第10話: 深淵の崩落、あるいは結界の消失
第十話:深淵の崩落、あるいは境界の消失
1
地下壕の空気は、湿った土の匂いと、数十年前の機械油が混ざり合った、腐敗した静寂に満ちていた。
松井浩亮の放ったトカレフの弾丸は、確かに男の肩を抉った。鮮血が男の白いシャツに滲み、滴り落ちる。しかし、男は痛みを感じる神経が欠落しているかのように、優雅に、そして奇妙なほどゆっくりと崩れ落ちる巨体を見つめていた。
「パクさん、離してくれ……こいつを終わらせなきゃならないんだ!」
松井の叫びがドーム状の空間に反響する。パク刑事の力強い手が松井の腕を固定していたが、その手は微かに震えていた。
「……待て、マツイ。よく見ろ。こいつは……人間じゃない」
パクの声に含まれた純粋な恐怖に、松井は動きを止めた。
懐中電灯の光が、倒れ込んだ男の傷口を照らし出す。そこから流れ出ているのは、赤黒い人間の血だけではなかった。
傷口の奥から、さらさらと、あの不気味な**「青い砂」**が溢れ出していたのだ。
「先生、不思議かな?」
男は座り込んだまま、自分の肩からこぼれる砂を愛おしそうに指で掬い上げた。
「君が1986年に追いかけたチョ・テシンは、確かにあの村の有力者だった。だが、彼もまた『依代』に過ぎなかったんだよ」
男の顔が、照明の加減か、あるいは物理的な変容か、刻一刻と形を変えていく。ある時は韓国の地主、ある時は松本の時計職人、そしてある時は——松井自身が救えなかったイ・ジヌの顔に。
「チョ・テシンという存在は、一つの意志だ。井戸の底に溜まった、数千年の『子供たちの未練』が形を成したもの。君が法を信じ、正義を叫ぶたびに、僕たちは強くなる。なぜなら、法という光が強ければ強いほど、その足元に落ちる影は深く、濃くなるからだ」
2
男は立ち上がった。肩の傷口はすでに砂で埋まり、修復されていた。
「君が木村君を失ったあの日。あの爆発で彼が肉体を失ったとき、彼はようやく『自由』になった。君の正義という牢獄からね。彼は今、この歯車の音の中にいるよ。聞こえないかい?」
『ギィ……ギィ……。』
巨大な旋盤が回る音が、次第に規則正しい「拍動」へと変わっていく。
それはラジオ体操の音楽のテンポと重なり、地下壕全体を震わせ始めた。
「嘘だ……木村は、あんな死に方をしたかったはずがない!」
松井は再び銃を構えた。だが、今度は引き金を引く指が動かない。
地下壕の壁面から、無数の「子供の手」のような突起が突き出していた。それらは、泥と砂で形成され、うごめきながら松井たちの足元に迫ってくる。
パク刑事が、持っていた裏帳簿の原本を地面に叩きつけた。
「チョ・テシン! 貴様が何者であろうと構わん。この帳簿には、お前たちがこの世で犯した『取引』のすべてが記されている。子供の命を砂に変え、富を得た者たちの名前がな!」
「パク刑事……君はまだ、その紙切れに価値があると思っているのか」
男が指を鳴らすと、パクの足元の帳簿が、瞬く間に青い砂へと崩れ落ち、風に舞った。
「文字も、法も、記憶も。すべては砂に還る。この街の地下には、もう『あちら側』の門が開いているんだ」
3
その時、地下壕の天井から凄まじい轟音が響いた。
落盤ではない。それは、大地そのものが悲鳴を上げているような、根源的な破壊の音だった。
「何が起きている……!」
松井が上を見上げると、巨大な時計の歯車が軸から外れ、火花を散らしながら落下してきた。
地下水が噴き出し、砂と混ざり合って、濁流となって襲いかかる。
「崩落が始まるぞ! マツイ、逃げろ!」
パクが松井の襟首を掴み、出口へと引きずろうとする。
だが、松井の目は、崩れゆく瓦礫の奥で、静かにこちらを見つめる男に釘付けになっていた。
男の背後には、巨大な「井戸」のような穴が口を開けていた。
そこから、15年前のあの少年たちの声が聞こえる。
『先生、こっちだよ。』
『ラジオ体操、始まるよ。』
「……木村。木村、そこにいるのか!」
松井はパクの手を振りほどき、崩落の真っ只中へと駆け出した。
「マツイ! 戻れ! 死ぬ気か!」
パクの絶叫を背に、松井は濁流を泳ぎ、崩落する天井の下を潜り抜けた。
瓦礫が松井の肩を砕き、視界が血で染まる。それでも、彼は突き進んだ。
刑事としてのプライド、法への忠誠、それらすべてを捨て去った後に残ったのは、ただ一つ。「あいつに一矢報いたい」という剥き出しの執念だけだった。
4
松井が男の目前に辿り着いた時、地下壕の天井が完全に崩壊した。
地上にあった松本市の住宅街の一部、そして古い時計塔が、重力に従って地下へと沈み込んでくる。
「……捕まえたぞ」
松井は、血塗れの手で男の胸ぐらを掴んだ。
男は驚いたように目を見開いた。怪物が初めて見せた、「人間らしい」表情だった。
「君は……なぜ、戻ってきた? ここに飛び込めば、君の存在そのものが消えるんだぞ」
「消えても構わない。だがな、お前を一人で『あちら側』へは行かせない」
松井はトカレフを男の胸に押し当て、全弾を撃ち込んだ。
砂と血が混ざり合い、男の体が崩れていく。
「パクさん! 行け! 逃げるんだ!」
松井は背後のパクに叫んだ。
パクは一瞬、苦渋に満ちた表情を見せたが、押し寄せる土砂の波に押され、崩落の入り口へと押し戻されていった。
「……マツイ! 忘れるな、お前の正義は、俺が覚えておく!」
その言葉を最後に、地下壕の入り口は完全に土砂で埋まった。
5
静寂。
いや、それは静寂ではなかった。
崩落した土砂の重みの中で、松井は不思議な温かさを感じていた。
目の前の男は、すでに砂の塊と化していた。
だが、その砂の中から、一人の小さな少年が這い出してきた。
それは、韓国の駄菓子屋にいた、あの少年だった。
「先生。……お疲れ様。ようやく、一休みできるね」
少年は、松井の壊れた手に、一つの「赤いボタン」を握らせた。
それは、火傷するほど熱く、同時に、母の温もりのように優しかった。
松井の意識が遠のいていく。
地上では、大規模な地盤沈下として処理されるであろうこの大惨事の中で、松井浩亮という刑事の記録は、公式には「殉職」あるいは「行方不明」として処理されることになるだろう。
しかし、彼は死んではいなかった。
彼は、境界線の上にいた。
法が届かない場所。砂と記憶が混ざり合う、井戸の底のその先。
「木村……。……そこに、いるんだな」
松井の閉じた瞼の裏に、かつての農村の霧、松本の雨、そして消えていった子供たちの笑顔が、走馬灯のように駆け巡った。
——それから、15年の月日が流れる。
6(エピローグ:15年後の朝)
200X年、夏。
かつて地下壕が崩落した場所の上に建てられた、新しい公園。
そこには、定年を過ぎた年齢のはずの、一人の男がベンチに座っていた。
男の髪は白く、顔には深い刻まれていた。
だが、その目は、鋭い鷹のような光を失っていない。
彼の足元には、古びた、しかし手入れの行き届いた一冊のノートが置かれていた。
表紙には、『松井浩亮の事件簿』と書かれている。
公園のスピーカーから、午前6時15分のメロディが流れ始める。
ラジオ体操、第一。
男はゆっくりと立ち上がった。
そのポケットの中では、15年前、いや30年前から持ち続けている「赤いボタン」が、カチリと音を立てた。
「……さて。始めようか。まだ、終わっていない夏休みを」
男は、井戸の跡地に新しく作られた池を見つめた。
そこには、自分を呼ぶ「幼い依頼人」たちの影が、ゆらゆらと揺れていた。
松井浩亮の戦いは、今、三度幕を開ける。




