した人型には、攻撃を担当するモノも居る。それらの生み出す破壊の光は、しばしば和己の肩や腹に刺さっている。

 オッチャンが初めから手加減を加えていなければ、とうに死んでいたとしてもおかしくない。

 がああああああああああああああぁあんッッ!!

 その時、大きな音が響き、ともなって、大地が揺れた。

 音のした方向を横目で見ると、オッチャンの仲間が地に横たわっている。

「っと、ククリがやられるとはね。こいつは素直に敗北宣言といきますか」

 感心したように口笛を吹き、オッチャンが言った。

 ざッ! ひゅッ!

 踏み込みと同時に、和己がオッチャンの腹を薙ぎ払おうとする。

 しかし、オッチャンは地を思い切り蹴って、仲間の元へ跳んだ。

「大丈夫か、ククリ」

「ん。なんとか」

 抱き上げられた幼女は、小さく頷く。

 それを確認すると、オッチャンが紙片を腰から抜き出し、ひゅっと浮かび上がってから、辺りにばらまいた。

「急急如律令!」

 数百の紙から、同じだけのモノが生じた。それらは、照を、和己を、高良を襲う。

「大禍津日神ともあろう者が、紙に戦いを押しつけて高見の見物!?」

「オッチャンは災いの神よ? どっちかってぇとガチンコ勝負はお呼びじゃないのさ。こうして災いの気を宿らせた何かを使役する方が得意なんよ。それに、オッチャンたちの目的は正々堂々戦うことじゃないし、勿論、若人を亡き者とすることでもない。我らが姫に偏った知識を与えない。それだけが目的さ」

「ん。そのとーり」

 天津神たちが人型との戦闘に手一杯となっているなか、オッチャンが高らかに宣言した。ククリもこくりと頷いている。

 彼らの瞳は一帯を見渡し、それから、ある一点に向かう。その先は――

(……………えっ!)

 瀬里奈は足が震えるのを抑えきれず、座り込んだ。じゃりっと、公園の砂が彼女の膝を汚した。

 中空を漂うオッチャンたちの視線が、瀬里奈に向いていたからだ。

 ともすれば、オッチャンたちの言う『我らが姫』とは瀬里奈のことなのだろうか?

 照たちと戦っていた者たちに『姫』と呼ばれるのが、自分なのだろうか?

 瀬里奈は喉が渇いていくのを感じた。

「……そう恐れずに。そこで壊れる関係ならば、それが運命さだめなんだろう」

 瀬里奈が何を恐れているのか、オッチャンは的確に見抜いたようだ。彼は、青春時代を思い返して助言を与える。

 辛い事実を受けて去り行く者など、本当の友ではない。ましてや、『王子様』などではあり得ない。

 余計なお節介を焼いたと、オッチャンは頭を振って、言うべきことを口にする。

「どうか忘れないで欲しい。貴女の役目は一意ではない。貴女は瀬織津姫でありながら――天照大神でもある。織津の役目とはそういうものだ。決して、全てを背負って消えるだけが運命さだめではない……と、リーダーは言っていた。詳しいことは分からんがね」

 肩をすくめるオッチャンは、天津神たちに視線を向けた。

 彼らは早くも人型を駆逐しきろうとしていた。

「それは、君もそうなのかもしれないね。天津照くん」

「――ッ!」

 その言葉に、照が瞳をつり上げる。

「黙れッ! 貴様が――貴様らがッ!」

 獣のような叫び声が、辺りを駆け抜けた。照はその恫喝が自身のものだと気づき、息を呑む。

 彼女はオッチャンを、ククリを、高良を、そして和己を見た。皆、悲哀に満ちた瞳を伏せる。

(照、さま……?)

「私は――私たちは役目を果たす。そして、絶対に神宮式年遷宮のこの年を乗り切る」

 神宮式年遷宮とは、遠く飛鳥の時代から伊勢神宮にて続く行事である。二十年に一度、建造物を造り替えて遷るのだ。

 その目的は、一説に清浄さを保つためと言われる。

「お母さまを――天照大神を、私は守る。そのために……」

 照の視線が、瀬里奈へと向いた。

 しかし、彼女の瞳に映るのは『織津瀬里奈』ではない。

「瀬織津姫。貴女の責任を果たしてもらうわ」

(瀬里奈の……責任……?)

「もう絶対に――」

 主神の娘の瞳は、これまでになく冷たく淀んでいる。

 国津神がこれ以上の惑わしを認めぬというなら、装う意味もない。

 ただ、氷の刃を秘めた本音を吐き出せばよい。

「逃げるなんて――裏切るなんて許さないッ!」


 **********


 人の声が屋敷を軋ませる。喜びが天津家を満たしていた。

 その日、日の本が守られたのだ。

「か、母様。あの方は――瀬織津姫せおりつひめは……」

「亡くなりなさった」

 娘の問いに、母は端的に応えた。そして、バタンっとふすまを閉じ、寝所に籠もる。

 つい数時間前に、織津の当主は陽子に笑顔を向けていた。しかし、彼女はもう黄泉の国へ向かったという。

 日の本に救いを与えるために、旅だったという。

「……これが……瀬織津姫の……織津の……………」

 がたッ。

 物音が響いた。

 陽子が視線を巡らせる。

 彼女から遠く離れ、綾瀬が客間の扉に寄りかかっていた。

 陽子と綾瀬の距離は、とてもとても遠い。

(綾瀬さ――いえ、瀬織津……)

「陽子ちゃんっ! お母さんはっ?」

「っ!?」

 陽子は驚愕した。

 綾瀬の言葉はまだ、彼女ものだった。

「お母さんは無事だったんでしょうっ? だって、わたしはわたしのままだものっ」

 彼女の表情は歓喜に満ちている。

 それもそのはずだ。予定した未来が訪れたのならば、彼女はもう瀬織津姫でなければおかしいのだ。しかし、どうやらそうではない。

 つまり、この未来が持つ可能性は、二つ。

 一つは、綾瀬の母が生きているということ。

 そして、もう一つは――

「死んだわ」

「……………えっ?」

 事実をつきつけられ、織津綾瀬は固まった。驚愕に瞳を見開いている。彼女もまた、たった一つ残った未来に気づいたのだ。

 天津の家に満ちる歓喜の声のみが、彼女たちの周りの沈黙を埋める。

「……出て行け」

「よっ、陽子ちゃ――」

「軽々しくわたくしの名を呼ぶなッッ!!」

 ヒッと息を呑み、綾瀬があとすさる。

「貴女は他の奴らと同じッ! わたくしに――わたくしたちに全てを押しつけてのうのうと生きる、無責任な傍観者ッ! わたくしの名を呼ぶことなど、もう決して許さないッッ!!」

 綾瀬のせいなどではない。それは陽子にも分かっていた。それでも、彼女は絶望にうちひしがれた。

 一方が和御魂にぎみたまと呼ばれ、一方が荒御魂と呼ばれる。一方が光の気を司り、一方が闇の気を司る。

 そしてそれゆえに、悪の満ちるこの御代で、一方が多くを負う。そんな歪な関係であっても、『彼女』だけが『彼女』にとって理解者だった。

 けれど、綾瀬はもう、陽子と共に歩まない。

 歩むことができない。

「わたしはっ……わたしはそれでもっ……」

「二度と……もう二度とわたくしの前に現れないで! この――」

 陽子が思いきり息を吸い込んだ。

 そして、この世に満ちる災禍を解き放つように……


「裏切り者おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉおおぉおおおぉおおおおおおおぉおおッッ!!」


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