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「お帰り、あやね。……大丈夫だよ、あの人、怒ってなかったから」
一瞬、なにを言っているのか意味が分からなかった。
怒ってなかったから大丈夫? なにが?
朝方まで一人でパジャマで外をほっつき歩いてた娘に、それが最初にかける言葉?
「でも、後ろ頭をぶつけて少しけがしたみたいだから、謝らないとね。一応病院行くって言ってたよ」
謝る? 誰が? 誰に?
「あやねももう高校生でしょう。そういうことはきちんとしないと」
そういうこと? ってどういうこと? きちんと?
ああ。ああ、くそ。
殴ればよかった。逃げたりせずに、あの女を拳でぶん殴ってやればよかった。足の裏で顔面を蹴り抜くべきだった。
あたしの正しさを証明するために、暴力を見せるべきだった。
それができないことが、今、あたしを負け犬にしてる。
頭の中に、どう考えても親に言っちゃいけないだろうなって言葉が無限に湧き出てきて、そのせいで脳みそが洪水で、ものを考える余裕がない。
だから、いきなり言われた次の言葉で、混乱を通り越して頭の回転が完全に止まった。
「大丈夫だよ、郷さんはいい人だから」
いい人の部分は世迷言なので気にも留まらない。
郷。
……郷?
なんでそこに、郷が出てくるの?
「……なんでそこに、郷が出てくるの?」
停止したあたしの頭を通ることなく、込み上げた言葉はそのまま口から出てしまった。
「なんでって、カヨコさんの苗字だよ。郷佳代子さん」
数時間前のあの女のだみ声が耳の奥でよみがえる。娘がいる。真面目な。
郷佳代子。郷。あたしの母親と同年代の女、その娘。郷……
嘘だろう。
やめてくれ。
■
朝一番、昇降口でピースをした水色の髪の先輩殿が、誇らしげにあたしに言ってきた。
「赤坂、私に『七位』ができた」
「……全然聞きたくない話ですけど、今はユズ先輩の存在がむしろありがたいっす」
ユズ先輩のスカートは、あの屋上の時よりも長くなってる。ていうか、普段人目のある場所ではこの長さなのだ。ここ一番で気合を入れれば入れるほど、丈が短くなるらしい。
じゃああの日は、先輩なりにかなりガチだったんだな。ありがたいような、そうでもないような。
「なんか大変みたいだな、お前」
「どうも。でもあたしより、全然大変なやつがいまして」
あの最悪の夜から、一週間。
当然あたしは、あの中年女に謝ってなんかいない。
というかあの女のほうがそれどころじゃない。
この地域では一応進学校のうちの高校、そこでぶっちぎり一番頭がいい女、里聖。
その母親が、娘の同級生の家に夜中に入り込んで、手を出した。
大して広くもない街で、そんな噂はあっという間に広まったのだ。
どうも頭を見てもらった病院で、酔っ払ってた母親本人が、待合室から医者から看護師から、べらべらしゃべったらしい。
そこから今ではこの街のトップニュースだ。超ローカルの。
学校でもなかなかの騒ぎになったおかげで、あたしは、周りの有象無象にさんざんひそひそ指を差されたものの、あの女にまったくする気のない謝罪をせずに逃げ延びられてた。
そう、逃げられてないのは、あたしじゃなかった。
あれから、郷は学校に来てない。
ユズ先輩がため息をついた。
「赤坂のクラスのゲスども、例の五人、大喜びらしいな」
「もう、あることないこと広めまくってるから収拾できないです。ウラも取らずになんでも信じちゃ面白おかしく拡散しやがって、あいつら文春信者か」
「それなんだ気に入ってんのか」
「先輩が言ってたんじゃないですか」
そうだっけ、と頭をかくユズ先輩の横を、二年生の女子が通り過ぎざまに目配せしてきた。
先輩がにっこり笑って手を振る。ああ、あれ確か「二位」だ。久しぶりに見た。
「お前、どうせ授業中寝てんなら屋上行く? 今日はなんもしないどいてやるけど。曇ってるし、布で屋根作れば結構涼しいぞ」
「そうしようかな。出席は足りてるんで。暑かったら戻ります」
「はいよ。これ鍵」
「ありがとです。……先輩」
「ん?」
「あたしも、郷も、なんにも悪いことしてないと思うんですよ」
「聞いてる限りじゃそうだな」
「なのに、なんでこんな目にあってんですかね」
確かにあの中年女には、あたしはまだ頭を下げずに済んでる。
でもあたしの母親は、「そういうことをきちんとするまで」はあたしを許さないらしくて、家ではろくに口もきいてこない。きちんと。くそが。
学校よりも、あの家は居心地が悪い。
あそこは、母親の家なんだってことを改めて思い知らされる。
あたしの家は、あたしのものじゃない。あたしの居場所であってくれない。
落ち着くのは、母親が出かけて電気が消えた家の中だけだ。
郷は、それこそなにも悪くなんかない。
ただちゃんと――きちんと、か?――学生をやってただけだ。
家で郷がどんなふうなのかは知らない。でもちゃんとした学生の郷にとって、学校は確かにあいつの居場所だったはずだ。
それを今、郷は奪われてる。
「くそ……」
「お前大丈夫か、赤坂?」