兄は危機感が足りない
大学生だった三人兄弟の末の弟が、今年の春社会人になった。四月から社員寮に入った直哉が、お盆休みに帰って来て早々家族に言ったのが、「寮に幽霊が出る」だった。
直接見たわけではないそうだ。ただ、机の上にちゃんと置いていたはずの本が朝見ると床に落ちていたり、一人部屋なのに寝ていると部屋の中で足音がしたり、誰もいないのに突然視線を感じたりらしい。
「寝ぼけて本を落としたとか、何かの音を足音と思ってるだけだろ?」
けらけら笑いながら「お前は本当に怖がりだなあ」と一番上の兄が言った。父も母も弟の話を信じている様子はなく、笑いながらお昼ご飯の焼きそばを食べている。そんな光景を見ながら、おれは怖がりなので怖い話が早く終わることばかりを願っていた。
子どもの頃から、怖がりなおれや直哉と違い、一番上の兄は幽霊が怖くないらしい。信じていないわけではないようなのだが、本人曰く、「不思議だけど何が怖いのかがわからない」そうだ。
「そういえば、不思議な話で思い出したんだけどさ」
絶対に気のせいじゃないし寝ぼけてなかったと主張する直哉を見て、兄は何かを思い出したようだった。
「なあ、知希、あれって誰だったんだろう?」
いきなり兄に話を振られ、おれは驚いて「いやいや、誰って言われても。何の話?」と聞き返す。
「あ、ごめんごめん。そうかあれはおれしか見てないのか」
兄は、そうだったそうだったと懐かしそうに笑ってから、のんびりと話し始めた。
おれがたぶん六歳だった時だから、もう二十年以上前になるのか。直哉はまだ生まれてなかったな。
家で留守番してたんだよ、知希と二人で。なんで留守番をしてたのかは覚えてないけど、テレビを見たり、おもちゃで遊んだりして母さんの帰りを待ってたんだ。
そろそろテレビもおもちゃも飽きてきたなって時に、インターフォンが鳴ったんだよ。それで、玄関に向かったらドアの外から母さんの声がしたんだ。
「ただいま。今、手がいっぱいで鍵が開けられないから、開けてくれないかな?」
いつもなら母さんは自分で鍵を開けるから、よっぽど荷物がいっぱいなんだと思って、おれは急いで鍵を開けようと手を伸ばしたんだ。そしたらさ、いきなり後ろから「やめて!」って大きな声で怒鳴られたんだ。
びっくりして体がビクンってなったのをよく覚えてるよ。心臓をバクバクさせながら振り向いたら、おれから2メートルぐらい後ろ、廊下の真ん中に立った知希がすごい形相でおれを睨んでいて、「絶対にドアを開けないで」って言ったんだよ。
え? いや、まあ、そんなの覚えてないって言われても困るんだけど、とにかくおれは怒鳴られたんだ。でも、ドアの向こうでは母さんが「早く開けてー」って言ってるしさ、困ったおれは知希にごめんって言ってドアを開けたんだ。
「もう、そこにいたなら早く開けてよ。冷凍食品が安かったからいっぱい買ったんだけど、こんな時に限って家まで後少しってところで知希が寝ちゃって大変だったのよ」
いい子にしてた? なんて言いながら家に入ってきた母さんは、右手で寝てる知希を抱っこして、左手に大きなレジ袋を二つ持ってたんだ。
そう、おれの後ろにいたはずの知希が何故か母さんと一緒にいたんだ。
おれ、すぐに振り向いたんだけど、廊下にいた知希の姿はなくなってた。意味がわからなくてさ、おれ、知希と一緒に留守番してたよねって母さんに聞いたら「そんなわけないじゃない、あんた、見たいテレビがあるからって一人で留守番してたでしょ」って言われたんだ。なに寝ぼけてるのよって。
あれは本当にびっくりしたなあ。それ以降同じようなことはなかったけど、おれが一緒に留守番してた知希は誰だったんだろうな。
「あー、そう言えばそんなことあったわね。裕介がなんだか変なこと言ってるなあと思ったのよ」
変な話よねえと不思議がりながらも、どこか懐かしそうな顔をする母。その横で父は兄の話を気に留めることもなく、黙々と焼きそばを食べ続けている。
「なにか覚えてるか?」
「いやいや、覚えてないって。そもそもおれは母さんと買い物に行ってて、しかも寝てたんだろ? 無理無理、何も覚えてない」
兄は「そっか、あれは誰だったんだろうなー」と言いつつ焼きそばを食べ始め、その横で直哉は怖い話を聞いたからか、どこかげんなりとしている。わかるぞ、おれも今同じ気持ちだから。
明るい時間でも怖い話を聞くのは嫌だな、なんて思いながら焼きそばを口に含んだ時、インターフォンの音が部屋に響く。おれが一番廊下に近いところに座っていたので、出てくると言い残して玄関に向かった。
「ただいまー、遅くなってごめんね。スーパーの周りが渋滞してて遅くなっちゃった。荷物が多いから鍵開けてくれない?」
玄関に着いた時、足音で気がついたのか外から声が聞こえた。声はさっきまで一緒に焼きそばを食べていたはずの母の声だった。
そこではたと思い出した。一時間ほど前、冷蔵庫が空っぽだったから買い出しに行ってくると母に言われたんだ。たしか車で父と買い物に行ったはずだ。
しかも、母たちが家を出る少し前、直哉から電車が遅延していて家に着くのが昼過ぎになりそうだと連絡があったと父から聞いた。人身事故の影響で電車が完全に止まっているそうだ。
「ちょっと、買い物しすぎて父さんも母さんも鍵が出せないの。誰かそこにいるなら早く開けてー」
外からは母の声。それを疑う余地はない。
さっきの兄の話を思い出す。兄はおれと一緒にずっと家にいたはず。じゃあ、いつから他の三人は家の中にいた? 記憶を辿るが、たった一時間の間のことなのに何も思い出せない。
急いでドアを開けようと手を伸ばすが、ふと一抹の不安が過ぎる。今ドアを開けると、ダイニングにいる兄はどうなる? ドアに触れかけた手を慌てて引っ込める。
何が最善なのかがわからない。ダイニングからは楽しそうに話す兄の声が聞こえ、ドアの向こうには荷物を持ってドアが開くのを待つ父と母がいる。
こうなったらなるようになれ。おれは覚悟を決めてドアに手を伸ばす。
「開けちゃったね」
鍵を開けた時、耳元で直哉の声がした。姿は見えないけれど、愉快そうな声とともに、首に生ぬるい吐息がかかるのを感じる。ドアを開けてはいけなかったのかと思った時には玄関のドアが開き始め、もう止まれないことを悟る。
ドアが開き、荷物を持った親が家に入ったと同時に、風船が弾けたような破裂音がし、それを追いかけるように椅子が倒れる音がした。音の発生源は確実にダイニングからだった。音に驚く親を無視してダイニングに駆け戻ったおれは、変わり果てた兄の姿を、最早なす術のない状況を見てすぐに自分の判断ミスを知る。
「じゃあ……おれはどうするのが正解だったんだよ」
転がる兄だった物に力なく問いかけるが、それがおれに返事をよこすことはなかった。