第9話:警察官の死
第9話:警察官の死
1
木村の葬儀は、雨の中で執り行われた。
棺の中に納められたのは、損傷が激しく、もはやかつての面影を留めていない「何か」だった。遺族の慟哭が響く中、松井は式列の最後尾で、濡れたアスファルトをただ見つめていた。
「松井、何をしている。焼香だ」
本部長の声が背後からかかる。だが、松井は動かない。彼の視線は、本部長の胸元に輝く警察章ではなく、自分の手のひらに握られた「焦げた赤いボタン」に向けられていた。
「……本部長。木村は、警察のルールに従って死にました。犯人を前にして、武器も持たず、ただ法を信じて。その結果が、あれです」
松井の言葉は、氷のように冷たかった。
「お前は疲れている。一週間の謹慎を命ずる。拳銃と警察手帳を置け」
松井は無言で、雨に濡れた手帳と、貸与されていたニューナンブ回転式拳銃を本部長の足元に置いた。
「謹慎など必要ありません。私はもう、警察官であることを辞めましたから」
松井は一度も振り返ることなく、式場を去った。背後で本部長が「松井! 戻れ!」と叫ぶ声も、激しい雨音にかき消された。
2
松井は、かつて木村と捜査した記録をすべて持ち出し、市内の安ビジネスホテルに潜伏した。
壁一面に貼られた地図、犯人の声の分析データ、そしてチョ・テシンに関する韓国時代の資料。
松井は、警察のデータベースにはアクセスできない。だが、彼には「刑事」としての意地と、法を捨てた男の「執念」があった。
彼はまず、闇のルートを通じて、一丁のトカレフを入手した。
「……警察の支給品じゃ、あいつを地獄に送るには軽すぎる」
松井は、科警研が指摘した「時計の歯車が回る音」の正体を、独力で突き止めていた。それは松本市内のどの時計塔でもなかった。
戦時中、この街の地下に掘られた、軍事用精密機械工場の跡地だ。そこには、今も巨大な旋盤や歯車が、地下水によって不規則に回転し続けている場所がある。
3
松井が地下壕の入り口に辿り着いたのは、深夜のことだった。
懐中電灯を消し、暗視ゴーグルの代わりに、研ぎ澄まされた聴覚だけを頼りに進む。
『ギィ……ギィ……。』
湿った闇の奥から、あの音が聞こえてくる。
不意に、背後でカチリと音がした。松井は反射的にトカレフを構え、振り向かずに銃身を突きつけた。
「……相変わらず、耳だけはいいな。マツイ」
そこに立っていたのは、トレンチコートを濡らしたパク刑事だった。彼は両手を上げ、苦笑いを浮かべていた。
「パクさん……なぜ日本に」
「お前が死ぬと思ったからだ。韓国の警察庁を辞めてきた。俺も、もう『法』の側にはいない」
パクは懐から、一冊の古いノートを取り出した。それは、韓国の「八つ足村」で没収されたはずの、チョ・テシンの裏帳簿の原本だった。
「マツイ、あいつはここにいる。だが、チョ・テシンはもう、ただの男じゃない。あいつは、この街の地下に巣食う『井戸の神』の一部になろうとしている」
4
二人は暗い通路を奥へと進んだ。
辿り着いたのは、巨大な歯車がゆっくりと回り続ける、ドーム状の広間だった。
その中央に、一人の男が座っていた。
かつてのチョ・テシンよりも若々しく、しかしその瞳には、15年前のあの少年と同じ「永遠の虚無」を湛えた男。
「松井先生。遅かったじゃないか」
男は立ち上がり、ラジオ体操の音楽を小さなレコーダーで流し始めた。
「木村君の体、綺麗に舞っただろう? 彼は最後に、君に愛を伝えた。法を守って死ぬことが、最大の『儀式』だって」
「黙れ……」
松井のトカレフが火を吹いた。
弾丸は男の肩を貫いたが、男は苦痛を感じる様子もなく、ただ微笑んでいた。
「撃てば撃つほど、君はあちら側に近づく。警察官という皮を脱ぎ捨てて、ようやく僕と同じ『怪物』になれたね、松井浩亮」
松井は銃口を男の眉間に向け、引き金に指をかけた。
その時、パク刑事が松井の腕を掴んだ。
「待て、マツイ! 殺せば、お前は一生、あいつの影から逃げられなくなる!」
「構わない……。こいつを殺すためだけに、俺は今日まで生きてきたんだ!」
地下壕に、乾いた銃声が連発して響き渡る。
法を捨てた刑事と、時を超えて現れた悪魔。
1987年の松本、その地下深くで、二つの執念が火花を散らす。




