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二章

 ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴッ。

 枕元の目覚まし時計がけたたましく鳴る。瀬里奈は、眠い目を擦りながら身体を起こした。

「ふあああぁあっ…… おはようございますっ。今日もよろしくお願いしますっ」

 ベッドの上に正座して深く一礼し、瀬里奈が馬鹿丁寧に言葉を紡いだ。

 周りに誰も居ないことを考えると、まず間違いなく寝ぼけている。彼女はフラフラと妖しい足取りで、自室の扉へと向かった。

 ばたんッ。

「おはよう、瀬里奈。ご飯出来てるよ」

 扉が瀬里奈の眼前で突然開いた。そこには、壮年の男性が立っていた。茶の髪と柔和な顔つきが瀬里奈によく似ている。

「……あっ。パパっ。おはようございますっ」

 ねぼけまなこの娘を瞳に入れ、織津太久郎たくろうが微笑む。

「うん、おはよう。そろそろ学校へ行く時間だよ。顔を洗って目を覚まして来なさい」

「……はいっ。行って参りますっ」

 馬鹿丁寧に最敬礼をして、瀬里奈がおぼつかない足取りで廊下を右に折れる。

「さて、と、次は綾瀬さんを起こしに行こうかな」

 太久郎はそう口にして、夫婦の寝室へと足を向けた。娘同様にねぼすけな妻を起こしに行くために。


「いただきまーすっ」

 食卓に並ぶのは、チーズの乗ったクロワッサンと、ドレッシングのかかったシーザーサラダ、果汁たっぷりの肉厚なオレンジ、甘さすら感じるほど濃厚な牛乳。織津家の朝は洋食のようだ。

 ぱくぱくぱくッ。

「ほらほら。もっとゆっくり食べなさい。綾瀬さんはクロワッサンのお替わり、いかがかな?」

「いただくわっ。ありがとっ、あなたっ」

 夫婦が微笑み合う。ニコニコと、何時までも。毎朝のことではあるが、仲がいい。

 瀬里奈は少々居心地の悪い思いをしつつ、オレンジにかぶりつく。甘さの中にほどよい酸味があり、すっきりとした気分になった。

 ごくごくッ。

 最後に牛乳を一気に飲み、娘は立ち上がる。

「ごちそうさまでしたっ。武御那たけみなさんはまだ寝てるのですかっ?」

「ん? ああ、武御那くんなら夜遅くまでパソコンに向かっていたようだからまた昼まで寝てるだろう。何か用かい?」

「いいえっ。何もっ。とりあえずご存命なら何でもいいですっ」

 本当に最低限の気遣いである。

 国津くにつ武御那は、織津家の居候である。遠い親戚だというが、具体的にどの程度の親族であるのか、瀬里奈は知らない。瀬里奈が武御那について知っていることといえば、男であること、二十歳であること、そして、無職であることくらいだ。

 ピンポーンっ。

 チャイムが鳴った。よしのがたまに瀬里奈を迎えに来ることもあるので、今朝も彼女だろうか。よしのは部活の朝練があればもっと早く登校するし、朝練がなければもっと遅く登校する。朝練がなく、かつ、早く目覚めた場合にだけ、瀬里奈を迎えに来るのだ。

(? おかしいですねっ。よしのちゃんは今日っ、朝練があったはずですけど……)

 瀬里奈はスカートの裾を直してから、椅子にかかっているカーディガンを手に取る。袖を通して、洗面所へと移動した。鏡に身体を映して、一回転。

(うんっ。これで大丈夫ですねっ。今日からは照さまにお目にかかるのですからっ、いつも以上に気をつけませんとっ)

「瀬里奈ーッ! お迎えだぞーッ!」

 怒鳴り声が聞こえてきた。太久郎の声である。

(やっぱりよしのちゃんでしょうかっ? でもっ、なんだかパパっ、機嫌悪いですねっ…… さっきまでは普通でしたけどっ……)

 ぱたぱたぱたっ。

 瀬里奈が小走りで玄関へと向かう。

「おはようございますっ! よしのちゃ――」

 笑顔で太久郎の陰から飛び出した瀬里奈は、すぐさま固まり、小首を傾げる。

 玄関に立っているのはよしのではなかった。髪の色が違う。身長も違う。更に言えば、性別も違った。

 そこに居たのは、天津高良だった。

「やあ、おはよう。瀬里奈ちゃん」

「えとっ、おはようございますっ。あま――いえっ、高良せんぱいっ」

 天津と呼ぶと、照や和己と区別がつかない。咄嗟に名前で呼んでしまった。

 高良はにこりと爽やかに笑み、一歩進み出た。そして、瀬里奈の手を取る。

「お迎えに上がったよ、お姫様。さ。行こうか?」

 ぱちくり。

 瀬里奈は、瞳をぱちくりとまたたかせて、訝しげに小首を傾げる。

「はあっ…… ですがっ、高良せんぱいに迎えに来ていただく意味がっ、ちょっと分からないのですがっ?」

 彼女は本当に不可思議そうに、呟く。

 その声音を耳にして、太久郎が反応を示した。

「彼氏ではないのかいっ!?」

「いやですねっ、パパっ。ぜんっぜんっ、違いますよっ? 一番近い関係性としてはっ、んーとっ、『他人』でしょうかっ?」

 一切の照れなく、言い切る。

「ははは…… まあ、その通りだけどね。俺、これでも前の学校ではプリンスとか呼ばれてたんだけど……」

 恥ずかしい呼び名を賜っていたものである。とてもではないが、常人には耐えられまい。相当な変人だ。

「ふぅ。ま、いいけど。実はね。俺が瀬里奈ちゃんと登校しようってわけじゃなくて、うちのお姫様が一緒に登校しようって瀬里奈ちゃんのことを誘ってるんだ。けど、照様は寝起きがとてつもなく悪くてねえ。家を出るのがギリギリになってしまうし、なら俺が瀬里奈ちゃんをうちまで送ろうかと――」

「えっ、えええええええええええええええええええええええええええぇええええぇえええっっ!!」

 ご近所迷惑な叫び声がこだました。

 高良、太久郎共に、耳を押さえて四苦八苦している。耳鳴りが酷かった。

「こ、こら! 瀬里奈! 大きな声を――」

「ごめんなさいっ、パパっ! お説教は帰ってきてからっ! 高良せんぱいっ、急ぎましょうっっ!!」

 必死な形相の瀬里奈を瞳に入れ、高良が苦笑する。

「はいはい」

 ダっっ!!

 お気に入りのコンバースのスニーカーに両足をねじ込み、瀬里奈が慌ただしく出立する。その頬は、先ほど高良に対していたときとは比べるべくもなく真っ赤で、紅葉のようだ。

「いってきまーすっ!」

「失礼します」

「……え、えーと。うん。いってらっしゃい」

 呆気にとられている太久郎の背後から、ゆっくりとした足取りの母、綾瀬が現れた。

「どうしたのっ?」

「……さあ? ちょっとよく分からないなぁ」

「ふーんっ」

 ぱくり。

 彼女はクロワッサンを頬張り、瞳を閉じた。一見すると考え込んでいるようではあるが……

「いや、綾瀬さん? そろそろお店開けるんだからね? 寝ちゃダメだよ?」

「……ふわぁーいっ」

 織津駄菓子店の店主、織津綾瀬がねぼけまなこで微笑んだ。


 タッタッタッタッタッ!

 勢いよく駆け、瀬里奈は先を急ぐ。しかし、急遽とまった。

「高良せんぱいっ」

「はいはい。なんだい? 暴走機関車ちゃん」

 瀬里奈は首を傾げ、まなじりを下げる。

「瀬里奈は機関車ではありませんっ。人間ですっ」

「うん。知ってる。君は少し不思議ちゃんだね」

 疲れた表情を浮かべて、高良が呟く。しかし、直ぐに破顔して瀬里奈の先を行く。

「どこ行けばいいか分からなくなったんでしょ? 照様のうちはこちらだよ。まったく、どっちに行けばいいか分からないくせに好き勝手走るんだから……」

「ああっ。だから『暴走機関車』なのですねっ」

 ぽんっ。

 納得しました、という風に柏手を打ち、瀬里奈が微笑んだ。確かに、不思議な少女である。さすが変人だ。ハンパない変人だ。

 高良は苦笑してため息をつく。

「まあ、そういうこと。とにかく、少し急ごうか。照様をお待たせすると、照様本人はともかく、和己がうるさい」

「あっ。はいっ。瀬里奈も早く照さまにお会いしたいですっ」

 タッタッタッタッタッ!


 織津家は小山の麓にあるため、周りに自然が多い。小山に生える木々や草花はもとより、郊外ということで田畑も広がっている。

 それは、天津家もまた同様だった。天津の家は瀬里奈の家の近所――駆け足であれば十数分で着くところにあった。塀の外側には竹林、庭には松、小さな池からはししおどしの涼やかな響きがこだまする。

「わあっ…… ご立派なお家ですねっ」

「天津の別荘の一つらしいよ。俺はもうちょっと洋風な家がいいけどね」

 雑談を交わしながら、彼らは玄関扉を潜る。

 がらっ。

「ただいま戻りました。瀬里奈ちゃんをお連れしましたよ」

「遅いぞ、高良。どうせ寄り道でもしていたんだろう。まったく…… 突然すまなかったな、織津瀬里奈」

「いえっ。お気遣いなくお願いしますっ、和己せんぱいっ」

 迎えたのは照ではなく、和己だった。

 高良は小声で、ほら、うるさいだろ、と瀬里奈に耳打ちする。

「照様はまだ寝ぼけておいでだ。もう少し待って貰えるか?」

「はっ、はいっ」

 応えつつ、瀬里奈はきょろきょろと視線だけで天津家内を見回す。是非とも、寝ぼけている照を目にして見たかった。

 高い天井。奥行きのある廊下。左右にふすまが並び、部屋がいくつあるのか類推するのが難しい。別荘というには、随分と手広な内装である。一般家庭からすると、本宅よりも大きいだろう。

 しかし、脅威の変人、織津瀬里奈にとって、そのようなことは全く関心の対象とはならないようだ。

(どっ、どこでしょうかっ)

 胸を高鳴らせて、頬を桜色に染める変人。息づかいまでも荒くしている様は、もはや変態といってもいい。

 ぺた。ぺた。ぺた。

「……………お腹が……空いたわ……………」

 廊下を素足で歩む音に続いて、寝ぼけた声が玄関口まで届いた。少女が家の奥から姿を見せる。

 彼女はがくがくっと頭を上下させており、黒く艶やかなおぐしが乱れている。大きく円らな瞳は、しょぼしょぼとして開ききっていない。裾にフリルのついた寝間着に身を包んだ様は、実年齢よりもだいぶ幼く見える。

 学校で見るのとは違う、無防備すぎる照の姿がそこにあった。

「照様。織津瀬里奈が来ていますよ。しっかりなさってください」

「……………和己……お米……お味噌汁……食べたい……………」

 注意されても改善される様子がない。照の寝ぼけっぷりは、堂がいっている。

 これは幻滅するだろうと、高良は苦笑しながら、瀬里奈に視線を向ける。

 しかし当の少女は、真っ赤な顔で、瞳をキラキラと輝かせ、感動を胸に立ち尽くしていた。

(かっ、可愛いですっ)

 付ける薬が無さそうだ。


「ごめんね、織津さん。私のせいで遅刻してしまうことになって……」

 通学路をゆるりと歩みつつ、照が詫びた。そうは言いつつも、急ぐつもりは全くないらしい。

「いえっ。大丈夫ですっ。それにしてもっ、照さまは朝に弱いんですねっ」

「ええ。恥ずかしながら。何度和己に起こしてもらってもダラダラと…… 織津さんは朝どうやって起きてるの?」

「瀬里奈はパパに起こして貰うかっ、その前に目覚ましで起きるかっ、ですねっ。今日は目覚ましで起きましたっ」

 その言葉を受け、照は真剣な表情で、凄いわ、と感嘆した。天津家のお嬢様にとって、寝起きがいいことは、何事にも優先されるべき敬意の対象であるらしい。

 思いがけず賛辞を受けた瀬里奈は、えへへっ、と表情を緩ませきっている。

 一方で、照と和己、高良は表情を引き締めた。

「織津さん」

「はっ、はいっ」

 声をかけられ、瀬里奈は緊張する。

 彼らの様子から、何か失礼なことをしてしまっただろうか、と気が気ではなくなった。

 しかし――

「危ないわ」

「えっ?」

 突然の照の言葉に、瀬里奈は戸惑うばかりである。なぜなら、特別危険なことが見当たらないからだ。蛇行運転をする車がいるわけでも、野犬が唸っているわけでも、拳銃を所持したやくざ者がいるわけでもない。危ないことなど何もない。

 そう思われたのだが……

 どおおぉんっっ!!

 地面が陥没した。衝撃がコンクリートの道路を打ち、丸い形のくぼみが出来た。

「ええっ?」

 瀬里奈が驚きの声を上げたのは、空中だった。彼女は、照に抱えられ、飛んでいた。

「和己、傀儡人形を殲滅。高良、広域索敵。本体を逃がすな」

『はっ』

 照の端的な言葉に反応し、和己と高良は姿を消す。

 どおおおおおぉおんっっ!!

 そして、近くの木陰から衝撃音が響いた。先ほどよりも大きな音だ。

「まっ、またっ……」

「今のは和己よ。人形を潰したようね」

 しゅッ!

「照様。やはり奴らです。我らの動きを察知したのでしょう。いかがいたします? このまま――」

「まだ早い。現状維持。……和己も索敵行動に移行。ここは私に任せて」

「はっ」

 しゅッ!

 再び、和己が姿を消す。

 その場には、瀬里奈と照だけが残された。

 瀬里奈は混乱した頭を抱えながら、照に抱きかかえられている現状に頬を紅く染める。変人っぷりは、時と場合を考えて発揮してもらいたいものだ。

「織津さん。天津神の話を覚えてる?」

 宙に浮かんだまま、照が尋ねた。

「アマツカミっ、ですかっ?」

「昨日、社会科の時間に先生がお話しされてたでしょ?」

 確かにその通りだ。しかし、瀬里奈の記憶にその事実が残っているかというと、それは否だ。

「……ごめんなさいっ! 寝てましたあっ!」

 素直に詫びた。

 照は特に気にした風もなく、表情を変えずに言葉を続ける。

「そう。まあ簡単に言うと、天津神は日本の神様のことよ。神様というだけあって、不思議な力を持ってるの」

「不思議な力っ、ですかっ……」

 神様が居るならば、確かに何かしらの力を持っていそうなことはわかる。しかし、なぜ今そのような話を始めるのか、瀬里奈にはそこがわからない。

「ええ。空を飛んだり、地をうがったり」

「空を飛ぶっ? 地をうがつっ?」

 それは、まさに今体験していることだ。空は飛んでいる真っ最中である。地面もまた、よく分からないうちにうがたれている。

 照の言葉を信じるならば、これらはつまり――神の御業ということになる。

 すぅ。

 右腕を天高く掲げ、照が瞳を閉じる。

 ぱぁんッッ!!

「きゃああああぁあっ!」

 破裂音に伴い、空気が振動した。少女たちの頭上を、何かが襲ったようだ。

「小手調べ――なのかしら? これが本気なのだとしたら、私たちを嘗めすぎ」

 不適に笑み、少女は両の手から光を放った。

 どんッ! どんッ!

 光は四方に散り、炸裂音を響かせた。

「私は、天津宗家現当主、天津陽子が一子、天津照」

 照の腕に抱かれ、瀬里奈は夢を見ている気分だった。照の声が体中に響き渡る。快感にしびれるようであり、絶望にうちひしがれるようでもある。何を礎に意識を保てばいいのか、分からなかった。

 目の前で、照がにやりと笑う。

「片鱗とはいえ、主神、天照大神の力、何と心得る?」


 瀬里奈はその日、ぼうっとして一日を過ごした。朝に受けた衝撃が強すぎたせいだ。

(えっと……高良せんぱいはアメノタヂカラオノミコトさんっ。和己せんぱいはタケミカヅチノカミさんっ。そして照さまは――アマテラスオオミカミさまっ)

 神様が実在するというだけでも衝撃だというのに、知り合ったばかりの者こそがまさに神様だとなると、その驚きたるや…… もはや驚いているのかどうかも分からなくなるほどの動揺を覚える。

 瀬里奈は登校する前に、照に天津家のことを教わった。

 天津家とは、天津神と呼ばれる者たちの力を受け継いで伝える人々が籍を置く家なのだという。照や和己、高良以外にも数多の神が在籍している。月讀命や素戔嗚尊など、比較的有名な神もまた現存しているらしい。

 そして神とは、自然の力を体内に取り込み、自由に操れるようになった人間のことであるらしい。この世の全て、山にも海にも、空にも、あらゆる自然には力が宿っている。そういった力を得た者こそが神と呼ばれるのだと、照は言っていた。

 例えば、天手力雄命は戸隠山の持つ力を体内に取り込んだ者が成る神なのだという。

 同様に、古来、自然の力を取り込んだ人間が神と呼ばれ、彼らが集って、天津家という神の家系を形成したのだとか。

(神さまのっ――自然の力はっ、資格さえあれば親から継承されるってっ、照さまは言ってましたっ。照さまのお母さんが今のアマテラスオオミカミさまでっ、だからっ、照さまもアマテラスオオミカミさまでっ…… ってことで神さまが照さまでっ、照さまが凄い人でっ、っていうか神さまでっ…… ぬううぅうっ)

 朝からそのようにグルグルグルグル考え込み、瀬里奈は頭が痛くなり始めていた。もともと容量の小さい頭に、一気に知識を詰め込みすぎたのだろう。知恵熱が出る寸前まで追い込まれている。

「ちょ、ちょっと、大丈夫? 瀬里奈。遅刻したのって、具合悪いからなんじゃないの?」

 よしのが心配そうに、瀬里奈のおでこに手を当てる。知恵熱を発症する寸前のおでこは、通常よりも熱を発しているようで、よしのの顔が更に心配そうに歪んだ。

 瀬里奈たちは結局、二時限目が終わる頃に登校した。先生にはコッテリ絞られたが、衝撃から立ち直っていない瀬里奈は、教師のお説教の中身を一切覚えていない。それどころか、本日の出来事の大半を記憶していない。神々の戯れとでも呼ぶべき、朝のイベントを除いて。

「ホントに大丈夫? 早退したら?」

「……だっ、大丈夫ですっ。ありがとうございますっ、よしのちゃんっ」

「そう……? 無理するんじゃないわよ? っと、あたし、ちょっと部活の連絡ごとを隣のクラスに伝えにいくからこれで。ホント、ダメそうなら保健室行くのよ? いい?」

「はいっ」

 心配してくれる親友に手を振り、それから、瀬里奈は神のお姿を盗み見る。

 照は昨日と同じように、自席で微笑んでいた。転校生への興味はいまだ健在のようで、クラスメイトたちがちらほら、照を質問攻めにしている。

(今日の帰りにも色々教えてくださるって仰ってましたけどっ……)

 瀬里奈は頭を抱える。

(正直なところっ、理解が及びませんっ! せっかく照さまが懇切丁寧に教えてくださってるのにっ! 照さまがもの凄い人、っていうか神でっ、素敵でっ、胸がドキドキするってことは痛いくらいわかるのですけどっ! 瀬里奈の馬鹿っ! お馬鹿あっ!!)

 悶々と考え込んでいる様は、毎度のことながら変人じみている。

(あっ)

 ごそごそ。

 ぽんっと手を叩いて、瀬里奈が鞄を漁った。スマートフォンを取り出して、いじり始める。

(学校でケータイなんてホントはダメですけどっ、ちょっとだけっ…… 検索ページでっ、アマテラスオオミカミ、とっ)

 ウェブ上で公開されているページを開いた。

(これで少しは理解っ……できっ…………………………ませんっ! 書いてあることが難しすぎますっ。ううっ、やっぱり瀬里奈はお馬鹿ですうっ)

 照の説明以上に難解な言葉の連なりがそこにはあった。つるつるっと目が滑る。

 それでも、眺めていれば多少は理解が及ぶかと、瀬里奈は諦め悪く画面を見つめていた。

(えとっ、これはまた一段とっ……アマテラスオオミカミさまのっ、えとっ、あっ、あらおたましいっ? って読むんでしょうかっ? あらおたましいのっ……あこがれっ? でもでもっ、それじゃいくらなんでもっ…… むむむっ? ……よっ、読めませんっ! あううっ。あっ、でも読み仮名が…… えっとえっと――)

 もはや、文字列に踊らされているといってもよい状況である。理解どころか、識字すら危うい。それでも、日本語を覚えたばかりの外国人ばりにたどたどしく荒御魂あらみたまの名を口にする。

(ツキサカキイツミタマアマサカルムカツヒメっ?)

 思考が停止した。

 ここまで理解不能な文句も、名も、瀬里奈はいまだかつて聞いたことがなかった。中学校の授業で、英語ほど右から左に抜けて行く言葉もない、と瀬里奈は常々思ってきたものだが、いま目にしている言葉はその上を行く。これは本当に日本語ですか?と尋ねたい気分だった。

(はううっ、瀬里奈にはちょっとムリですっ)

 ギブアップしてスマートフォンを鞄にしまったまさにその時、教室の前の扉が開いた。現れたのは、右から左に抜けて行く言語を教える者である。

 キーンコーンカーンコーン。

 チャイムが鳴り響いているその最中、よしのが駆け込んできた。鳴り響く余韻を背に負い、自席にギリギリで着く。

「起立! 礼! 着席!」

 日直の号令と共に、クラスメイトたちが礼節を尽くす。

 本日最後の授業が始まった。


 **********


 こんこんっ。

 控えめな物音を耳にして、天津陽子は教科書から視線を上げた。ゆっくりとした所作で立ち上がり、自室の扉へと移動する。

 すぅ。

「これは綾瀬さん。いかがされました?」

「予告通り遊びにきたのっ」

 人なつこい笑みを浮かべる少女――織津綾瀬を瞳に入れて、陽子はほんの少しだけ気圧された。

 確かに、遊びに行くとあらかじめ言われていた。しかし、本当に来るとは思ってもみなかった。

(だって、そうでしょう? 母様は…… わたくしたちは……)

「陽子ちゃんは何してたっ?」

 屈託なく綾瀬が言う。

 対して、陽子は沈痛な面持ちにて、小さな声で答える。

「勉学を」

「ええーっ! ……しっ、試験が近いのっ?」

「いいえ」

 ならばなぜ、というように綾瀬が首を傾げる。

 陽子は陽子で、何を戸惑っているのか、と戸惑う。

 どうやら、少なくとも勉学に対する姿勢という一点においてのみ論じるならば、天津陽子と織津綾瀬はわかり合えない運命にあるらしい。

「まっ、まあいいやっ! 遊ぼっ! ねっ!」

「構いませんが、わたくしの部屋には花札くらいしか……」

「じゃっ、それやろっ! ルール教えてねっ、陽子ちゃんっ!」

 にっこりと笑う織津の娘が、陽子には眩しくて仕方がなかった。


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