第8話:引き裂かれた正義
第8話:引き裂かれた正義
1
「松井さん、僕はあなたのやり方を信じています。科警研の分析だって、きっと何かに繋がりますよ」
そう言って笑っていたのは、新人の木村刑事だった。松井が韓国から帰任して以来、孤立しがちな彼を慕い、唯一「松井先生」ではなく「松井さん」と呼んで隣を歩いてくれた男だ。木村は、かつての松井が失ってしまった「真っ直ぐな正義感」を、そのまま体現したような青年だった。
その木村が、忽然と姿を消した。
署内での合同捜査会議の最中、「少し資料室へ行ってきます」と言い残したまま、彼は戻ってこなかった。資料室の床には、木村が愛用していたシャープペンシルと、そして——不吉なまでに鮮やかな**「赤いボタン」**が一つ、転がっていた。
2
「木村をどこへやった!」
松井は、誰もいない取調室で叫んだ。犯人から直接電話が来るはずだという確信があったからだ。
果たして、署内の内線電話が鳴った。外部からの転送ではない。警察署内のどこか、別の内線電話からだ。
『……先生。彼の心臓の音、聞いたことがあるかい? とても速くて、壊れそうな音がするよ。』
ボイスチェンジャー越しでも分かる、あの「声帯の歪み」。そして背後で聞こえる、巨大な時計の歯車が回るような——ギィ、ギィ、という金属音。
「木村に手を出すな。望みは何だ。金か、それとも俺の命か!」
『金? そんなものは、あの井戸の中にいくらでも沈んでいる。僕が欲しいのは、君の「絶望」だ。1986年の霧の夜、君が味わったあの味が忘れられなくてね。』
犯人は笑った。
『明日の朝、午前6時15分。松本駅前の広場にある大時計の下に、一人で来い。木村君の「中身」を返してあげるよ。』
3
翌朝、午前6時。松本駅前。
冬の訪れを予感させる冷たい霧が、広場を包んでいた。松井は本部長の制止を振り切り、拳銃だけを懐に忍ばせて、一人で大時計の前に立っていた。
定刻の6時15分。大時計が重厚な鐘の音を鳴らした。
その時、広場の端に止められていた一台の軽トラックの荷台から、何かがドサリと落ちた。
松井は駆け寄った。
そこにいたのは、口をガムテープで塞がれ、全身をロープで縛り上げられた木村だった。彼は生きていた。だが、その目は恐怖で血走り、何かを懸命に訴えようと激しく首を振っている。
「木村! 今助ける!」
松井が木村の縄を解こうとした、その時だった。
木村が着ているコートの胸元に目が止まった。
ボタンがすべて引きちぎられ、代わりに**「爆鳴弦」**に繋がったリード線が、いくつもの「赤いボタン」を介して彼の体に縫い付けられていた。
木村は爆弾にされていた。
4
『カチッ。』
広場のスピーカーから、あの電子音が鳴り響いた。
「逃げろ……松井さん、逃げて……!」
ガムテープを自ら引き剥がした木村が、血を吐くような声で叫んだ。
「馬鹿なことを言うな! 解体してやる、俺を信じろ!」
松井の手が震える。かつて韓国で見た、被害者の指爪の間の泥。救えなかったイ・ジヌ。そして今、目の前にある若き同僚の命。
爆弾のタイマーが、非情なデジタル数字を刻む。残り30秒。
その時、霧の向こうから、聞き覚えのあるメロディが聞こえてきた。
ノイズ混じりの、ラジオ体操第一。
「な……なぜ、この曲が……」
松井が硬直した瞬間、木村が最後の手で松井の胸を強く突き飛ばした。
「松井さんは、生きてあいつを捕まえてください! 先生の、あだ名を……返して……!」
「木村ーーー!!!」
激越な爆発音が、松本の朝の静寂を粉々に打ち砕いた。
爆風に吹き飛ばされ、アスファルトを転がる松井の視界に、空から降ってくる「赤い火花」と、そしてバラバラになった「黒いコートの破片」が映った。
炎の中で、松井は見終えた。
霧の向こう側に立つ、一人の男のシルエットを。
男は、あの日韓国の井戸の底にいたあの少年と同じように、静かに、優雅に、ラジオ体操の動きをトレースしていた。
松井浩亮の絶叫は、炎の中に飲み込まれていった。
守るべき仲間を失い、自らの「正義」が再び無残に踏みにじられた時、彼の刑事としての魂は、完全に「復讐鬼」へと変貌を遂げた。




