婚約破棄は惨劇とともに ~最後に残るのは私です~
出血しているのと、少し痛々しい表現があるためR15設定しています。
もりっと「ざまぁ」です。
2023/8/7 感想から誤字報告を頂き、適宜修正しています。いつもありがとうございます。
ジャンル別日間ランキング(恋愛) 3位!読んで頂きありがとうございます!
目の前に広がるのはベルベットの濃厚さと若い赤ワインの鮮やかさを併せ持つ赤の色。
けれど実際に目に映るのは布やワインなどではない。
おびただしい血と倒れ伏した白い肌。散らばる蜂蜜色の髪。
背中についた傷が浅くはないことを教えてくれる。
なんで、と知らず自分の口から言葉が落ちれば、私の側近にして散らされようとする命の弟である公爵令息が溜息を落として口を開く。
「何を仰います。殿下が姉上を断罪したのではありませんか。
アンジュ嬢も姉上がいるから一緒になれないと、日々嘆いていたでしょうに」
そうしてから彼はうっとりとした笑みを浮かべてアンジュを見た。
ひっ、と小さな悲鳴を上げたアンジュが私の袖を掴む。
その手が震えているのが、触れた箇所から伝わってくる。
「わ、私は罪を認めさせろと言ったのであって、殺せなどと言ってはいない……!」
無理矢理絞り出した私の声が悲鳴じみているのは、鉄錆の臭いが鼻に届き始めたせいか。
「そんなこと言われましても。
このような可愛げのない女は消えてしまえばいいと、アンジュ嬢と日頃から散々仰っていたではないですか」
距離を空けて悲鳴を上げている貴族たちを気にすることなく、少し眉を下げた笑みで私を窘めるのは、将来護衛騎士となって支えてくれるはずのもう一人の側近で。
彼はいつの間に帯剣していたのだろう。
王宮騎士以外は夜会での帯剣を許されていないというのに。
お嬢様、と悲鳴とともに幾人もの侍女が駆け寄り、王宮騎士が医者を呼ぶように叫んでいる。
王である父上と弟、彼女の親である公爵はいない。
当然だ。そんな日を狙ったのだから。
けれど、目に映る光景に自分で対処することができないでいる。
自分は王太子として立派にやっていけているはずだと日頃言っていたけれど、この場を取り仕切ることができないまま。
「良かったですね。適当な罪をでっち上げてでも引き摺り落そうと思っていましたが、いちいち策を考えるよりも殺してしまったほうが手っ取り早い。
殿下の望むよう、お役に立てたならば光栄です」
唐突な惨劇をくり広げられ、夜会に参加していた夫人や令嬢たちが侍女や騎士によって外へと誘導されていく。
そんな混乱した中でも、いや、そんな中であればこそ、先程の彼の落ち着いた声はよく響き、更なる恐怖を周囲に与えた。
同時に空気が冷たく厳しいものに変わっていくのは、婚約破棄を巻き起こした身にもはっきりとわかる。
これではまるで、私が彼女の死を望んでいたみたいじゃないか。
ただただ、邪魔な彼女が婚約者として相応しくない状況にさえなればよかったのに。
「そうですよ。どこにも付け入る隙がないせいで、適当な罪を被せても勝てないだろうと困っていましたし。
死人に口なしだから、この女がどんなに有能であっても、もう何もできないですよね?」
のんびりとした声が後ろから響き、人の命を奪おうとする状況に似合わない話し方によって背中が粟立つ。
ゆっくり振り返れば、学園で生徒会の手伝いをしてくれるようになった少年が屈託なく笑っている。
バルト商会の三男坊だという彼は数字に明るいことから会計をしてもらっていた。
末っ子らしく人に甘えることが上手で、よくアンジュの作ったクッキーをもらって食べていた姿は小動物のようだった。
彼は気にした様子も無く、変わり果てた元婚約者へと近づき、邪魔だと近くの侍女を蹴り飛ばした。
そうして躊躇いなく脈を取ってから「大丈夫」と私を見る。
「もうすぐ死んでくれそうです。
これで殿下とアンジュ様の邪魔をする者はいなくなりました」
この会話を耳にしている貴族達の視線は今や疑惑から非難や畏怖へと変わっていた。
それはそうだ。
たとえ罪に問うのだとしても、正規ではない場所で勝手に断罪し、あまつさえ高貴な身分の令嬢を一刀のもとに切り捨てたのだから。
何かがおかしい。
一緒にいて私を支えてくれるはずの彼らは本当にこんな性格だったのか?
こんなに短絡で猟奇的だったか。
そして私は。
「私は、」
殿下、殿下、とうわ言のように言葉を繰り返すだけになった最愛のアンジュですら、今の私の救いにはなりはしない。
目の前に広がる血の赤と、真逆な薄い青のドレスが目にチラつく。
あの青は私の瞳の色。薄い金の刺繍は私の髪の色。
「私はそんなことを、」
贈った覚えのないドレスは、それでも私を想って自分で用意したのだろうか。
いつだろうか。愛されてもいないくせに、酷く滑稽だと嘲笑った気がする。
彼女が可哀そうだと涙をこぼすアンジュに着せた、淡い青のドレスのほうが私に相応しいと言った気もする。
今日ここでの話だっただろうか。
わからない。どうしてこんなに記憶が曖昧なのか。
「婚約者の立場に縋りつこうとする図々しい女だ」
そう言ってワインをかけたのはいつだったか。
わからない、何もわからない。
私はそんなことをしたのだろうか。それとも彼らがしたのを咎めずにいたのだろうか。
「殿下、この女を広場にでも晒しますか?
必要でしたら首を落としますが」
乱暴な手つきで髪を掴まれ、元婚約者の頭が持ち上がる。
「……止めろ、」
「いいですね。私もこんな姉がいたとあっては肩身が狭いですから。
責任を以て首を切るのは私がしましょう」
「それじゃあ僕は晒すことを学園のみんなに伝達しますね」
三種三様の声が飛び交い、私の制止する声など誰も聞いていない。
周囲では私達の会話を聞いたのか悲鳴が上がり、ご乱心だという声が酷く心をざわつかせる。
「アンリヘル公爵令嬢!」
悲痛な叫び声とともに外遊に出たはずの弟と医師が駆け込んできた。
彼女に手をかけている側近を雪崩れ込んできた王宮騎士が殴り飛ばし、弟の側近が元婚約者をそっと抱え上げる。
早く手当を、と他の騎士が誘導する後をついて元婚約者の姿は消え、ようやく片付いたのだと安堵の息を吐いた瞬間、乱暴な手つきで私もアンジュも、残りの三人も王宮騎士によって取り押さえられた。
「兄に対して何をする!」
そう言った私を、侮蔑を隠そうともせずに弟が睨んでくる。
「兄上がこれ以上暴挙に走らないためです。
先に言っておきますが、国王陛下には許可を頂いております」
床へと膝を突かされても、一体どういうことかわからずに弟を睨むことしかできない。
「今回のことは非常に残念ですよ、兄上。
アンリヘル公爵令嬢は何度も婚約解消を願い出ていたのに、貴方を支えるために有能な後ろ盾が必要だという王家の都合で解消されずにいただけ」
唐突な言葉に、弟を凝視する。
「嘘、だ」
「嘘ではありませんよ。アンリヘル公爵令嬢の申請は公式に残されています。
兄上のもとにも態度を改めるよう促す為の文書が届いていたと思うのですが」
そんなものは届いていない。
まさか、と側近たちを見れば、彼らは嫌悪を隠そうとしなかった。
「捨てましたよ、全部。
あんなもので殿下の気を引こうとするのだから愚かにも程がある」
「だからこそ兄上に嫉妬なんてするわけがないんです。
なにより誰かを蔑ろにしていたという報告は、四六時中そばにいた護衛騎士からあがっていなかったのですけどね。
それすらも聞く耳を持たなかったのですか」
残念だという言葉はおざなりさを隠しておらず、無機質な冷たさでこちらを見ている、血を分けたはずの弟が酷く恐ろしい。
「とりあえず陛下が戻られるまでは謹慎されますよう。
陛下が戻られてからの処罰については覚悟しておいてください」
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あの後の処理はスムーズで、まるで最初からこうなるのを予測していたようだった。
元婚約者の弟は廃嫡となり、毒杯を賜った。最後まで自身の価値を声高に叫び続け、死の直前には姉であった元婚約者なら理解してくれるから呼び出すようにと言い出したため、王宮騎士達が体を押さえつけて無理やり飲ませて生涯を終えたのだと聞いている。
公爵家の当主は責任を取って領地の端にある屋敷で蟄居することが決まり、当主の座は親戚から養子をもらって譲られるらしい。
護衛騎士になるはずだった彼は、高貴な身を冤罪で殺害しようとしたという理由から、家族揃って彼女と同じ殺され方で処刑された。
年の離れた彼の妹すら、助命を許さず処されたとのことだった。
彼と彼の家族が処罰を告げられた際、彼は責める家族に対して言ったそうだ。
可哀そうだから慰めてやろうとしたのに、夜の誘いを断ったあの女が悪いと。
裕福な商会で末っ子だった彼は商会ごと潰され、平民ゆえに一族全てが殺害、関係者は国外追放という事態にまで発展したのだと与えられた新聞を読んで知った。
彼は再三に渡って家族から注意を受けていたのに対し、平民の妬みだと嗤っていたのだそうだ。自身も平民であったのに。
最愛だったはずのアンジュは取り調べによって、依存性の高い薬物を所持していたのが判明した。
惚れ薬だと聞いて手に入れたらしいが、実際は高揚感を与える代わりに思考を曖昧にするもので、長く摂取すると物事を正しく判断せず、短絡的な行動に出るようになるらしい。
惚れ薬の入手先を確認すれば、店の痕跡は跡形もなく消えており、薬の成分からも他国の介入があったのではと思われるが、後手に回ったことから証拠は一切残されていなかった。
これでは調べようもなく、王家としては威信を汚されることのないようにと公表を控えることにしている。
そして自覚があろうと無自覚だろうと全ての原因で間違いないことから、屈指の悪女として近日中に公開処刑されることになった。
「事の顛末は以上です」
淡々と説明してくれたのは、唯一アンジュの影響を受けずにいたせいで私から距離を置いていた元側近だ。
現在は王太子となった弟に仕えているのだと言う。
そういえば血塗れの彼女を運んだのも、目の前の男だったはずだ。
そう、私は王太子という立場を失い、爵位を与えて辺境に追いやるには罪深く、けれど殺すには憐れだと父上が情けをくださったのか、生涯幽閉という形で生かされている。
全ての責任を取って毒杯を賜る覚悟は、愚かで情けない私に無かった。
今となっては王太子という立場にも執着はない。
あんなことになって、自分が、権力が、周囲の人間が恐ろしいのだ。
最愛だったはずの人によってもたらされた、無自覚に人の思考や判断力を奪う力。それに唆されたのだとしても、暴走する意思を制止する理性すら失われた側近達。
状況を正しく把握しながらも長らく娘を放置し、結果として王太子の資質を見極めるためだとして命を消費することを厭わなかった公爵。
同じく状況の報告を受けていながらも、私が王太子でいられるようにと王家としての外聞を配慮してか、解消を認めずに続行させて悲劇を招いた私の家族。
なんとなく違和感を覚えたはずなのに、元婚約者を引きずり落としたい気持ちから考えることを放棄した私自身。
私は自身も含めて、理性を失った時の全ての人が恐ろしい。
早く帰ってほしいと嘆願の目で見つめる先の男は、相変わらず表情を変えることがない。
「……最近、妻を娶りました」
元側近であった彼がポツリと呟く。
彼は言葉少なで、よく他の者から名前ばかりの子爵家ながらも嫡男なのに、そんな様子で大丈夫なのかと揶揄われていた。
けれど、ささやかながらも穏やかな人生を手に入れたのは、一緒にいた中で彼だけになったようだ。
「おめでとう。君がわざわざ報告するぐらいだ、きっといい相手と出会えたのだろう」
「ええ、まあ」
では、と立ち上がる彼の表情が変わることはない。
けれど外から施錠される扉を開き、そうして部屋を退去する彼が私を見て唇の端が僅かに上がる。
「妻が連れてきた人形の名前は、アイリーシャといいます」
すぐに無表情へと戻り、そして彼の姿も閉じられた扉によって消えた。
施錠される重々しい音と一緒に残された私は、ふと、彼から伝え聞いた名前に引っ掛かりを覚え、ぼんやりとする記憶を懸命に辿っていく。
アンジュから無意識にかけられた魔術の後遺症で、いまだに思考が時々曖昧になる。
どこかで聞いた名前なのだ。
アイリーシャ、アイリーシャ、愛称はきっとイーシャ。
「──この子の名前はイーシャ、です」
不意に陽射しが強くなるように、曇り空から陽光が一筋差し込むように、初めて元婚約者と会った時の記憶が蘇る。
幼少の頃に顔合わせ目的で行われた公爵家でのお茶会。
そこで彼女は幼い少女らしく、猫のぬいぐるみを同席させていた。
彼女に似た、薄い菫色の瞳の猫のぬいぐるみ。
公爵令嬢であろうと不安で一杯だろう5歳の少女に対して、散々小馬鹿にした態度をとってからは一切連れてくることはなかった。
そうだ、初めて会った時から無感情で無表情だと思っていたが、そんなことはなかったのだ。
私が全ての芽を潰してしまった。
あの時に寄り添えていたら。相手の気持ちを理解していたら。
ああ、でも彼女は生きていてくれた。
良かった。今ならちゃんと無事でよかったと思える。
鉄格子が嵌められた窓の外を見ながら、冷めきったお茶へと手を伸ばした。
ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー
「殿下はおそらく気づくと思う」
「別に構いませんわ。
あの方が救われようと、それとも生きていたことに腹立たしく思おうとも。
今の私には全く関係がありませんもの」
爽やかな風が入り込む窓の外で、蕾をつけ始めた薔薇が目に入る。
花が開くころには庭でお茶もできるだろう。
視線をテーブルの向こうにいる夫に向け直して、無表情な顔に微笑んでみせる。
「私は自分の手で幸せを掴んだ今、虐げていた者なんてどうでもいいのだから」
慰謝料から持参金へと名前を変え、莫大な金を携えて私は彼のもとに嫁いだ。
あの状況を黙って見守っていた楽観的な大人達は、格下の家になんてと口を出そうとしたが、売り物にならない傷物の娘になど価値はないのだからと押し通したし、王族の者達は新しい王太子殿下が全て黙らせてくれた。
これだけ大々的に失態を見せたのだ。
既に貴族の間だけに留まらず、夜会の事件は国民へと話が伝わり始めている。
数年内に王の退位があるだろうし、公爵家も年内に当主交代の手続きが完了される。
これも計画の想定内だ。
目の前の彼に嫁ぐためなら、何でもすると決めたのは5歳の時。
初対面の顔だけしか取り柄のない殿下に心無い暴言を吐かれて、愛はなくとも支えようなんて気持ちは欠片も無くなった。
そして泣きだした私が煩わしいと殴りつけてから地面へと突き飛ばして立ち去った後、私を立たせてエスコートしてくれた夫の方が気になるのは当然の成り行きで。
気を遣って遠慮していた彼も、謝罪もないままに態度を変えることのない殿下を数年見守り続ければ憤りを覚えるようになってくれた。
才媛と呼ばれ、高貴の身分と敬われる私だけれど、別に私は博愛でもなければ公明正大でもない。
そして夫にしか教えていないが、本来の私は執念深く報復することを厭わない性格だ。
劣等感から人を見下すことで自分の欲求を満たしている殿下も。
そんな粗悪品を押し付けてくる王家にも。
怪我した娘を見ても、何もなかったふりをしていた父親も。
自身の出来の悪さを人のせいにする弟も。
気持ち悪い視線を投げかけては、遠回しに不埒な関係を築こうと誘いをしてくる身持ちの悪い殿下の側近も。
単なる商会の人間でありながら上位の者に対して礼儀を弁えないことから、学園で友人が一人もいなかった平民の彼も。
私は許さない。
だから時間をかけて陥れるための根を伸ばした。
協力できる人物は引き入れ、障害は出来るだけ潰し、大事なものは残しておく。
殿下を陥れるために、対立している第二王子と密かに連絡を取り合った。
社交に精を出し、蔑む者には近寄らず、同情する者を手招いた。
合理的に付き合える者は大事にした。
そして夜会で私の望む花が咲き開いてくれた。
花の名前は「愚者」。あの愚か者たちに相応しい死の花。
私も瀕死にはなったが、ぼんくらの剣でなど死ぬことはないという賭けに勝って生きているから勝者であろう。
まあ、あの女はどうでも良かったけれど。
どれだけ不貞の報告をしても対応しなかった王家の方が罪深いと思ったし、殿下に擦り寄る候補を探していた身としては神が遣わしてくれたのだと思ったぐらいだった。
その働きに感謝して情状酌量を願い出たうえでの公開処刑なのだから、当初はどんな刑に処するつもりだったのか。
凄絶であれば聞いても構わないが、はしたない内容かもしれないので聞くのは止めておいたけど。
なんにせよ後少しの命を無駄なく使ってほしい。
莫大な慰謝料から投資に回せたこと、邪魔であったライバルが一つ潰れたことで、私の抱える商会の売れ行きは好調だ。
夫も新しい王太子の側近として真面目に勤めていたことから、哀れな私との結婚という話題性も踏まえて彼が当主となる頃には伯爵位への陞爵が約束されている。
ちょうど不出来な息子のせいで家族ごと殺害され、断絶された伯爵領が一つ残されているのだ。
大変ありがたい話である。
地獄の日々と決別し、愛する人と望むような生活。
これ以上にない幸せを抱え、私はこれからも生きていく。