諸法度・・・2
前章で禁中並公家諸法度が大変厳しい内容の諸法度であったと述べたが、何故そこまで厳しい文言で構成されているのか? 実はこれには朝廷並びに幕府を揺るがすほどの大事件が関係している、事件の内容が民にまで知れ渡れば朝廷の地位まで下がる事必定の大事件、関係者は高位の公家多数が死罪と配流(島流し)される程の事件が関係していた。
この事件は猪熊事件と呼ばれ、江戸時代初期の慶長14年(1609年)に、複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件である、公家の道徳概念が如何に不道徳であり平然と醜態乱脈ぶりが露見し白日の下にさらされ、江戸幕府による朝廷監視の強化、後陽成天皇の退位のきっかけともなった大事件である。
事件の詳細は割愛するが、概要は帝の寵愛を受けている女官たちが裏では公家達と逢引を重ね淫らな乱交パーティーを繰り広げられていたと言うなんとも乱れた事件である、その事が起きているとも知らずに帝は寵愛する女官と床を重ねていた、後日密告で帝がその事を知り卒倒し朝廷を揺るがす事態に、この事が京都所司代にも漏れ伝わり幕府介入の調査が家康の指示にて入り、実態を知った家康も卒倒する程の乱れ切った内容であったため関係者は断罪される事に成った、この事件を契機に朝廷をしっかり監視する必要と力で押さえつける為に禁中並公家諸法度が作られた経緯がその裏にはあったという話です。
本来朝廷には公家を罰する罪に死罪という刑は存在しない、死罪は高貴なる者には似つかわしくなく死を与える罪を犯す者は下位の者であり刑を執行する者は汚れ役の侍に行わせると言う風習と言うかそんな考え方で朝廷には死刑と言う刑罰は存在していなかった、が、しかし、それを徳川家康は許さずに二名の主犯格を死罪にしたと言う更なる裏話もある。下記がその関係者の刑の一覧です。
死罪
左近衛少将 猪熊教利
牙医 兼康備後(頼継)
配流
左近衛権中将 大炊御門頼国 → 硫黄島配流
左近衛少将 花山院忠長 → 蝦夷松前配流
左近衛少将 飛鳥井雅賢 → 隠岐配流
左近衛少将 難波宗勝 → 伊豆配流
右近衛少将 中御門宗信 → 硫黄島配流
新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘) → 伊豆新島配流
権典侍 中院局(中院仲子、中院通勝の娘) → 伊豆新島配流
中内侍 水無瀬(水無瀬氏成の娘) → 伊豆新島配流
菅内侍 唐橋局(唐橋在通の娘) → 伊豆新島配流
命婦 讃岐(兼康頼継の妹) → 伊豆新島配流
その一方で後陽成天皇は自分を裏切った女官と公家達全員の死罪を求めていたと言う、帝はそれ程の怒りが頂点に達していたという話も残っている。 この実話は大河ドラマ葵三代でも取り上げられている。
那須資晴はこの事件が起きる前に新しい幕府を開いており、武家諸法度発布より時を置かずして公家諸法度を公布した、その主な内容は帝及び公家衆は学問と芸術に励む事と、領地として与えた京の政と自ら糧を得る努力を行なわなければならないという内容が項目としてある、要は寄付の寄進ばかり頼らずに自ら働けという意味である。
政の手助けとして京都所司代が補佐する事も含まれている、それと罪を犯した者は公家であっても罰せられるという明確な賞罰も含まれていた。
史実での禁中並公家諸法度と同様に公家の役割も明記されておりその責任を明確にした諸法度と言える。
元々公家諸法度を制定するにあたり帝との意思疎通を図っていた事もありその文言も柔らかく表現しており締め付ける為の法度ではなく、役割と責任を持たせる内容が主であった、京の政に関して言えば各家々の公家が管理する領地が明確になりそこからの安定した収入が入る事でむしろ政に期待する声も上がる程であった、聖徳太子が推し進めた日本全国への律令とは程遠い規模であるが京都の町々を施政を行わせる意味は大変に大きいと言える。
── 民諸法度 ──
日本が近代国家へと歩む過程で種々の法律が策定されて行く訳だが、何を基準に様々な法律が誕生して行くのか? 単に法律を作ると言っても日本には律令を始めた当時は66ヶ国、又はそれよりも多くの国々がこの日本には存在しており、さらには江戸時代には国という単位から270余りの大名が誕生し、それらすべてに適合した基準の法律が必要であり、西欧列強の仲間入りするには法整備が必要であった。
憲法は国家の統治権が主体の基本法であり、その憲法のもとで暮らす人々が安心して暮す為の法律が必要であり生活して行く上での民の法律、それが民法である、様々な法律は民法を基準に発生していると言っても過言ではない、民法を守るための(民の暮しを守るため)刑法であったり、建築基準法や消防法、医師法がそれである。
六法という言葉があるが、憲法・民法・商法・民事訴訟法・刑法・刑事訴訟法を基本六法として7500もの法律があるとされている、人々が暮らして行く中で基本となる法律が民法と言える、その民法にあたるのが資晴が提示した民諸法度と言えた。
残念ながら明治になるまでこの日本には民の暮しを守るための民法の様な法律は存在していない、訴訟という制度は代官所などで訴えを起こす事は出来るが往々にして現代の常識とは違った判決例が多いとされている、その理由は武家の常識、権力者の常識で裁可されていた、現代の常識ではどう考えても? という首をかしげる社会であった。
── 正徳の疑獄 ──
新しい幕府となり那須資晴が新将軍であってもこの時代は封建制度という身分格差が存在し、更に家となる氏(血筋)をとても大事にする家父長制と男尊女卑が存在している、史実における江戸時代でもそれは全く同じであり、むしろそれらが色濃い時代であり現代では考えられない法の裁きも珍しくはないと言えた、それを象徴するような判例が特に有名な『正徳の疑獄』と言われた幕府が混迷した法の裁きが実際にあった。
正徳の疑獄とは、妻の夫が何者かに殺された事で江戸幕府までその判断に揺れ動いたという事件が1711年に河越で殺人事件が起きる、殺された夫の名は伊兵衛という、ある用事で出かけた夫伊兵衛が戻らずに何者かに殺されてしまう、妻であるウメは誰が夫伊兵衛を殺したのかと役所に調べてもらうと、なんと夫伊兵衛を殺したのは、ウメの父親と兄の二人であったという事が判明した、そしてここからが江戸幕府は迷路のような判断が中々出来ぬ沼に陥る。
ウメの夫伊兵衛が何者かに殺された、その後、殺した犯人は父親と兄の二人であったと判明する。
この事により父親と兄は殺人の罪科が確定する、問題は夫伊兵衛が殺された事件を調べる様に依頼したウメの行為が罪に問われると言う摩訶不思議な事件に発展して行く。
先の説明でもこの時代は江戸時代であり封建制度が確立されており、家父長制度が家々の仕来りとも言える頑固な哲学が根っこにある、妻であるウメは夫を何者かに殺されたので調査を依頼した、ここまでは問題ないが、犯人が父親と兄であった事から、特に父親の罪が露見し罪に問われる事になる、ウメが調査を依頼していなければ父親の罪は露見せずに罪科は問われない、父親の罪が露見した原因は娘のウメが調査を依頼したからであり、実に親不孝な娘であり、一番の罪は娘のウメにあるという事で、ウメに死罪の罪を与えよと言う意見が出始める。
なんでその様に横暴な意見が高位なる者達から出たのか? それこそが家父長制度の悪しき例であろう、家の中にあっては父親が長であり、絶対的な存在である、その父親の罪が露見したのは娘が調査依頼した事で絶対的な存在の父親が罪に問われる事に成った、よってその罪はウメにあるというとんでもない狂った判断が主流になりつつも判断に困った河越の領主はこの事件の裁断を幕府に仰ぐことになる。
時の将軍吉宗も当初は娘のウメが余計な事をしなければ発覚しなかったのにとご立腹、しかし将軍自ら裁断する訳にもならず評定衆に判断するようにと、そこでこまった評定衆もあ~でもない、こ~でもないと中々結論が出せずに、結局の幕府のお抱え識者である林大学と新井白石に意見を求める事に成った。
結果この事件は罪を問うべきである言っていた評定衆の意見が覆る事になる、白石の出した意見は、すでに嫁に出した娘にとって、夫は父以上の存在である、夫のために父の悪事を告発するのも、やむをえない、なので、ウメの行為は罪に当らないとした、ましてや、彼女は最初父が犯人であることを感知しなかったので、罪を加えるいわれがない。
結局吉宗は、白石の意見を採用し、ウメに罪科を加えないことにした、しかし白石の助言により、ウメをさとし、剃髪して、父や夫の後生を弔うよう、その余生を鎌倉の尼寺(東慶寺)で送らせることに。
ややもすると被害者であるウメに死罪が与えられた事件であり白石が罪が無いという根拠を示さなかったから大変な事になっていた冤罪である、しかしこれがこの時代の風習でありそれが法であったと言える。
那須資晴の導き出した民法とも言える民諸法度は言葉こそ民を対象にしている様に感じられるが日ノ本に住む全ての民という対象者に対しての常識的な基本法が羅列されており、侍であっても僧侶であっても公家であっても人である以上全ての人が、勿論そこには民百姓の最下層の人も、誰もが守らねばならない法として基本法であり法に従わない者は裁かれると言う趣旨が明確に宣言された諸法度であった。
この諸法度を発布する事で宗教勢力が持つ権力おも封じ込める効力を持たせる事にした、公家諸法度では朝廷と公家の役割を明確にすることで幕府も庇護し手助けできる仕様とした事で無難に発布出来たが、問題は信者という多くの民が宗教勢力の権力の一端を担っている又は利用され一向一揆のように幕府の政に力を持って反対出来ぬ様に先に民諸法度を発布した事で民百姓の地位であっても人として法を守る以上相手が誰であれ守られると言う事を公に宣言した事で、宗教勢力から民を引きはがし一揆の煽動等に利用されない様に先に手を打ち、公布を先延ばししていた寺院諸法度の発布を予告だけして宗教勢力に対して態々時間をかけ猶予していた。
そして5年程時間を要して諸宗寺院諸法度という名で宗教勢力に対しての諸法度を発布した、主な内容は僧侶の妻帯禁止及び五戒の徹底、寺院における貫首又は官長及び住職に対して子孫が嫡子としてその地位を受け継ぐ事を禁止とし代々坊主を諸法度以降は認めずとした厳しい内容と言えた、史実における徳川幕府の檀家制度は採り入れなかった、その理由は以前にも紹介したが檀家制度により代々坊主が誕生した事で日本の仏教は葬式仏教として形骸化していく事を避けたと言って良い。
現代の各地にある寺院の寺住職のその多くは親から受け継いだ住職であり代々坊主と呼ばれる僧侶が主体である、ある僧侶との話で嘆きとも言うべき話を直接聞く機会がありなる程とそんな事が起きているのかと考えさせられる場面があった、民間の葬祭場で葬儀の読経している僧侶を何度か見掛けていたので職員に僧侶の事を聞いたところその葬祭場の僧侶資格のある社員であり、葬儀の際に宗派に拘らない家で法事を行う場合に僧侶資格のある社員が仕事として読経するという話であり、葬儀会社の話では代々坊主がいる寺では住職に成れない坊主が沢山いる為に似た様な形態で働いている人が多いと言う話であった。
話は戻るが何はともあれ諸宗寺院諸法度は新幕府発足5年後に公布された事で那須資晴が目指した戦の無い世に一つの節目が完成したと言える、今成洋一と刻を超え繋がり史実と違う新しい歴史を歩み出したと言えよう、今後100年後、又は数百年後の世界に大きな影響を与える基礎作りが完成したと言える、これにより那須資晴はある決断をする事にした。
日本最初の法律は701年に制定された大宝律令、これは隣の唐の法律を見本に作られたようです、それまで日本には法律等が無い為に唐から未開の人々が住む国という蔑称されていた様です。
次章「安寧なる世へ」になります。




