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そしてまた誰もいなくなった-松井浩亮の事件簿-  作者: 水前寺鯉太郎
第二部:松本誘拐殺人事件

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5/11

第5話:雨の公衆電話

第二部:松本誘拐殺人事件

第1話:雨の公衆電話

1

1987年、長野県松本市。

北アルプスの山々に囲まれたこの街は、韓国の農村のような血生臭さとは無縁の、静謐な空気に包まれていた。

松井浩亮は、長野県警松本警察署の捜査一課に配属されていた。ソウルでの凄惨な経験から、彼はどこか「死んだ目」をした刑事として同僚から浮いていたが、その仕事ぶりは正確で、執念深かった。

彼のデスクの引き出しには、今もあの「赤いボタン」が、小さな証拠品袋に入れられたまま眠っている。

「松井、出動だ。誘拐だぞ」

先輩刑事の声に、松井の背筋が凍りついた。

事件は、松本市内の小学校に通う9歳の少年・中川智志さとしが、放課後のサッカー教室の帰り道に、何者かに連れ去られたというものだった。

2

被害者宅に設置された逆探知装置。

重苦しい沈黙が続くリビングで、松井は泣き崩れる母親の傍らに立ち、受話器を見つめていた。

午後8時。不意に、ベルの音が鳴り響いた。

『――智志君を預かっている。』

ボイスチェンジャーを通したような、低く、感情の欠落した声だった。

「息子を……息子を返してください!」

父親の悲鳴に近い問いかけに、犯人は冷淡に告げる。

『明日、午前10時。松本城近くの公衆電話へ来い。一千万用意しろ。警察に言えば、この子の命はない。』

電話はわずか20秒で切れた。逆探知には成功しなかった。

松井は、その犯人の声のトーンに、言いようのない既視感を覚えていた。

(この落ち着き……、この喋り方……どこかで聞いたことがある)

3

翌朝、松本市内の公衆電話。

松井は工事作業員に変装し、離れた場所から父親の様子を監視していた。

犯人は、まるで警察の動きを完全に把握しているかのように、父親を次から次へと別の公衆電話へ移動させた。

「次は信州大学の正門前だ」「次は松本駅の東口だ」

振り回される警察。松井は、犯人の意図が単なる金の受け渡しではないことに気づき始めていた。

これは、ゲームだ。

警察を弄び、その無力さを嘲笑うための、残酷な劇場型犯罪。

「松井さん、犯人から新しい指示です!『指定の橋から金を落とせ』と!」

若手刑事が無線で叫ぶ。

松井は、指定された橋へと急行した。

しかし、そこで彼が見たのは、川の激流の中に消えていく一千万の入ったバッグと、橋の欄干に貼り付けられた一通の手紙だった。

そこには、子供のような拙い字で、こう記されていた。

『先生、あそぼう。あの井戸の底で待ってるよ。』

4

松井の心臓が激しく脈打った。

「先生」……あの韓国の駄菓子屋で出会った、あの少年。

そして、「井戸」。

松井は本能的に、松本市外縁にある古い寺の跡地へと走った。そこには、今は使われていない枯れ井戸がある。

冷たい雨が降り始める中、松井は井戸の底をライトで照らした。

そこには、まだ温かさの残る小さな体があった。

9歳の智志君だった。

死因は窒息死。

しかし、遺体の状況を見た松井は、その場で膝から崩れ落ちた。

少年の口には、韓国の事件と同じように、付近に生えていた「野草」が詰め込まれていたのだ。

そして、遺体の首筋には、あの日韓国で紛失したはずの、**「もう一つの赤いボタン」**が、接着剤で直接貼り付けられていた。

「……チョ・テシン」

松井の呻き声が、雨音にかき消される。

犯人は日本にいた。あるいは、海を超えて松井を追ってきたのか。

1987年の松本。平和な地方都市は、一人の刑事が背負ってきた「過去の魔物」によって、血の惨劇へと塗り替えられていく。

松井浩亮の、終わりのない戦いの第二幕が、今、始まった。

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