異世界郵便局の宛先不明課 ~死者の手紙を配るだけの簡単なお仕事,ただし放置すると魔王が湧きます~
異世界に転生したら,チート能力で無双できると思っていた.
けれど,私に与えられた能力は,剣でも魔法でも鑑定眼でもなかった.
ステータス画面を開いても,そこにはたった一行しか書かれていない.
【職業:配達員】
【固有技能:宛先不明の声が聞こえる】
地味だ.
あまりにも地味だ.
王都の神殿で目覚めた私は,銀髪の神官にこう告げられた.
「あなたは異界より召喚されし者です.この世界を救うため,どうか郵便局で働いてください」
「世界を救うために?」
「はい」
「郵便局で?」
「はい」
「魔王は?」
「います」
「勇者は?」
「すでにいます」
「私は?」
「郵便局です」
そうして私は,王立郵便局第十三支部,通称「宛先不明課」に配属された.
宛先不明課の仕事は簡単だ.
届かなかった手紙を,届ける.
ただし,普通の手紙ではない.
死者が出した手紙だ.
この世界では,人は死ぬ直前に一通だけ手紙を書くことがある.
紙がなくても,ペンがなくても,声にならなかった言葉が,魔力の残り香として封筒の形になる.
「ごめん」
「ありがとう」
「本当は愛していた」
「逃げろ」
「あの井戸の底を見ろ」
「王は偽物だ」
そういう,生きているうちに届かなかった言葉が,郵便局に集まってくる.
そして,宛先が読めないものだけが,私の机に積まれる.
なぜ私に任されるのか.
理由は単純だった.
私には,封筒の声が聞こえる.
「……寒い」
最初の一通は,そう言った.
私は思わず封筒を落とした.
「しゃべった!」
向かいの席で書類に判を押していた上司が,顔も上げずに言った.
「宛先不明課ではよくあることです」
上司の名前は,ロウ・グレイヴン.
黒髪,黒目,黒手袋.
年齢不詳.
顔はいいが,常に疲れている.
そして,私よりずっと椅子に座るのがうまい.
「封筒の声を聞いて,届け先を推測してください」
「推測って,そんな曖昧な」
「死者の言葉は,だいたい曖昧です」
ロウさんは淡々と言った.
「生きている人間でさえ,自分の気持ちを正確に言えません.死ぬ間際なら,なおさらです」
私は封筒を拾い上げた.
古びた灰色の封筒だ.差出人も宛名もない.
ただ,封蝋だけが赤黒く固まっている.
耳を近づけると,また声がした.
「寒い.でも,あの子には毛布をかけてやれた」
私は顔を上げた.
「子ども宛てでしょうか」
「おそらく」
「でも,誰の子か分かりません」
「だから,聞くのです」
封筒は,ぽつりぽつりと話した.
寒い.
雪.
焼けた村.
小さな手.
青いリボン.
歌.
パンの焦げた匂い.
名前は出てこない.
私は一日かけて記録を調べた.
十年前,北方の村が魔物に襲われ,全滅した事件があった.
ただ一人だけ,青いリボンをつけた女の子が助かっている.
今は王都のパン屋で働いていた.
私は封筒を持って,その店に向かった.
店の奥から出てきた女性は,二十歳くらいだった.
髪を短く切り,腕には小麦粉がついている.
彼女は私の持つ封筒を見た瞬間,息を止めた.
「それ……誰からですか」
私は答えられなかった.
死者の手紙は,差出人を名乗らないことが多い.
名乗るには,後悔が多すぎるからだ.
「おそらく,あなたを守った方からです」
彼女は震える手で封筒を受け取った.
封を開ける.
中には,たった一文だけ書かれていた.
『寒くなかったか』
女性は,その場に座り込んで泣いた.
私は何も言えなかった.
慰めの言葉は,たいてい宛先を間違える.
郵便局に戻ると,ロウさんが言った.
「初配達,お疲れさまでした」
「……これ,世界を救う仕事なんですか?」
「ええ」
「魔王を倒すわけでもないのに?」
ロウさんは,山のような未配達の封筒に目を向けた.
「魔王がなぜ生まれるか,知っていますか」
私は首を横に振った.
「届かなかった言葉が腐るからです」
その答えは,あまりにも静かだった.
「恨み,後悔,謝罪,告白,警告.誰にも届かず,誰にも読まれず,世界の底に溜まっていく.それがある量を超えると,魔王になります」
私は机の上の封筒を見た.
どれも薄く震えていた.
「つまり,魔王って……」
「世界中の未読メッセージです」
最悪だった.
魔王が孤独とか,憎しみとか,呪いから生まれるという話なら聞いたことがある.
でも,未読メッセージから生まれるとは思わなかった.
しかも,なんだか身に覚えがあった.
前世の私は,返信をため込む人間だった.
仕事の連絡は返せた.
請求書も,確認事項も,締切の催促も,反射のように返せた.
けれど,友人からの「大丈夫?」には返せなかった.
母からの「ちゃんと食べてる?」にも返せなかった.
昔の同僚からの「無理してない?」にも返せなかった.
大丈夫ではなかったからだ.
大丈夫ではないと打った瞬間,本当に壊れてしまう気がした.
最後の夜,私はスマホの画面に浮かんだ未読通知を見ながら,床に座っていた.
立ち上がらなければと思った.
水を飲まなければと思った.
誰かに電話しなければと思った.
けれど,指が動かなかった.
翌朝,私は目を覚まさなかった.
この世界で目覚めたとき,最初に思ったのは,「助かった」ではなかった.
「あの返信,どうしよう」だった.
死んでもなお,返していない連絡のことを考えるなんて,ずいぶん情けない.
けれど,たぶん人間は,そういう小さな未完了を抱えたまま死ぬのだと思う.
その日から,私は働いた.
勇者が魔王城へ向かう間,私は村へ行った.
騎士団がドラゴンと戦う間,私は古い墓地を歩いた.
王が戦勝演説をする間,私は地下牢で死んだ囚人の封筒を読んだ.
配達する手紙は,きれいなものばかりではなかった.
『お前を許さない』
『金庫の裏を見ろ』
『私を殺したのは兄です』
『あの子は本当の王女ではない』
『愛していた.でも,一緒にいるべきではなかった』
届けたせいで,人が泣いた.
届けたせいで,家族が壊れた.
届けたせいで,裁判が始まった.
届けたせいで,戦争が止まった.
言葉は薬ではない.
刃物でもある.
でも,腐らせるよりはましだった.
半年後,勇者が魔王城で敗れたという知らせが届いた.
王都は恐慌に陥った.
神殿は新しい勇者を召喚しようとした.
騎士団は最後の防衛線を敷いた.
貴族たちは逃げる準備を始めた.
宛先不明課では,誰も大声を出さなかった.
ただ,その日の夕方,ロウさんが一通の封筒を机の上に置いた.
白い封筒だった.
ところどころ焦げている.
封蝋には,折れた剣の紋章が刻まれていた.
「これは?」
「一人目の勇者の最後の手紙です」
私は息を止めた.
「届けるんですか」
「宛先が読めれば」
封筒は,何も言わなかった.
耳を近づけても,風のような音がするだけだった.
しばらくして,かすかな声が聞こえた.
「……ごめん.間に合わなかった」
それだけだった.
私はロウさんを見た.
「誰宛てですか」
「分かりません」
「家族でしょうか」
「かもしれません」
「恋人?」
「かもしれません」
「この国の人たち?」
「それも,かもしれません」
私は白い封筒を見つめた.
勇者の最後の言葉が,「勝った」でも「逃げろ」でも「助けて」でもなく,「ごめん」だったことが,ひどく胸に残った.
世界を救うために呼ばれた人が,最後に謝って死ぬ.
そんな世界を,どうして救われた世界と呼べるのだろう.
「この手紙は,まだ置いておきましょう」
ロウさんが言った.
「いいんですか」
「急いで届けるには,宛先が広すぎる」
その日の夜,王都に鐘が鳴った.
新しい勇者が召喚された知らせだった.
人々は広場に集まり,神殿を見上げた.
光の柱の中から現れたのは,まだ少年の面影を残した青年だった.
鎧の着方も知らない顔をしていた.
それなのに,人々は彼に向かって叫んだ.
「勇者様!」
「どうか魔王を!」
「今度こそ世界を救ってください!」
私はその声を聞きながら,胸の奥が冷えていくのを感じた.
今度こそ.
その言葉は,二人目の勇者への期待であると同時に,一人目の勇者への忘却だった.
翌朝,宛先不明課に一通の封筒が届いた.
黒い封筒だった.
机に置いた瞬間,部屋の灯りが消えた.
封筒の表面には,宛名がない.
差出人もない.
ただ,封蝋に王冠と角が刻まれていた.
「魔王からですか」
私が聞くと,ロウさんは頷いた.
「おそらく」
封筒は,何も喋らなかった.
私は耳を近づける.
沈黙.
さらに近づける.
まだ沈黙.
けれど,その沈黙の奥に,かすかな音があった.
通知音だ.
前世で聞き慣れた,メッセージアプリの通知音.
ありえない.
この世界にスマホはない.
でも,その音だけは,はっきりと聞こえた.
私は震える手で封を開けた.
中には,紙ではなく,黒い画面のようなものが入っていた.
そこに文字が浮かび上がる.
『既読にならなかった人へ』
息が止まった.
続けて,文章が表示される.
『大丈夫?』
たったそれだけだった.
でも,私は知っていた.
これは,前世で私が最後まで開かなかったメッセージだ.
差出人は,大学時代の友人だった.
何度も連絡をくれたのに,私は返さなかった.
返せなかった.
大丈夫じゃないと認めたら,本当に壊れてしまいそうだったから.
画面の下に,小さな文字が出る.
『この一通を放置したため,あなたの未配達量は基準値を超えました』
「……え?」
さらに文字が続く.
『よって,あなたはこの世界における魔王発生要因の一部です』
私は固まった.
ロウさんが静かに言った.
「やはり,そうでしたか」
「知ってたんですか」
「可能性はありました」
「私が魔王なんですか?」
「正確には,魔王の材料です」
嫌すぎる.
私は椅子に座り込んだ.
配達員として半年働いてきた.
死者の後悔を届けてきた.
世界を救っているつもりだった.
でも,私自身が世界を壊す側でもあった.
黒い封筒が震える.
そこから,無数の声が漏れ始めた.
『どうして返してくれなかったの』
『一言でよかったのに』
『助けてって言ってほしかった』
『まだ怒ってないよ』
『待ってたよ』
それは,責める声ではなかった.
だからこそ,痛かった.
私は黒い画面を見つめた.
『大丈夫?』
その問いに,前世の私は答えられなかった.
今も,大丈夫とは言えない.
異世界に来ても,チートをもらっても,仕事をしても,誰かに感謝されても,私はまだ,大丈夫ではなかった.
だから,初めて正直に返事をした.
「大丈夫じゃなかった」
黒い封筒が,びくりと震えた.
私は画面の向こうにいるはずのない友人に向かって,声を絞り出した.
「……返せなくて,ごめん」
画面に,既読の文字がついた.
その瞬間,王都の空を覆っていた黒い雲が割れた.
遠く,魔王城の方角で,巨大な何かが崩れる音がした.
それは断末魔ではなかった.
誰にも読まれなかった言葉たちが,ようやく封を切られたような,長い長い息だった.
黒い封筒は灰になった.
机の上には,一枚の小さな紙だけが残った.
『返信,遅すぎ』
私は笑って,泣いた.
翌日,新しく召喚された勇者が魔王城から帰ってきた.
「魔王は,私が剣を抜く前に消えました」
彼はまだ鎧の着方にも慣れていない顔で,そう報告した.
人々は勇者を讃えた.
王は盛大な式典を開いた.
神殿は奇跡だと叫んだ.
宛先不明課には,何の勲章も届かなかった.
代わりに,新しい封筒が百二十七通届いた.
私はそれを見て,ため息をついた.
「世界って,全然救われませんね」
ロウさんは判を押しながら言った.
「一度で救われる世界などありません」
「では,どうするんですか」
「今日届くべきものを,今日届けます」
私は机の端に置かれた白い封筒を見た.
一人目の勇者の最後の手紙だ.
焦げた封筒は,まだかすかに震えていた.
「ごめん.間に合わなかった」
その声は,今も宛先を探している.
私はそっと封筒を手に取った.
「ロウさん」
「はい」
「この手紙,私が届けてもいいですか」
ロウさんは少しだけ目を細めた.
「宛先は分かったのですか」
「たぶん」
「誰です」
私は窓の外を見た.
王都では,人々が二人目の勇者の凱旋を祝っている.
誰も一人目の勇者の名前を呼んでいない.
まるで,失敗した勇者など最初からいなかったみたいに.
「この国です」
ロウさんはしばらく黙っていた.
それから,静かに頷いた.
「では,配達を」
私は白い封筒を鞄に入れた.
その日の夕方,王都中央広場には,まだ祝勝の旗が揺れていた.
人々は二人目の勇者を囲み,酒を飲み,歌い,魔王が消えた奇跡を語っていた.
私は広場の真ん中に立った.
誰も私を見ていない.
郵便局の制服を着た配達員など,祝勝会では背景でしかない.
けれど,私は封筒を開けた.
白い光が広場に広がった.
人々の声が止まる.
二人目の勇者が,こちらを振り返る.
封筒から,一人目の勇者の声が流れた.
『ごめん.間に合わなかった』
たった一文だった.
でも,その一文は広場の隅々まで届いた.
酒杯を持つ手が止まり,笑っていた口が閉じ,神官たちが気まずそうに目を伏せた.
私は声を張り上げた.
「一人目の勇者からの手紙です」
誰かが言った.
「一人目……?」
誰かが答えた.
「魔王城で,亡くなった……」
その瞬間,人々のあいだに沈黙が落ちた.
忘れていたわけではない.
忘れたことにしたかったのだ.
世界を救えなかった勇者のことを覚えていると,今ここで笑うことが難しくなるから.
二人目の勇者が,ゆっくりと前に出た.
彼はまだ若く,頼りなく,けれどまっすぐな目をしていた.
「その手紙を,私にも聞かせてください」
「もう,全部です」
「では,届きました」
彼は広場の中央で膝をついた.
そして,魔王城の方角に向かって頭を下げた.
「あなたは,間に合わなかったのではありません.私が間に合ったのは,あなたがそこまで進んでくれたからです」
広場に,静かなざわめきが広がった.
一人目の勇者の封筒が,少しずつ軽くなっていく.
誰かが帽子を脱いだ.
誰かが祈った.
誰かが泣いた.
やがて,王都の鐘が鳴った.
祝勝の鐘ではなかった.
弔いの鐘だった.
白い封筒は,私の手の中で光になって消えた.
私は思った.
届かなかった言葉は,世界を壊す.
でも,届いた言葉は,世界をすぐには救わない.
ただ,世界が壊れた場所を,ここだと教えてくれる.
翌朝,宛先不明課には,また封筒が積まれていた.
私はそのうちの一通を手に取った.
中から,小さな声がした.
『お弁当,机の上』
私は笑った.
世界を救う言葉にしては,あまりにも生活感がある.
けれど,たぶん,こういう言葉こそが世界を支えている.
愛している.
ごめん.
ありがとう.
逃げろ.
生きて.
お弁当,机の上.
私は鞄を肩にかけた.
王都の空は,まだ少し曇っている.
未配達の言葉は,今日もどこかで増えている.
魔王の種は,たぶん完全には消えない.
それでも私は歩き出す.
私は勇者ではない.
聖女でもない.
悪役令嬢でもない.
世界最強でも,王国最弱でもない.
ただの配達員だ.
けれど,届かなかった一言が魔王になる世界なら,
一通の手紙を届けることだって,十分に冒険だと思う.




