第7話:声の迷宮
第7話:声の迷宮
1
智志君の遺体が発見された翌日、松本警察署の取調室は、異様な熱気と、それとは対照的な冷たい沈黙に包まれていた。
松井は、何度も何度も、犯人からかかってきた電話の録音テープを再生していた。
『――智志君を預かっている。』
ザラついた音。背後で流れる微かな風の音。
松井は、当時の日本警察が持ちうる最新の技術を投入するよう、上層部に掛け合った。当時、日本で音声分析の権威とされていた東京の科学警察研究所(科警研)へ、録音テープのコピーが送られることになった。
「松井、無駄なことはやめろ。こんな不鮮明な音で何がわかる」
捜査本部のベテラン刑事たちは、松井の行動を冷ややかに見ていた。当時はまだ「声紋」という言葉さえ一般的には馴染みが薄く、捜査の主流はあくまで足を使った聞き込みと物証探しだったからだ。
だが、松井には確信があった。この声の主は、単にボイスチェンジャーを使っているのではない。もっと生理的な、喉の奥から絞り出すような「特有の歪み」がある。
2
三日後、科警研から中間報告が届いた。
松井は受話器を握りしめ、担当官の言葉を必死にメモした。
「松井さん、驚くべき結果が出ました。この犯人、意図的に声を低くしていますが、基本周波数に特殊な揺らぎがあります。これは、声帯に何らかの疾患があるか……あるいは、幼少期に激しい損傷を負った形跡がある声です」
「損傷?」
「ええ。それと、もう一つ。ノイズを除去して解析したところ、犯人の背後で、ごく微かに『金属が擦れるような音』と、断続的な『電子音』が聞こえます。これは公衆電話の受話器が擦れる音ではなく、もっと大きな……例えば、巨大な時計の歯車が回るような音です」
時計の歯車。
松井の脳裏に、第一部の最後、あの韓国の井戸の底で少年が語った言葉が蘇る。
——「時計塔に登るんだ」。
3
松井は、松本市内の時計塔や、古い大きな振り子時計がある場所を片っ端からリストアップし、聞き込みを始めた。
しかし、犯人は松井の動きをあざ笑うかのように、再び動いた。
被害者宅に、二通目の手紙が届いたのだ。
そこには、前回の智志君の遺体の写真とともに、こう記されていた。
『先生、音声分析の結果はどうだった? 1986年の霧の夜より、僕の声は綺麗になったかな。』
松井の手が震えた。
1986年の霧の夜。それは、松井が韓国の八つ足村で、最初の遺体を発見した夜のことだ。
犯人は、松井が科警研にテープを送ったことさえ知っている。警察内部に内通者がいるのか、それとも犯人自身が、警察の無線や通信を傍受する技術を持っているのか。
4
「松井、お前、あいつと知り合いなのか」
本部長の鋭い視線が松井を射抜いた。
手紙に書かれた「先生」という呼び名。そして、松井の過去を知る人物。捜査本部の疑念の矛先は、犯人ではなく、松井自身へと向き始めていた。
「違います。私はあいつを追っているだけです。あいつは……ずっと私を弄んでいるんです」
松井は、科警研から指摘された「金属の擦れる音」を頼りに、独断で松本市郊外にある古い時計工房の跡地へと向かった。
そこは、再開発から取り残された、草木に覆われた廃墟だった。
工房の奥へ足を踏み入れた松井は、そこで一台の古い、巨大な柱時計を見つける。
時計は止まっていた。しかし、その振り子の裏側に、小さな「赤いボタン」が、まるで心臓のように貼り付けられていた。
そして、そのボタンのすぐ下に、新たなメッセージが刻まれていた。
『次のターゲットは、君の一番近くにいる人だよ。松井先生。』
松井の脳裏に、真っ先に浮かんだのは、自分を日本に送り出し、あの時「赤いボタン」を託してくれた韓国のパク刑事の顔、そして……今、松本で共に捜査をしている、かつての自分のように青臭い若手刑事の姿だった。
松井浩亮は、自分が守るべき「法」と「仲間」が、目に見えない巨大な歯車に飲み込まれようとしている恐怖を、肌で感じていた。




