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一章

 織津瀬里奈おりつせりなは変人である。

「……はあっ」

 通学路にてため息をついたのは、茶髪を肩口の辺りで切りそろえた少女。柔和な顔つきは、どこか小型犬を想起させる。変人こと、織津瀬里奈、まさにその人である。

 彼女の華奢な身体を包むのは、三海みつうみ中学校の冬服だ。今は季節の変わり目で、夏というには寒すぎ、秋というには暖かすぎる頃合いである。制服も、夏服の者もいれば冬服の者もいる、というように統一性がない。瀬里奈は華奢な体型のおかげで寒さに弱く、多少あたたかかろうと冬服を愛用するようにしている。

 そんな瀬里奈は、何度も言うが変人である。変人と言っては変人に失礼過ぎるほどに変人である。彼女は中学生でありながら、今時、幼稚園児でも見ない夢を思い描いている。頭の中にお花畑でも広がっているのではないかと疑いたくなる。

 変人が、ぼうっと虚空を見つめ、口を開く。

「今日はっ――白馬の王子様にお会い出来るでしょうかっ?」

 いや、ちょっと待って欲しい。白馬は公道を走らない。法律的には走ることが出来るが、常識的には走らない。そのような理屈は、小学生にでも分かる。

 そして、王子様などいない。どこかの王国の王の息子という存在は確実にいるが、彼女が期待する意味での王子様というのはいない。

「今日こそはっ、あそこの曲がり角でっ、是非とも運命の出逢いをっ……!」

 瀬里奈が、ぐっと拳を握る。

 勿論、そのような出逢いなども発生し得ない。よしんば、曲がり角で出会い頭の事故が起きたとて、それは出逢いではない。単純に事故だ。痛い思いをした結果、朝から不快な思いをするだけだ。場合によっては命を落とす。いいことなど何もない。

 しかし、瀬里奈にそのような理屈は通用しない。変人だからだ。いつも通り、期待に胸を膨らませ、『出逢い』を夢見て曲がり角から勢いよく飛び出す。非常に危険な行為だが、変人にとっては毎朝の日課なのだ。まったくもって迷惑この上ない。

 常なれば何も起きずに変人が肩を落とすだけなのだが……

 どんッ!

 事故が起きてしまった。

「きゃっ」

 がしッ。

 何かにぶつかって倒れそうになった瀬里奈の腰を、誰かの右腕が支える。そして、その誰かの左腕が瀬里奈の右手を優しく握る。

「大丈夫?」

 笑顔が、瀬里奈の目の前にあった。


 がらッ!

 三海中学校二年六組の黒板側の扉が勢いよく開いた。生徒一同は何事かと視線をそちらへ向ける。しかし、そこに変人の姿を見止めると、妙に納得したような表情を浮かべて、それぞれの作業に戻る。友との語らいやポーカー、ジェンガなど、変人の動向を窺うよりも大切なことが世の中にはごまんとある。

「たっ、大変ですっ、大変ですよっ! よしのちゃんっ!」

 幸い、変人はクラスメイトの一人を名指しした。なれば、他の者は関わり合いにならずに済もう。皆、ほっとひと息ついた。

 一方、名指しされた小比類巻よしのは大きくため息をついた。馬の尻尾のように結わえた黒髪は、心持ち元気なくヘタっている。あたかも、彼女の心情を代弁しているかの如くである。朝くらいは平和につつがなく過ごしたいものだ、と。

「どうしたの、瀬里奈? 王子様がハンカチで汗を拭きながら投球練習してた? それとも、白馬が羽を生やして天界へと旅だった? へえ、そりゃあ大変だねー」

 机の上のファッション雑誌から視線を上げずに、よしのが投げやりな口調で言う。瀬里奈が、大変だ大変だ、と言いながら詰め寄ってくることなど、さして珍しくもない。まともに反応を示したら負けである。

 しかし、今日のところは少しばかり様子が違った。瀬里奈の興奮度合いは常の比ではない。そこだけが心配の種であった。ろくでもない予感しかしない。

「違いますよっ。ハンカチ王子もペガサスも来ていませんっ」

 そのようなことはわかりきっていた。わざわざ否定してもらわずともいい。

「でもねっ」

 その接続詞はお呼びでない。よしのは嫌な予感と共に、胃の辺りにキリキリとした痛みを覚えた。

「曲がり角で運命の人と出逢っちゃいましたっ」

「気のせいでしょ」

 一刀両断。夢も希望もへったくれもありはしない。

「違いますっ! もおっ、よしのちゃんってばっ」

「……で?」

 否定してばかりいても話が進まない。よしのはとりあえず話の先を促すことにした。真剣に聞くかは、また別の問題だが。

「あんな素敵な人っ、初めて見ました…… これはもう運命に違いありませんっ。運命の出逢いというのはやはりあるのですねっ。瀬里奈は感動で胸がいっぱいですっ。素晴らしきかなっ、人生っ。ああっ、神様っ」

 うっとりとした表情を浮かべる十四歳。とてつもなく鬱陶しい。

 そもそも、彼女が主張している『運命の出逢い』とやらも、彼女の言葉通りではないだろう。そのような馬鹿らしいイベントは、漫画やドラマ、小説の中だけのものなのだから。

 せいぜいなところ、ちょっとぶつかって「あ、ごめんなさい」「こちらこそ」くらいのものに違いない。それでも、瀬里奈のような変人の脳を経由するだけで『運命の出逢い』の捏造が完了する。運命の女神への冒涜だ。

「神よ、罪深き友人を許し給え」

「えっ? えっ? 罪深きっ?」

 友の言葉を耳にして、瀬里奈がぱちくりと瞳をまたたかせる。何を言っているのだろうと、本当に不思議そうにしている。

 よしのはよしので、こいつは何を不思議そうにしているのだろう、と渋面を携えている。

 なぜ、彼女たちが順調に十年来の親友であり続けられているのか、誰もが疑問を覚えて然るべき光景だ。

「ま。それはともかく、軍盟の使徒がどうしたって?」

「運命の人ですっ! 何ですかっ、軍盟の使徒ってっ!」

 そのようなこと、よしのにも分からない。

「さあね。それで、その運命の人とやらは何処の誰さ?」

 改めて尋ねられると、瀬里奈は顔を輝かせて嬉しそうによしのにまとわりつく。

「何処のどなたかは存じませんけどっ、綺麗な黒髪をした素敵な方でしたっ。涼しい目元がとても印象的でっ、お声は素敵なアルトですっ。ああっ、またお会い出来るでしょうかっ」

(アルト? 女みたいな声ってことか…… あたしなら渋い声の人がいいけどなぁ)

 そのような感想を抱きつつ、よしのは頬杖をついて瞳を細める。呆れたように息をついた。

「で? 連絡先は――聞いてなさそうね」

 瀬里奈の様子から、よしのは素早く答えを導き出した。

「だっ、だってっ、そんなっ、恥ずかしいですっ」

「恥ずかしかろうがどうだろうが、連絡先も聞かないで『またお会い出来るでしょうかっ』もクソもないでしょ?」

「連絡先なんて聞かなくたってっ、運命の人なのですからまたお会い出来るに決まってるんですっ」

 そのようなことはあり得ない。受け身の姿勢で待つだけで、望むままに事が進むほど、世の中というものは易しくない。

「はいはい」

 そろそろ本気で面倒になったのだろう。よしのは適当な返事をしてから伸びをした。教室前方の掛け時計に視線を向けると、八時三十分。そろそろ担任教師が現れる頃合いだ。ファッション雑誌をおもむろに机にしまう。

 がらッ。

「ういーっす。今日もだりぃなぁ。帰っていいかぁ?」

 教室に入ってきて早々、二年六組の担任、苫米地敏文とまべちとしふみが言った。やる気のない態度はいつものことであるため、生徒たちは動じない。皆、小走りで各々の席に急ぐ。

 瀬里奈もよしのに手を振ってから移動した。窓際の一番前の席につく。

「起立、礼」

『おはようございまーす』

「あいよ。はよーっす。んじゃ、転校生、席ついて」

 テンコウセイ。二年六組の皆は、その言葉の意味を思い出すのに数秒の時を要した。

 そして、ようよう驚愕する。

「え? 転校生いるの?」

「そんな話きいてないぞ?」

 方々で上がる戸惑いの声。

「そりゃ、言ってねえもんよ」

『言えよ!』

 もっともな意見だった。

 しかし、敏文先生は心外だとでもいうように唇を尖らせる。

「だって今朝聞いたし。俺のせいじゃねえし」

 子供のような男である。今年で三十五歳になるのだが、だらしない格好も、威厳のない言動も、全てが歳不相応だ。

「五組の方が生徒少ないって言ったのに聞く耳持たねえし。校長うぜー。だりー。だから帰りてーの。オッケー?」

 当然、オッケーではない。

「いいから、その転校生を紹介してください。苫米地先生」

 代表してクラス委員長が言った。

 敏文は渋々という風に口を開く。

「へいへい。んじゃ、天津あまつ、入れ」

 がらッ。

 扉が開く。姿を見せたのは、長身の少年だった。艶やかな黒髪と、吸い込まれそうな漆黒の瞳が印象的である。クラスの女子たちが軽く頬を染めた。ささやき声が伝播する。

 その時、よしのは嫌な予感を覚えた。

 運命の人。転校生。分かり易い黄金パターンだ。

 そのような偶然があり得るかといえば、あり得ないはずだ。はずなのだが……

 ちらッ。

 こっそりと瀬里奈を盗み見る。

(うっわ…… なんか、キラキラしてる……)

 鬱陶しい様子の友人が居た。これは、次の休み時間が憂鬱で仕方が無い。

 はぁ。

 ため息をつきつつ、よしのは視線を前方へ戻す。

 すると、なぜか敏文の隣に、先ほどの男子に加え、人形のように美しい少女と、金髪が目を惹く少年がいた。

(転校生って、三人?)

「よし。自己紹介しろ。あと、お付きの奴らは三年の教室行けな?」

 敏文の視線の動きを追うに、少女が転校生であるらしい。他二人は『お付きの奴ら』で、上級生のようだ。

「いや。僕らはひかり様と共に――」

和己かずみ。ここはいいわ。高良たからも」

 照と呼ばれた少女が、落ち着いた声で少年二人に声をかけた。

 すると、和己――黒髪の少年と、高良――金髪の少年は、畏まって礼をする。そして、速やかに教室から出て行った。

 女子一同は残念そうにため息をついた。おそらくは、瀬里奈もまなじりを下げていることだろう。

 しかし、あとに残された少女は構わずに、恭しく一礼した。その後、二年六組の面々をゆっくりと見渡す。そして、小さく笑った。

「天津照と申します。皆さん、どうぞお見知りおきを」


 一時限目の英語が終わったあと、やはり瀬里奈が鬱陶しいテンションでよしのの席にやって来た。頬を桜色に染めて、もじもじとしている。そして、よしのに抱きついて、小さな声できゃーきゃーと嬌声を上げた。

「暑い。うざい。きもい」

「だってっ! だってえっ!」

 だっても明後日もない。変人全開の友人を力いっぱい押しのけて、よしのは呆れたようにため息をつく。

「ウンメイノヒトに会いに行かないの?」

「でっ、でもっ、他の方から質問攻めにあってますしっ」

 確かに、初日の転校生は、休み時間ごとに質問攻めにあうことを義務づけられている。

「他に遠慮しててどうするのよ。ウンメイノヒトなんでしょ?」

「でもでもおっ!」

「でもでもじゃないでしょ、ったく。ま、三年の教室に早速リサーチに行くくらいの積極性は評価するけどさ」

 彼女の親友は昔から内向的で、自分から上級生の教室に赴くなど希有なことであった。

「……えっ? 三年の教室っ?」

「行ったんでしょ? 『質問攻めにあってる』って断言したじゃん」

 実際に目にしたのでなければ、『質問攻めにあっているだろう』という発言になるはずだ。よしのはそのように考え、瀬里奈の行動を予想した。

 しかし、当の瀬里奈は不思議そうに小首を傾げる。

「えとっ? あってますよっ? ここからも見えますよっ?」

 言って、瀬里奈は視線をよしのから移動させる。

 その変人の瞳は、二年六組の転校生の元へ向いていた。

「えっ?」

「えっ?」

 互いに、何を言っているのかわからない、というように、瀬里奈とよしのが間の抜けた声を上げた。

 ……………………………………………………

 しばらくして、よしのが震える指を転校生――天津照へ向ける。

「…………………………運命の、人?」

「はいっ。運命の人でっ、瀬里奈の王子様ですっ」

 問いに迷い無く頷く瀬里奈。

 よしのは、改めて照を観察する。

 綺麗な黒髪。そう表現するに遜色のない、長くしなやかな、ぬばたまのおぐしだ。

 涼やかな目元。他者を見下しているかにも見える視線は、多少圧倒されるが、魅力的といえば魅力的だろう。

 アルトの声。確かに、照の声は落ち着いていて、女としては少し低めである。

 結論として、瀬里奈の言っていた『運命の人』が照だったとして、何もおかしなことなどない。

 しかし――

 ずさッ。

「なっ、何であとすさるんですかっ。ドン引きしてませんっ?」

「マジ離れて。あたし、そういうのはちょっと……」

「よしのちゃあああああああああああああぁあああぁあんっっ!!」


 昼休みになった。転校生への質問攻めはいまだ影を潜めない。瀬里奈が割り込む余地はない。

「いいの? ウンメイノヒトは?」

「だっ、だってっ、みんなも気にするのわかりますし…… そっ、それにですねっ! 瀬里奈の王子様なんですからっ、瀬里奈から行かなくてもっ――」

「運命ってそんなに甘くないと思うよ」

 ぱくぱく。

 給食についていたプリンに舌鼓を打ち、よしのが言った。まったくもって、正論である。

「……よしのちゃんのいぢわるっ」

 意地悪ということはない。常識的というのが正しい評価だ。

 がらッ。

 教室の扉が開いた。ともなって、廊下のざわめきが侵入してくる。

 続いて、二人の少年が姿を見せた。

「あ。お付きの二人じゃん」

 現れたのは、和己と高良であった。廊下のざわめきは、彼らを因としているようだ。二年六組の外には、頬を染めた女子が並んでいる。

 彼らを瞳に映したよしのは、ぽんっと手を打って笑んだ。

「ねえ、瀬里奈。運命の人なら、あっちの人たちの方がよくない?」

 正論である。わざわざ倒錯の道を歩まず、正当な青春を送ればよい。

 しかし、変人が正論に傾くことは、決してない。

「運命の人とはっ、王子様とはそういうものではありませんっ。よしのちゃんは分かっていませんっ」

 瀬里奈がぷいっと顔を逸らして、ぷくっと頬を膨らませる。

 はぁ。

 小さくため息をつき、よしのはプリンに意識を戻す。

「照様。お迎えにあがりました」

「和己、高良…… 皆さん。申し訳ございませんが、これで失礼いたします」

 照が席を立った。和己と高良を引き連れて、ゆっくりと歩を進める。

 そして――彼女は瀬里奈の前に立った。

「今朝はごめんなさい。大丈夫だった?」

 照の視線の先を追い求め、瀬里奈は自分の背後に瞳を向ける。誰も居ない。

 そこに誰もいないなら、つまり、彼女が声をかけたのは――瀬里奈だ。

 奇跡が起きた。運命もたまには甘く在ってくれるらしい。

「…………………………ふえっ?」

 たっぷり沈黙してから、瀬里奈が勢いよく立ち上がった。

「あっ、そのっ、はっ、はいっ。だだだっ、大丈夫だったでございますっ」

「そう。よかったわ。あの、織津さん。よければ校内を少し案内してくれない?」

 驚天動地。更なる奇跡が起きた。

「えっ! あのっ! えっとっ! そのっ!」

 瀬里奈が盛大に焦る。顔を真っ赤に染めて挙動不審な様子だ。

「ダメ?」

 照は小首を傾げて残念そうにしている。他のクラスメイトに対していた時よりも、やや幼い印象を与える。見方によっては媚びを売っているようでもある。しかし、気のせいだろう。媚びを売る相手が居ない。

「だだだだダメなんてそんなっっ!! 瀬里奈なんかでよろしければ喜んでっっ!!」

「そう。よかった。ありがとう、織津さん」

 にっこりと微笑む王子様を前にして、瀬里奈は耳まで真っ赤になっている。

(……この子、ガチか)

 よしのは、幼なじみのことが本気で心配になった。願わくば、これからの成長に伴って改善していって欲しいものだ。


 瀬里奈は、緊張してまともに照と話も出来ないまま、昼休みを無為に過ごしていく。三海中学校は至って普通の学校ゆえ、案内するところなどたかが知れている。いくつかの特別教室や職員室、体育館、部室棟を案内したところで教室へ戻る運びとなった。

(どっ、どうしましょうっ! もう昼休み終わっちゃうのにっ、あんまり話せてませんっ!)

 声に出さず、瀬里奈がこっそりと焦っていた。生来の人見知りに加え、『王子様』と共にいるという緊張から言葉が出てこなかったのが、心の底から悔やまれる。

 よしのが共にいれば多少は人見知りも改まるのだが、今回、彼女は遠慮して同行しなかった。実際は、遠慮したのではなく、変人を極めた友人を見ているのが辛いためだったが、そこは瀬里奈の知り及ぶところではない。

「織津さん」

「はっ、はいっっ!!」

 大きな声を上げた瀬里奈に、照がクスクスと可笑しそうに微笑する。

「どうかした?」

「いっ、いえっ。大きな声を出してしまってごめんなさいっ」

「いいけど。ねえ、織津さんってご兄弟はいる?」

 瀬里奈が破顔した。興味を持って貰えるというのは、とても嬉しい。

「兄弟ですかっ? いませんっ。うちはパパとママとっ、あと一人っ、親戚のお兄さんがいるだけですっ」

「では、お祖父様やお祖母様は?」

 随分と詳しく訊いてくる。よっぽど興味を持って貰えているようだ。瀬里奈の胸が高鳴る。

「おじいちゃんもおばあちゃんもっ、瀬里奈が産まれる前に死んでしまいましたっ。だからっ、写真でしか見たことないんですっ。お祖母ちゃんは特に早く亡くなっててっ、ママが十五歳の時に……って聞いてますっ」

「……そう」

 小さく呟いて、照が考え込む。そうしてから前髪をいじり、微笑んだ。

「突然ごめんね。織津さんに興味があったから。よければ仲良くしてね」

 運命の人のその言葉に、瀬里奈の顔が紅潮していく。これまでの人生において、ここまで興奮したことはないと言ってよい。

 とてつもない喜びが身体を満たす。

「はっ、はいっっ!! こちらこそよろしくお願いしますっっ!!」


「というわけでっ、やっぱり照さまは瀬里奈の運命の人でっ、王子様に違いないですっ。ねっ、よしのちゃんっ!」

 五時限目のあとの休み時間、仲良く伴ってトイレに赴き、瀬里奈とよしのはお喋りに興じていた。

 瀬里奈の興奮っぷりとは対照的に、よしのはうんざりと頭を抱えている。

「はいはい」

 最早まともに取り合うことすら面倒なようで、よしのは適当に話を流す。そうしながらも、一点疑問を呈する。

「ところで、瀬里奈。何で『照さま』なの? 天津さんとか照ちゃんとか、もっと呼び方があるでしょ?」

「えっ? だってっ、照さまって感じでしょっ? 照さまってっ」

 わからなくはない。どこか人と違う雰囲気を醸し出している照は、『照さま』という呼び名がよく似合う。

「……まあね。お付きの二人も『照様』だし。お嬢様なの?」

「旧家の出身だとは仰ってましたよっ。せんぱいのお二人も同じ家の出身でっ、小さな頃から一緒なんだそうですっ」

「ふーん。旧家っていうけど、この辺りのじゃないよね? 天津家なんて聞いたことないし」

卿都きょうとに本家があるそうですよっ」

 瀬里奈の言葉に、よしのは眉を潜める。

「卿都? それがなんでこっちに……」

「そこは聞けなかったんですっ。昼休みがちょうど終わっちゃいましてっ」

 そう言ってから、瀬里奈は破顔する。桜色に染まった頬を、両の手で包む。

「でもっ、一緒に帰る約束をしましたからっ、そこで聞いてみますねっ」

 順調に運命の人との絆を築いているようで、何よりだ。このまま変人を極めてしまいそうである。

「あたしにはもう止められないのかしらね」

「えっ? 何ですかっ、よしのちゃんっ?」

「……何でもない。じゃあ、今日からは部活終わるのを待たないで天津照と帰るのね?」

 瀬里奈は帰宅部で、よしのはバスケットボール部に属している。これまでは、瀬里奈が図書館で時間を潰し、よしのの部活が終わるのを待って共に帰宅していた。しかし、それを照にも強要するわけには行くまい。

「あ…… そっ、そうですよねっ。どうしましょうっ。やっぱりっ、照さまとの約束はお断りして……」

 まなじりを下げ、瀬里奈が言った。

 女友だちというのは、彼氏が出来た途端に付き合いが悪くなるものだと、バスケットボール部の先輩が言っていた。事実、そうなった友人が、よしのには既に数人居る。

 しかし、瀬里奈は『王子様』との時間を犠牲にしても、よしのとの時間を大事に想ってくれているようだ。

(ま、『彼氏』じゃないところがアレだけど……)

 ため息をついてから、よしのはニッコリ微笑む。

「なに言ってんの。あたしなら部活の友だちと一緒に帰るから、気にすんな。王子様と仲良くね」

 ばんッと背中を叩かれ、瀬里奈はびっくりしたように目を瞠った。そして、嬉しそうに笑った。


 六時限目は社会の授業だった。長埜県ながのけんの地理について、社会科教師がとつとつと語る。

 そのさなか、当の社会科教師、米田歴彦まいたつぐひこはいつも通り順調に話を脱線させる。

「長埜県といえば戸隠山だが、戸隠山は天の岩戸伝説で岩戸の一方が飛び来た地として有名だ」

 生徒たちは、また始まった、という風に諦め顔である。彼の脱線は今に始まったことではない。今さら、「え、有名なの?」とか、「長埜県ってもっと誇るべきところあるよね?」とかと突っ込む者はいない。

「天の岩戸伝説では、太陽の神たる天照大神が、弟神の素戔嗚尊の蛮行に怒って天の岩戸にお隠れになる。その時、世の中は闇に包まれ、悪しき神々による災害が各所で発生したんだ」

 ふあぁあ。

 教室はけだるい空気に包まれ、あくびをする者が各所で発生した。ただでさえ退屈な授業が、更に辛い時間となり果てた。

「困った天の神たちは、集って対策を講じた。そして、天の岩戸の前で宴を催すことにしたという。芸能の女神である天鈿女命あめのうずめのみことを筆頭に、踊り、唄い、大いに騒いだ」

 すやすや。

 ついには居眠りを始める者が出始めた。

「すると、天照大神も外のことが気になったのだろうな。天の岩戸をほんの少し開いて、外の様子を窺った。その瞬間を見逃さずに岩戸を破ったのが、天手力雄命あめのたぢからおのみことだ。彼の怪力が、岩戸の一方を宮嵜県みやざきけん高千穂に、一方を長埜の戸隠に飛ばしたと言われている」

 ぐーぐー。

 いびきまでもが聞こえ始めた。昼食後、いい感じにリラックスしているところにきて、興味のない雑談である。眠るなというのは無理な相談といえよう。

 歴彦もそこは承知しているようで、特に怒らない。話に興味をもって授業を聞いている数名に向けて、話を続ける。眠っていない生徒の一人、天津照を瞳に入れ、ふと思いついたように口を開く。

「そういえば、転校生は天津という姓だったな。天の神は、天津神と呼ばれる。君の家は、何かしら神と関係があるのかもしれないな」

「……さて、どうでしょう? 今度、親族に尋ねてみます」

 にっこりと微笑み、照は無難な答えを返した。

「結果は、先生にも教えてくれるかな。何か逸話があるのなら、興味深い。時に、君は神話をどう見る? うちの生徒は大概興味がない者ばかりでね。転校生の意見を聞いてみたいものだ」

 此度の問いに、照は先ほどよりも慎重に考え込んだ。下手な答えを返せば、クラスで浮いてしまう可能性が高い。気をつけようと構えるのも当然だ。

「……何かしらの事実が元になっている可能性はあるかと思います。伝説そのままとはいかずとも、それに準ずる何か。遙か昔に、その何かが起きたのではないかと」

「なるほど。冷静で現実的な意見だ。すると、戸隠と高千穂に飛び来た『岩戸』は何が元になったと考える?」

「……分かりません。ごめんなさい、先生」

 軽く考え込み、照が前髪をいじりながら申し訳なさそうに詫びた。しかし、社会科の問題というわけでもない内容なのだ。答えられなかったとして、どうということもない。受験対策という意味でも、一般教養という意味でも。

「いや、気にしなくていい。こちらこそ脱線して済まなかった。えーっと、何ページまで行ったかな?」

「百十二ページです、先生」

 比較的真面目な生徒が答えた。

 長埜県の気候に関する内容に、授業が戻る。眠っていた生徒もぼちぼちと顔を上げる。定期試験や受験に関わる内容ならば、聞く価値もあるということだろう。

 しかし、それでもいまだ机に伏している者たちは多い。

 それゆえに――

「岩戸は手力雄が無理に開いたわけではなかった。だから、戸隠や高千穂に飛んだものなど、本来存在しない。それが答えですよ、先生」

 照のその呟きを聞く者は、誰も居なかった。


 スタスタスタスタ。

 帰路についた瀬里奈と照は、ひたすらに無言だった。

 昼休みは和己と高良が共にいた。彼らもまた全く話をしなかったとはいえ、その存在が照の心を多少なりとも軟化させていたものと思われる。照の方が幾分饒舌だった。

 しかし、今、和己も高良も居ない。その上、よしのも居ない。結果、瀬里奈も照も学校に居る時よりも無口だった。

(あううっ。話を切り出せませんっ。卿都から青杜あおもりにいらした理由を聞こうと思ってましたけどっ…… いきなりあんまり踏み込み過ぎると嫌われないでしょうかっ)

 恐る恐るというように、照の様子を盗み見る瀬里奈。照が、足下を見ながら、ただただ歩き続ける様子は、瀬里奈の心をどんどんと重くしていった。

(この子つまらないわね、明日から一緒に帰るの止めよ……とか思ってるんじゃないでしょうかっ! ううううぅううぅううぅうっ!)

「織津さん」

「はっ、はいっ! 何でございまちょっ! っっ!! ……舌っ、噛みましたあっ」

 一人で騒ぎ立てる瀬里奈をぽかんと見つめてから、照は笑いをかみ殺そうと腹をよじって震えた。

「だ、大丈夫? 織津さん?」

「……はっ、はいっ。お恥ずかしいところをっ」

 真っ赤な顔を携えて、瀬里奈が縮こまる。そうしながらも、ほっと胸をなで下ろした。

 怪我の功名とでも言うものか、照の態度が軟化したようである。

「ねえ、織津さんのお家はどこなの?」

 先ほどまでから一転、瀬里奈の心が躍った。家の場所を聞くというのは、その人に対して大いに興味を抱いている証左だろう。

「まっ、町外れの小山の麓ですっ。直ぐ近くに鳥居があるのでっ、よしのちゃんを小さい頃にお招きした時は『わかりやすくていいね』って言ってくれてっ」

「ふぅん。なら、神社もあるの?」

「いえっ。ずっとずっと昔にはあったそうなんですけどっ、今は鳥居があるくらいですっ。織津っていう名字はっ、その神社の名前が元になっているってっ、そう聞いたことがありますっ」

 その答えを耳にし、照が瞳を細めた。

「……………そう。やっぱり」

「えっ?」

 瀬里奈が聞き返す。

 照は前髪を指先でもてあそびながら、にっこりと微笑んで首を振った。

「ううん。何でも無いの」

 何でも無い、という割に、彼女の態度が先ほどよりも硬化したように思える。

 瀬里奈は、何か悪いことを言ってしまったのかと、肝を冷やした。

「そう……ですかっ?」

「ええ」

 やはり、照の顔に浮かぶのは笑みだった。しかし、心は硬く冷たく、瀬里奈を遠ざけているように見えた。

 瀬里奈の心が萎んでいく。弱い心を守るための生き方が、人見知りの性格が顔を出した。

(やっぱり瀬里奈なんかがっ、照さまみたいな綺麗な人と運命だなんて……)

 そう考えて、一歩下がる。

 続けて、一歩……

 そのまま踵を返して、三海中学校まで走り去りたかった。よしのの元へ逃げ帰り、甘えたかった。

 三歩目と同時に後ろを向こうとして――

(……あの目っ)

 照の瞳の奥に影を見つけた。

 瀬里奈が姿鏡を見ると、彼女自身の瞳の奥にいつも見いだせるその影――心のどこかで、どうしようもない寂しさに辛さを見いだしたような、そんな影である。

 だから、瀬里奈は決意した。

(逃げるのなんてっ、いつでも出来ますっ。まだっ……まだっ、頑張るんですっ)

 後ろ向きに、前向きな決意をした。

「あのっ!」

 突然の大声に、照は目を瞠った。そして、なぁに、と微笑む。

「照さまはどうして卿都から青杜にっ?」

 問いを受け、照はくるりと百八十度まわった。瀬里奈に背を向けて、空を見上げる。

「ああ。それは、探すためよ」

「探すっ、ですかっ?」

「ええ、そう。探すため。お母さまのために、ある人を探すの」

 そう言った照の背は、どこか寂しそうだった。

 びゅうッ。

 乾いた風が地を駆け抜けた。瀬里奈の茶の髪と、照の黒い髪がさらりとなびく。

「……そのっ、見つかるといいですねっ」

「……ありがとう」


 **********


 天津宗家の屋敷を、一組の親子が訪れた。三十代後半の母親と十代半ばの娘である。彼女たちを迎えたのもまた、同じ年頃の親子であった。

「ようこそお越し下さった、織津殿」

「お久しぶりでございます。すめ様」

「……………ええ」

 天津皇が苦虫をかみつぶしたかのように顔を顰める。しかし直ぐに、表情を殺した。

「明日のためにゆるりと休まれるがよい。陽子、お部屋に案内して差し上げなさい」

「はい。母様。こちらへどうぞ」

 皇に一礼して、陽子は客人を招く。屋敷の奥へと誘っていく。

 彼女について行きつつ、織津の娘が人なつこい笑みを浮かべる。

「えーとっ、陽子ちゃんっ? ねえねえっ、いくつっ? わたしは十五歳っ」

「これ、綾瀬。馴れ馴れしいですよ」

「いえ。よいのです。わたくしもこのあいだ十五になりました。綾瀬さんとおっしゃるのですね? 綺麗なお名前」

 そう言われ、綾瀬は照れたように頬をかく。

「えへへっ」

「お部屋はこちらになります。何かご用がございましたら、隣がわたくしの部屋となりますので、お訪ねください」

 綾瀬に対し、陽子はどこかそっけない。

 しかし、生来の脳天気さゆえ、綾瀬は気にせずに声をかける。

「ねえねえっ。あとでお部屋に遊びに行くねっ」

 突然の申し出に、陽子は目を瞠る。そうしてから、小さく笑んだ。

「ええ。楽しみにしております。綾瀬さん」


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