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そしてまた誰もいなくなった-松井浩亮の事件簿-  作者: 水前寺鯉太郎
第二部:松本誘拐殺人事件

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9/11

第10話: 深淵の崩落、あるいは結界の消失

第十話:深淵の崩落、あるいは境界の消失

1

地下壕の空気は、湿った土の匂いと、数十年前の機械油が混ざり合った、腐敗した静寂に満ちていた。

松井浩亮の放ったトカレフの弾丸は、確かに男の肩を抉った。鮮血が男の白いシャツに滲み、滴り落ちる。しかし、男は痛みを感じる神経が欠落しているかのように、優雅に、そして奇妙なほどゆっくりと崩れ落ちる巨体を見つめていた。

「パクさん、離してくれ……こいつを終わらせなきゃならないんだ!」

松井の叫びがドーム状の空間に反響する。パク刑事の力強い手が松井の腕を固定していたが、その手は微かに震えていた。

「……待て、マツイ。よく見ろ。こいつは……人間じゃない」

パクの声に含まれた純粋な恐怖に、松井は動きを止めた。

懐中電灯の光が、倒れ込んだ男の傷口を照らし出す。そこから流れ出ているのは、赤黒い人間の血だけではなかった。

傷口の奥から、さらさらと、あの不気味な**「青い砂」**が溢れ出していたのだ。

「先生、不思議かな?」

男は座り込んだまま、自分の肩からこぼれる砂を愛おしそうに指で掬い上げた。

「君が1986年に追いかけたチョ・テシンは、確かにあの村の有力者だった。だが、彼もまた『依代よりしろ』に過ぎなかったんだよ」

男の顔が、照明の加減か、あるいは物理的な変容か、刻一刻と形を変えていく。ある時は韓国の地主、ある時は松本の時計職人、そしてある時は——松井自身が救えなかったイ・ジヌの顔に。

「チョ・テシンという存在は、一つの意志だ。井戸の底に溜まった、数千年の『子供たちの未練』が形を成したもの。君が法を信じ、正義を叫ぶたびに、僕たちは強くなる。なぜなら、法という光が強ければ強いほど、その足元に落ちる影は深く、濃くなるからだ」

2

男は立ち上がった。肩の傷口はすでに砂で埋まり、修復されていた。

「君が木村君を失ったあの日。あの爆発で彼が肉体を失ったとき、彼はようやく『自由』になった。君の正義という牢獄からね。彼は今、この歯車の音の中にいるよ。聞こえないかい?」

『ギィ……ギィ……。』

巨大な旋盤が回る音が、次第に規則正しい「拍動」へと変わっていく。

それはラジオ体操の音楽のテンポと重なり、地下壕全体を震わせ始めた。

「嘘だ……木村は、あんな死に方をしたかったはずがない!」

松井は再び銃を構えた。だが、今度は引き金を引く指が動かない。

地下壕の壁面から、無数の「子供の手」のような突起が突き出していた。それらは、泥と砂で形成され、うごめきながら松井たちの足元に迫ってくる。

パク刑事が、持っていた裏帳簿の原本を地面に叩きつけた。

「チョ・テシン! 貴様が何者であろうと構わん。この帳簿には、お前たちがこの世で犯した『取引』のすべてが記されている。子供の命を砂に変え、富を得た者たちの名前がな!」

「パク刑事……君はまだ、その紙切れに価値があると思っているのか」

男が指を鳴らすと、パクの足元の帳簿が、瞬く間に青い砂へと崩れ落ち、風に舞った。

「文字も、法も、記憶も。すべては砂に還る。この街の地下には、もう『あちら側』の門が開いているんだ」

3

その時、地下壕の天井から凄まじい轟音が響いた。

落盤ではない。それは、大地そのものが悲鳴を上げているような、根源的な破壊の音だった。

「何が起きている……!」

松井が上を見上げると、巨大な時計の歯車が軸から外れ、火花を散らしながら落下してきた。

地下水が噴き出し、砂と混ざり合って、濁流となって襲いかかる。

「崩落が始まるぞ! マツイ、逃げろ!」

パクが松井の襟首を掴み、出口へと引きずろうとする。

だが、松井の目は、崩れゆく瓦礫の奥で、静かにこちらを見つめる男に釘付けになっていた。

男の背後には、巨大な「井戸」のような穴が口を開けていた。

そこから、15年前のあの少年たちの声が聞こえる。

『先生、こっちだよ。』

『ラジオ体操、始まるよ。』

「……木村。木村、そこにいるのか!」

松井はパクの手を振りほどき、崩落の真っ只中へと駆け出した。

「マツイ! 戻れ! 死ぬ気か!」

パクの絶叫を背に、松井は濁流を泳ぎ、崩落する天井の下を潜り抜けた。

瓦礫が松井の肩を砕き、視界が血で染まる。それでも、彼は突き進んだ。

刑事としてのプライド、法への忠誠、それらすべてを捨て去った後に残ったのは、ただ一つ。「あいつに一矢報いたい」という剥き出しの執念だけだった。

4

松井が男の目前に辿り着いた時、地下壕の天井が完全に崩壊した。

地上にあった松本市の住宅街の一部、そして古い時計塔が、重力に従って地下へと沈み込んでくる。

「……捕まえたぞ」

松井は、血塗れの手で男の胸ぐらを掴んだ。

男は驚いたように目を見開いた。怪物が初めて見せた、「人間らしい」表情だった。

「君は……なぜ、戻ってきた? ここに飛び込めば、君の存在そのものが消えるんだぞ」

「消えても構わない。だがな、お前を一人で『あちら側』へは行かせない」

松井はトカレフを男の胸に押し当て、全弾を撃ち込んだ。

砂と血が混ざり合い、男の体が崩れていく。

「パクさん! 行け! 逃げるんだ!」

松井は背後のパクに叫んだ。

パクは一瞬、苦渋に満ちた表情を見せたが、押し寄せる土砂の波に押され、崩落の入り口へと押し戻されていった。

「……マツイ! 忘れるな、お前の正義は、俺が覚えておく!」

その言葉を最後に、地下壕の入り口は完全に土砂で埋まった。

5

静寂。

いや、それは静寂ではなかった。

崩落した土砂の重みの中で、松井は不思議な温かさを感じていた。

目の前の男は、すでに砂の塊と化していた。

だが、その砂の中から、一人の小さな少年が這い出してきた。

それは、韓国の駄菓子屋にいた、あの少年だった。

「先生。……お疲れ様。ようやく、一休みできるね」

少年は、松井の壊れた手に、一つの「赤いボタン」を握らせた。

それは、火傷するほど熱く、同時に、母の温もりのように優しかった。

松井の意識が遠のいていく。

地上では、大規模な地盤沈下として処理されるであろうこの大惨事の中で、松井浩亮という刑事の記録は、公式には「殉職」あるいは「行方不明」として処理されることになるだろう。

しかし、彼は死んではいなかった。

彼は、境界線の上にいた。

法が届かない場所。砂と記憶が混ざり合う、井戸の底のその先。

「木村……。……そこに、いるんだな」

松井の閉じた瞼の裏に、かつての農村の霧、松本の雨、そして消えていった子供たちの笑顔が、走馬灯のように駆け巡った。

——それから、15年の月日が流れる。

6(エピローグ:15年後の朝)

200X年、夏。

かつて地下壕が崩落した場所の上に建てられた、新しい公園。

そこには、定年を過ぎた年齢のはずの、一人の男がベンチに座っていた。

男の髪は白く、顔には深い刻まれていた。

だが、その目は、鋭い鷹のような光を失っていない。

彼の足元には、古びた、しかし手入れの行き届いた一冊のノートが置かれていた。

表紙には、『松井浩亮の事件簿』と書かれている。

公園のスピーカーから、午前6時15分のメロディが流れ始める。

ラジオ体操、第一。

男はゆっくりと立ち上がった。

そのポケットの中では、15年前、いや30年前から持ち続けている「赤いボタン」が、カチリと音を立てた。

「……さて。始めようか。まだ、終わっていない夏休みを」

男は、井戸の跡地に新しく作られた池を見つめた。

そこには、自分を呼ぶ「幼い依頼人」たちの影が、ゆらゆらと揺れていた。

松井浩亮の戦いは、今、三度みたび幕を開ける。

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