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高一の夏、放課後。
スマホに入ったメッセージ一つでノコノコと呼び出されて来たあたしは、校舎の屋上に出た。
あたしのライトブラウンの長い髪が、全然揺れない。全然風がない。
四階建ての建物のてっぺんの気温は、七月上旬っていう季節に従順で、そのまま地面に飛び降りたくなるくらいに暑かった。
一人のクラスメイトの顔が、頭の中に浮かぶ。「意味が分からない。飛び降りたら涼しくなるの?」とか、つまんないこと言うんだろうな、あいつ。暑いから飛び降りたいんじゃなくて、飛び降りたいから飛び降りたいんだっていうくらいの簡単なことが、優等生には分からないんだ。
屋上の真ん中に、二年のユズ先輩が立ってた。宇都宮柚子。水色のショートヘアに、爆弾みたいな大きなピアス。この暑いのに、屋上の本当にど真ん中にいる。真っ黒な小さい影を足元に落として、だらだらと汗をかいていた。制汗しない派らしい。
ユズ先輩の、あれもしかしてちょっと大きめのハンカチなんじゃないかってくらい短いスカートは、やっぱり風がないのでそよとも揺れてない。ていうかあの丈は、普通に歩くだけでもちょっとやばい。あたしもスカートは短いけど、この人のそれは斜め下からの防御力がほぼゼロだ。
くそ暑い中、ユズ先輩は一人でふんぞり返ってる。
この辺ではギリギリ進学校扱いされてるうちの高校で、この人は結構浮いていた。そのせいで人気者でもあるのだが。
「ユズさん、ばかっぽいですよ」
「お前よりましだよ。先輩って呼べ。なんでお前、約束の時間に必ず五分遅れてくるの」
ユズ先輩は遠い間合いから、でっかい声で言ってきた。
「約束っていうか、一方的に、しかも三十分前に言われただけじゃ」
「うるさい。いいからこっち来い」
たまに、あたしたちはなんで会話が成立してるのか分からなくなる時がある。いや、成立していると思ってるのが間違いなのかもしれない。
「赤坂さあ、今つき合ってる人いんの」
「いないっす」
ユズ先輩がつかつかとあたしのほうに歩いてきた。そっちから来るんかい。
あたしの目の前で立ち止まったユズ先輩は、思いっきりあたしの両目を睨みつけながら言ってきた。
「じゃあ私とつき合えよ」
「無理っす」
「なんで」
「ユズ先輩は彼女いるじゃないですか」
そうなのだ、この女は、ろくでなしで有名なのに、人気者を通り越してなぜかもてる。
「いたら悪いのか。法律で、二人の女とつき合っちゃだめって決まってんのか?」
「ユズさん、今彼女一人でしたっけ」
「六人」
「二人じゃないし。六股のうち、三人くらいは名前と顔一致するんだけどなあ。ていうかいつも思うんですけど、彼女ですかそれ?」
「真人間風に難癖つけてんじゃねえよ。文春かお前」
「読んでんですか。あたし売ってるところも知らな――」
そこで、胸倉をつかまれた。ブラウスの生地が引きつれて、身動きがとれなくなる。どうして制服って、こんなになにもかもが不自由にできてるんだろう。
あたしがここにいるのも、考えてみれば不自由だ。話したくない人から一方的にかかってきて長電話されるのと同じ。
そんなどうでもいいことを考えた隙に、キスされた。
知り合いじゃこの人しか吸ってない、外国製のタバコのにおい。ユズ先輩と初めて校外で出くわしたシーシャバーのにおいとも違う。紙巻きだ。すえたような、他人への悪意の塊が空気中で弾けたみたいな、これを紫煙とかかっこいいふうに呼んでるやつあほじゃないかと思える、ひどいにおい。
それと、ちょっとだけ鉄錆のにおい。
先輩の胸に肘を押し当てて、無理矢理に引きはがした。
屋上の床に、ぺっと唾を吐く。
「お前、屋上を汚すんじゃねえよ」
「ユズさんこそ、あたしを汚すんじゃねえよ。なんか血の味するし。今日、ユズさんの左のほっぺたちょっと腫れてると思った。けんかですか? どうせ痴話げんかでしょ?」
「四位が一位に生意気な口きいたから、ひっぱたいてやったんだよ。そしたら四位のくせにグーで顔殴ってきやがった」
「反乱されてるじゃないですか。ていうか一応彼女なら、順位で呼ぶのやめろよ」
この人の言うひっぱたいたは、殴る蹴るのことだ。たぶん、最後には「四位」を、「彼女」全員で袋叩きにしたんだろう。
正直に言えば、ユズ先輩に惹かれるものはあった。あたしにないものをたくさん持っているのも、そのくせ欠けたところがめちゃくちゃに多いのも、この人の魅力だった。
不完全なほど自由になれる。この人は、だから女にもてる。一応学生なら、一番勉強ができるやつが一番もててよさそうなのにそうはいかない。そういうわけの分かんなさが、確かにあたしたちにはある。
この前一度ユズ先輩の家に呼ばれた時は、部屋で二人っきりになってごろごろして、ちょっと体験したことがないくらい居心地がよくて、もう七位でもいいから好きにしてもらおうかなって気分にもなった。でも、こっそり飲み物に酒を混ぜられていたことに気づいて、ここは気分で流されていい場面じゃないって気づいて無理矢理帰った。
それ以来、ちょっとユズ先輩から執着されてる。でもたぶん、あたしが屈服したら、この人はあたしに興味をなくすんだろうなってことも分かる。
「赤坂あやね。お前がかわいいのって、たぶん彼女にするまでなんだろうな」
ほらな。
「なんか凄く失礼なこと言われてるのは分かるんで、ていうかさっきのキスなにげに屈辱的なんで、顔叩いてもいいですか」
「お、私を? やれるも」
ユズ先輩の言葉の途中で、平手で左頬を殴ってやった。
優しい人なら、腫れてる左頬は避けたのかもしれない。でもあたしは優しくないので、叩くならせっかくだから腫れてるほうでしょ、という考え方だ。まあ、優しい人ならそもそも人の顔を叩かないのかもしれない。
「じゃあ、そういうことで。あのですね、どんなに下に見てるやつが相手でも、尊厳を踏みつけにされると怒られるらしいですよ」
なにがソンゲンだと自分で自分に突っ込みながら振り向いて、屋上を出る。
階段を降りながら、背中まで伸ばした髪をつまんで鼻の前に持ってきて、においをかいだ。あれくらいでタバコのにおいが移りはしないだろうけど、念のため。
あたしの髪は、これくらいの長さが、ぱさぱさにならないギリギリ。あたしのかわいいの限界値。かわいくないあたしは常にそこにいたい。
ああそれにしてもくそが。
あたしのファーストキスはタバコと、血の味かよ。しかも六股女の、痴話げんかのせいでの。
「あ、赤坂さん」
四階――うちの校舎の最上階だ――の廊下を歩いてたら、聞き覚えのある声が後ろから聞こえた。