第12話:深淵の法廷-罪と罰の境界線-
第12話:深淵の法廷 ―罪と罰の境界線―
1
古井戸の底。そこは、物理法則が意味をなさない、記憶と砂が渦巻く異空間だった。
巨大な時計の歯車が空を覆い、背景では絶え間なく、あの歪んだラジオ体操のメロディが逆再生で流れている。
中央には、裁判所の法廷を模したような、石造りの壇上があった。
そこには、かつての農村の地主であり、誘拐犯であり、そして街の繁栄を司る「神」を自称する存在——チョ・テシンの思念が、巨大な影となって座っていた。
「山下はじめ。そして、死に損ないの松井浩亮。……法など存在しないこの場所で、何を聞こうというのか」
影の周りには、15年前に消えた5人の少年たちが、青い砂を吐き出しながら歯車を回し続ける「部品」として繋がれていた。その中には、若くして命を散らした木村刑事の姿も、半透明な幻影となって混じっている。
松井はトカレフを影に向け、冷たく言い放った。
「裁きに来たのではない。お前との『契約』を、根底から覆しに来たんだ」
2
山下はじめは、泥にまみれた六法全書を開いた。
周囲を漂う無数の「死者の耳」が、はじめの言葉を待っている。
「被告、チョ・テシン。あるいはこの街の『深淵』そのものよ。私は弁護士として、この街と貴殿との間に結ばれた『繁栄の対価としての児童供犠契約』の公序良俗違反による無効を宣言する!」
はじめの声が、空間を震わせた。
「民法第90条。公の秩序または善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。……他人の、それも抵抗する術のない子供の『時間』を奪い、それを資産に変える契約など、この世の、そしてあの世のいかなる法においても成立し得ない!」
影が嘲笑う。
「無効だと? この街の住人たちは、自ら望んで私に子供を差し出してきた。豊かな暮らし、高い地位、平和な家庭。彼らは皆、私の『共犯者』だ。合意の上での契約に、部外者が口を挟むな」
3
「合意ではない! 搾取だ!」
はじめは、松井が命がけで持ち帰った、そしてソヨンの父から奪った「裏帳簿」を高く掲げた。
「この帳簿には、契約の『瑕疵』が記されている。貴殿は住人たちに、子供は『神隠し』に遭ったと偽った。だが実際には、彼らを殺さず、15年間も『生きた時計の部品』として酷使し続けた。これは契約内容の重大な不実表示であり、住人たち、そして犠牲になった子供たちへの欺罔行為にあたる!」
はじめの弁論に呼応するように、松井が赤いボタンを投げつけた。
ボタンは空中で光を放ち、少年たちを縛り付けていた青い砂の鎖を焼き切っていく。
「さらに!」
はじめは一歩踏み出した。
「私は、15年前に消えた5人の少年たち、そして木村刑事、ジフン君。すべての犠牲者の『特別代理人』としてここに立つ。彼らはこの契約に署名していない! 当事者の同意なき契約で、その人生を拘束することは、全宇宙の法理に対する反逆だ!」
4
「黙れえええ!」
影が絶叫し、巨大な歯車が松井とはじめを押し潰そうと降り注ぐ。
松井はトカレフを連射し、瓦礫を弾き飛ばした。
「山下! 続けろ! 理屈でこいつの存在理由を消し去るんだ!」
「判決を言い渡す!」
はじめは、六法全書を石の床に叩きつけた。
「被告、チョ・テシン。貴殿の存在基盤である『契約』はたった今、失効した。よって、貴殿がこれまで街から奪ってきた『時間』、およびそれによって得た『資産』のすべては、直ちに本来の所有者に返還されるべきである!」
その瞬間、法廷の背景にあった豪華な宮殿や、街の偽りの高層ビルの幻影が、一斉に砂となって崩れ始めた。
チョ・テシンの巨大な影も、実体を保てなくなり、苦悶に悶える。
「馬鹿な……契約が解ければ、この街の繁栄も、便利さも、すべて消えてなくなるのだぞ! 住人たちがそれを許すと思うか!」
「構わない!」
はじめは叫んだ。
「痛みを伴わない成長などない。子供の命で買った平和など、最初から誰も欲してはいなかったんだ!」
5
井戸の底に、本物の太陽の光が差し込んできた。
松井が銃口を、消えゆく影の眉間に突きつける。
「チョ・テシン。お前には死すら生ぬるい。……だが、俺の相棒だった木村が、お前を地獄の門まで連れて行きたいと言っている」
松井の背後に、木村刑事の幻影が、かつての若々しい笑顔で立っていた。木村の手が、影の腕を掴む。
「行きましょう、おじさん。あちら側には、あなたが『席』を数え間違えた分だけの子供たちが、怒って待っていますよ」
「……あ、あああぁぁぁ!」
凄まじい光とともに、チョ・テシンの影は井戸の底のさらに奥、真の虚無へと吸い込まれていった。
同時に、15年間歯車を回し続けてきた5人の少年たちの姿が、本来の「11歳の姿」に戻り、光に包まれて空へと昇っていく。
「……先生。ありがとう」
最後に、織田太郎に似た少年が松井に一礼し、消えた。
エピローグ:終わりの後の、始まり
地上に戻った山下はじめが見たのは、もはや「奇跡の繁栄」を誇った街の姿ではなかった。
豪華な商業ビルは古び、最新のインフラは停止した。人々は自分たちが何を失い、何を守らねばならなかったのかを思い出し、愕然として立ち尽くしていた。
だが、そこには絶望だけではなかった。
公園では、消えていたはずの子供たちが、家族の元へ、あの日と同じ姿で戻ってきていた。15年の時を超えた、奇跡の再会。
松井浩亮の姿は、いつの間にかどこにもなかった。
ただ、井戸の跡地には、一丁の使い古されたトカレフと、そして汚れ一つない「赤いボタン」が二つ、寄り添うように置かれていた。
はじめの隣には、ソヨンが立っていた。
彼女は空を見上げ、晴れやかな顔で言った。
「山下先生。……ラジオ体操の音楽、もう聞こえないね」
「ああ。これからは、自分たちの足で歩いていく時間だ」
はじめは、破れた六法全書を鞄にしまった。
法は万能ではない。しかし、誰かが叫び続けなければ、真実は砂に埋もれてしまう。
彼は、一人の弁護士として、そして一人の人間として、新しく動き出したこの残酷で愛おしい世界を、一歩ずつ歩き始めた。
遠くで、本物のカラスが鳴いた。
それは、ようやく訪れた、あまりに平凡で、あまりに尊い「夏休みの終わり」だった。




