王子が倉庫で腐っちゃう……
夜会の会場に集まった貴族たち。
豪華なシャンデリア。
その下で華やかな音楽に耳を傾けながら、皆がワインや軽食を楽しむ。
舞踏会さながらに華麗なドレスやタキシードが行き交う。
美しい笑顔と軽妙な笑い声があふれている……はずだった。
しかし、ある一角では空気が重苦しく、会場全体から視線が集中している。
場所は中央の広間。
そこに立つのは『悪役令嬢』と呼ばれる公爵令嬢、リリス・ヴォルテクス。
そして彼女に向かい合うのは、この国の第一王子アレクシス・ドラクール。
その横には、儚げな笑顔を浮かべる伯爵令嬢ステラ・ロワーヌ。
アレクシス王子の大きな声が、夜会に集まる面々の耳に突き刺さる。
「リリス・ヴォルテクス! お前との婚約は、今夜限りで破棄させてもらう!」
その宣言に、周囲にいた貴族たちの表情が一気に凍り付く。
ごくり、と唾を飲み込む音すら響きそうなほど、会場が静寂に包まれた。
リリスは深紅のドレスの裾を軽く揺らし、凜とした姿勢を崩さない。
騒然とする周囲をよそに、ほんの少し驚いたように目を瞬かせた。
「そして!」
王子はさらに高らかに声を張り上げる。
「ステラ・ロワーヌと正式に婚約を結ぶことをここに誓う! ステラのような高潔で美しい令嬢こそ、このアレクシス・ドラクールにふさわしいのだ!」
この宣言に、ステラは恥じらうように頬を染め、かすかに首を振る。
しかし、その頬の紅潮とは裏腹に、夜会の参加者たちは青ざめるばかりだった。
ざわつきが再び広がっては消える。
まるでこれから起こることを恐れているかのように、誰もが口をつぐむ。
リリスは視線を会場中に走らせる。
みなが怯えを含んだ視線を送り返してくるのを確認する。
そして恐る恐る、アレクシスに問いかける。
「え、それ本気で言っているの? ……っていうか、大丈夫なの? ちゃんと周囲の人間に相談したの?」
尋ねるリリスの声は淡々としている。
しかし、会場の者はひとり、またひとりと血の気が引く。
アレクシスはその様子を理解していない。
リリスの言葉に反発するかのように声を荒らげる。
「なにを言う! お前が『悪役令嬢』などと呼ばれているのは周知の事実! そんな女と婚約を続けられるわけがないだろう!」
リリスは短く息をつき、わずかに視線を落とす。
彼女の表情から、どことなく困惑と諦めのようなものがうかがえた。
「そ、そう…… あなたの耳に『悪役』という噂が入っているなら、それは否定しないわ。……無能だと思って放置してたけど、まさかここまで考えなしだとはね。起こってしまったことは仕方ない……わかったわ」
そう言うと、リリスはぱっと背を向け、踵を返す。
会場の隅々まで冷気が漂っているのがわかるほど、凍りついた静寂。
そんな中、彼女のハイヒールの音だけが高らかに響いた。
◇◇◇◇
翌朝、王都は一変していた。
いつもなら朝早くから喧騒と活気にあふれる商店街。
しかし、今日はどの店もシャッターを下ろし、人気はまるでない。
市場も閑散どころか人影すらなく、籠もったまま扉さえ開けぬ家々ばかり。
まるで一夜にしてゴーストタウンと化してしまったかのような光景だった。
ところが、その中をただ一台、急いだ様子で進む立派な馬車があった。
馬車には王家の紋章が入っており、御者は必死に鞭をしならせている。
目指す先は、王都の外れに佇むヴォルテクス公爵家の屋敷。
――すなわちリリスの居城である。
王都から少し離れた位置にある館に、国王の乗った馬車は音を立てて滑り込んだ。
「ヴォルテクス公爵令嬢……いえ、リリス様!」
王の執事が慌ただしく扉を開け、国王を先導する。
国王は小走りでリリスの待つ応接室へと通される。
そこにはすでにお茶を用意して待ち構えているリリスの姿があった。
上質な椅子に腰かけ、まるで何事もないかのように淡い香りの紅茶を口に運んでいる。
王は気まずそうに一度うつむき、そして深々と頭を下げた。
「この度は、王家からばかばかしい提案をした者がおり、まことに申し訳ございません……」
リリスはすっとカップを置くと、少し困ったような表情で首をかしげる。
「まあ……確かに、ちょっと困ってるのよね。どんな理由にせよ、こんなことになっちゃうと、商売にも影響が出るし」
淡々と口にするリリスだが、その『商売』という言葉に国王が身震いした。
国王の視線には、冷や汗が光っている。
「あなた様が、世界中の暴力組織や物流などを支配していらっしゃることは、もちろん承知しております……」
恐る恐る口にする王の言葉に、リリスは少しばかり嘆息混じりにうなずいた。
「まあ、表沙汰にはなっていないでしょうけど、だいたい王国貴族はみんな知っていたんじゃないかしら。私が『悪役令嬢』なんて呼ばれているのも、その噂が元でしょうしね」
そう言って肩をすくめると、国王はうろたえた様子で首を何度も縦に振る。
「そうなのです……。なのに、よりにもよって私の息子であるアレクシスが、あなた様を侮辱するような真似を……本当に面目ございません」
王の声は震えている。それを受け、リリスは少し思案げに眉をひそめた。
「うーん、こちらとしても、どうしたものかと思ってるの。……今回の件で私の部下が自主的に動いちゃって、結果的に『王都の機能を全部止めちゃった』わけだし」
リリスはあくまで冷静に、事実を述べるように言う。
それでいて、その一言一言に国王が怯えを含んだ姿勢を示すのは否めなかった。
◇◇◇◇
「どうか……どうかお怒りを鎮めていただけますよう……!」
土下座をしながら訴える国王。
その背後から、妙に重そうな台車がゴロゴロと引かれてくる。
上質な絨毯の敷かれた応接室の中央まで運ばれると、台車の上には見覚えのある姿があった。
「……なにこれ?」
リリスは怪訝そうに首をかしげ、王と台車を見比べる。
台車の上には、まさに土下座の姿勢で固定されたアレクシス王子の姿。
両手足は魔力による拘束具でがっちりと固められる。
そして、口には声が出せないよう施された魔刻印が見える。
王は必死に額を床に擦りつけながら、説明を始めた。
「あなた様に逆らわず、謝罪だけを続ける『置物』を捧げます。今や声帯を魔法で封じておりますので、耳障りな言葉を発することもないでしょう……」
その場にいる侍従たちも。
まるで失敗作の工芸品でも扱うようにアレクシス王子の周囲を取り囲んだ。
リリスは冷ややかな目つきでその光景を見つめる。
「……悪趣味ね。そんなの、誰が欲しがるっていうのよ。置き物にするなら、もっと可愛い彫像でも作ったら?」
吐き捨てるように言うリリスの言葉に、王は平伏を解こうとしない。
「どうか……どうかこれで、あなた様のお気持ちが少しでも晴れるのであれば……」
「だから、怒ってないのよね」
リリスは軽く手をひらひらさせて否定する。
王は思わず顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになりかけた表情を見せる。
リリスが構わずに続けた。
「正直言って、私も困ってるの。部下が勝手に都市機能を全部止めてしまったのよ。うちは裏の商売で『面子』がすごく大事だから、こういう侮辱を許すわけにはいかないってことでしょうね。……でも私自身はそこまで怒ってるわけじゃないの」
「は、はあ……!」
「だから、これから私のほうで『たいして怒ってない』っていうのを、国内外に向けて示さなければならない。穏便に済ませる方向で考えておくから、少し時間をちょうだい」
国王は目を見張り、そして再び深く頭を下げる。
「ありがとうございます! ありがとうございます……重ねてお詫び申し上げます……!」
国王が感涙にむせびながら退出していく。
広い応接室にはリリスと土下座状態のままのアレクシスだけが残された。
リリスはため息をつき、ソファに深く腰掛ける。
そして遠目に、台車の上で動かないアレクシスを一瞥した。
(世界を跨ぐ裏組織の資本が巨大になりすぎたせいで、表の社会に資金を還元する必要があった。だから、故郷であるこの王国の王族と婚姻関係を結んで、資金を横流しする計画だったのに……上手くいかないなあ……)
そう心の中で嘆息するリリス。
だが、当初の計画が崩れた今、どう立ち回ればよいかを考えるのが先決だ。
とりあえず、再び正常な流通を取り戻さなければ、自分たちの商売にも支障が出る。
「……面倒になってきたわね」
リリスは手近なサイドテーブルに積まれていた書類を確認し始める。
そこでいったん思考を切り替え、策を練ろうとしていた。
そこへ、メイドがコーヒーを運んできた。
銀のトレーから立ち上る香りは濃厚で、幾分かリリスの気分を落ち着けるように思える。
しかし、メイドがリリスの脇を通り過ぎようとしたとき。
転がる台車の車輪に足を取られそうになり、危うくつんのめるところだった。
「あ……失礼いたしますっ!」
慌てて姿勢を立て直すメイド。
リリスはアレクシスを見もせず、書類を見たまま興味もなさそうに言い放つ。
「それ、邪魔だから倉庫にでも片づけておいて」
「か、かしこまりました……」
メイドは困惑しながらも命令に従う。
台車を押し、土下座状態の王子をそのまま倉庫へと運び出そうとする。
生身の人間をゴロゴロと運ばれる光景はシュールさを漂わせていた。
やがてアレクシスの姿が部屋から消えると、リリスは再び思案する。
指先で何度か書類の端をめくりながら、眉間にはうっすらと皺が寄っている。
どうすれば国を立てつつ、自分の部下たちにも納得してもらい、かつ各国の目にも『仲直り』を演出できるのか――頭が痛い問題だ。
「さて……どうやって軟着陸させようかしらね。やれやれ」
そう独りごちた時だった。
メイドが戻ってきた足音を耳にし、リリスは頭の中で方法を組み立てる。
しかし、突然ハッとした顔をして、わずかに目を見開いた。
「……あ、やばい。あれナマモノじゃん! 倉庫で腐っちゃう!」
リリスのその言葉だけが、広い応接室に虚空を切るように響いた。