将軍宣下
新しい幕府の開幕を半年後と迫った頃に公家改革に伴い京に出張っていた錦小路が那須に戻り周辺で見聞きした様子を資晴に報告していた。
「では半家の方々は徐々に各地に赴かれていると言う事であるな、躊躇するなど問題は無いという理解で良いのか?」
「大丈夫であります、某の成功例を皆に説明すると安堵した様子で庇護を受ける大名へ赴いております、参内出来る公家達の方が慌てております、小間使いの様に利用していた半家がいなくなり不安を懐いております、自分達はどうなるのであろうかと今頃心配しております」
「そりゃそうだ!! 差別を公家の世界に持ち込み半家という最下層の者達を態々作り家格で優劣をつけ自己満足していたのだ悪しき風習よ!! 新しい幕府が出来たら公家の諸法度を発布する事になっておる、帝まで蔑ろにして地位を下げた罪は大きいと言えよう、他には何かありましたか?」
「気になる事がありました、ここ数年で米の石高が増加しているのに水吞百姓が各地で増えている様です、那須の領内で聞いた事も無い話だったので調べた処、新しい田植えで増産しているにも関わらず田を持たない百姓、水吞百姓が各村におりそれの総元締めとなる名主の処には何人者水吞の者達がおるという話です!」
「水吞百姓とは借金の肩代わりに田を失った者達であったな!? 米の取れ高が増えれば減るのでは無くて増えているのか? どいう訳であろうか?」
「私もそのように理解しておりましたが、どうやら絡繰りがあるようで、一枚の田で取れ高が増えたら借りていた借金も残額が増えたと言う事で返せなくなり田を手放し水吞になる者がいるようです!!」
「なんだそれは? 米の増産に伴い借金までそれに合わせて増えたと言う事なのか?」
「まさにその通りです! では名主達は冥利を独り占めしているという事になるではないか、何の為に新しい田植えを広めたのか、民が豊かになれると願っての政策であるのに、実にけしからん話であるな、この話は京周辺だけでは無いだろう、時が来れば一気に解決してやる、文字が読めぬ者達であるから騙され虐げられてしまうのよ、その地域の代官も石高が増えている事でそんな絡繰りがある事を知らぬかも知れぬ、百姓の世界にも手を入れねば成らぬな!!」
「おっしゃる通りです!」
水呑百姓は、貧しくて水しか呑めないような百姓を指し、田畑を所有していないため年貢などの義務はないが、その代わりに村の構成員とは認められず、発言権も付与されない低い身分となっていた。親族からの身分継承だけでなく、百姓の次男や三男、本百姓から転落した者などもおり、農奴層を形成していた。
名主の役割は村内の総責任者という役割があり決められた年貢供出の責任者でもあり村内では絶対的な権威者とも言えた、名主に逆らうという事は村八分となり追放されるなど大きい力を持っていた。
戦後の日本も農地解放政策のもと名主が持つ広大な田畑や山林を開放させ田を所持できる農民を多く作り出し食糧増産と権力を持つ貴族社会の崩壊を行った、特に寺院や財閥と言われている者達の持つ広大な不動産は財閥解体の目玉とされた。
「世が豊かになるという事は水吞のように力無き者達はより貧困に追いやられ、力ある権力者はより富を独り占めしようと悪知恵を働かせるという例であるな、我らがそれを見過ごせば両者の差が益々大きく成り将軍と言えども手が出せなくなる場合もあるやも知れぬ、確か蟻の一穴という例えがその言葉であろう、戦が無い世の中である、これからは悪徳な悪知恵の者達との戦が目に見えぬ形で我らは行わねば成らぬ、これからは人格のある文官を作るためにも学び舎である寺子屋の重要性が増すという事であろう!」
「その通りでありますな、先ずは読書きが出来ねば役人に訴える事も出来ませぬ、戦より難しい舵取りが必要でありますな、幸い那須家には知恵優れたる人が多いので御屋形様も一安心なのでは」
史実においても江戸時代の徳川幕府でも生産能力がない多くの下級侍や役人の俸給が上がらずに富める商人より金を借りる事に成り、幕府も財力のある大店から借金を行った結果度々商人と幕府とで衝突する事が起きた、金を持つ者が優位な社会となり政が停滞する事も生じた、残念ながら現代もその仕組みは同じと言えよう。
── 石高 ──
「十兵衛! 今の報告は実に素晴らしき話であるな! 西国の者達も立派に民の期待に応えたと・・・実に感慨深い物がある、この9年でそこまで大きく増えたとは、余が教えた新しい田植えが定着したと言う証で間違えないであろう、のう十兵衛!」
「はい、明年発足します新しい幕府にとって幸先の良い慶事と言えましょう、戦国という世は去ったと言う証です、民も大名もあの地獄から抜け出したのです、しかしよくぞここまで石高が増えたものだと感心致しました!」
「我ら四家もそうであるが西国でも子供の数が増えているであろうな、那須の農家であれば四人五人と当たり前であるからな、食の不安が無いというのが一番であるな、那須では四公六民となってから20年以上であるから廃屋のような家にいた者まで小奇麗な家を建てている風景を見ると涙が出て来る、これがあの那須なのかと、西国の大名も一安心であろう!!」
戦国期の石高は戦によって田畑が荒らされ、米は重税となり厳しい地域では七公三民、良くて六公四民という課税となり重い重税の原因は戦の資金であり決して侍達の贅沢な資金では無かった、米を主食として毎食食べれる者達はごく一部の支配者達であり下級の者達は五穀を混ぜた食事であり麦飯が普通であった、それが誰もが米の飯を食べれる時代が到来したと言える。
この9年間で国内の石高は大幅に増加した、戦国期末期の石高は約1850万石、それが9年後に約2600万石に達した事がこの秋に判明した、それに伴い人口増も比例している事がおおよそ予想できた、食の増産と民への供給と言う難題の一つに道筋が出来たと言えよう、史実における江戸時代末期には3200万石を超えるとの資料がある、ここに面白い逸話がある、徳川8代将軍吉宗は江戸幕府中興の祖と呼ばれいるが、実にそれ以前の将軍が権威に胡坐をかき財政を顧みない政をした後始末に追われた将軍が吉宗であったと、旗本を含め多数の武士達が借金をかかえてしまい、両替屋と商屋や米問屋迄が力を付けたため幕府の言う事を聞かずに借金の返済率、米の値段を守らずに幕府が四苦八苦してしまう吉宗の話は有名である、何はともあれ史実を知る資晴の米の増産は成功したと言える。
── 将軍宣下 ──
関ヶ原合戦以降四家は朝廷とも幾度も談合を重ね新しい幕府を開く準備を滞りなく推し進めて来た、新幕府となる地は江戸、新将軍は那須資晴という事でスタートする事は四家と朝廷の総意であり問題が無かったが将軍の官職名は征夷大将軍という将軍名で無く旭日大将軍という新たな官職の将軍職を作り任命される事に成った、これまでに日ノ本には将軍名の官職名は幾つもありその役割に応じて○○将軍という官職が付けらている。
では征夷大将軍という官職にはどんな意味が含まれているのか、朝廷に従わぬ蝦夷地である東征を行い従わせる将軍という意味である、征夷とは蝦夷を指し、当時朝廷の支配が及ばない奥州藤原氏のいる東北以降を蝦夷と呼び坂上田村麻呂などがその将軍職の任命を受けている、那須資晴は既に蝦夷の地を支配下に置いており征夷という名は必要無いとの事で日ノ本全体の将軍という位置付けを明確にするために旭日という官職名の将軍職を朝廷と図り命名される事に成った。
旭日と同じ意味の名前の将軍が過去に一人だけいる、正式には朝日将軍と呼ばれた源 義仲、又の名を木曽義仲である、朝日又は旭という名での将軍と呼ばれている、那須資晴が旭日に拘った点は日ノ本を統べる武家の頭領が旭日と言う名の将軍であるとの意味で征夷という職名の将軍名を使わずに日ノ本の全責任を負う者こそが幕府の将軍であるとその立場を明確する意味で征夷を使用せずに旭日とした。
史実における徳川幕府が大政奉還する過程で最終的に維新戦争となり朝敵となり最後の将軍、第十五代徳川慶喜は皮肉にも征夷大将軍であり京より北に江戸に東へと進軍して来る維新軍に攻め追いやられ幕府、東征で成敗される蝦夷成敗と同じであり、それはあたかも征夷大将軍という名が仇となり北へ北へと追いやられ徳川幕府は終焉を迎える、歴史は繰り返すという皮肉としか言えぬ。
ともあれ1600年4月に四家の面々が参内し正式に那須資晴に将軍宣下が下された、それと同時に上杉景勝、北条氏直、小田守治のそれぞれに副将軍として官職が拝命された。
この任命を受け直ちに上杉景勝が副首都の役割を担う大阪城に、北条氏直と小田守治は首都となる江戸城に入り新幕府の体制を取る事に。
資晴は事前に江戸を全国の首都として幕府所在地に、それとは別に西国を監視していくための大阪城を副首都という位置付けし、又それとは別に朝廷のある京都は京都所司代が行政府として朝廷の代わりに政をしていく新体制を発足させた、問題は副首都となる大阪城のトップを誰にするのかでの協議、氏直も守治も西国に通じておらずそれぞれが辞退した事で上杉景勝が就任する事になった。
上杉景勝の上杉家という戦国期の家名は全国に知れ渡っており一流の大大名家でありそのブランド力は一級品であった、その上杉を支えるのが毛利家、島津家と西国に通じている黒田家と徳川家が抜擢される事になった、言わば大老職と言って良い、江戸で発布される政の内容を各大名に徹底させる意味でも大阪城の役割は大きいと言えた。
9年間で石高を大いに増やし国内の力を結集し国力として底上げしていくインフラ整備などの課題に取り組める様にとの体制である。
京都所司代には明智十兵衛が抜擢され帝を支える態勢の強化と不要な公家の解体、広大な力と荘園を持つ寺社の力をそぎ取る準副将軍としての地位を与えた、魑魅魍魎とした物の怪の住処である京都を改革するには力業が必要でありこれまでにも何度も朝廷と連絡を密にしていた十兵衛が抜擢された。
そして江戸幕府は資晴を頂点として氏直、守治の両副将軍が支える態勢に、氏直が小田原から江戸に移る事になり、江戸の町と江戸城を築城に貢献していた北条氏秀(旧 上杉景虎)は本家の小田原北条家に氏直と交代で当主の座に就任した、史実での氏秀(上杉景虎)は本来であれば御館の乱で景勝との争いで負けこの世を去っている筈であったが資晴の計らいによる策にて延命し、新しく開く幕府の地である江戸城と江戸の開拓を担っていた、それを見事成し遂げての本家への凱旋と言えた。
5月に入り本格的に始動し始めた江戸幕府は那須資晴の命にて各国の大名に五畿七道の主要街道への通じる道普請、所謂道路整備を行う様に命を出した、地味なようで実は大改革の一歩であった、戦国期の日本の道路事情は他国へ攻め入る、又は、攻められない様にと戦略上から道路網は幅は狭く、態と難所を通らせるなど七道と呼ばれる主要な道路であっても何ヵ所も関所があり幅も統一されておらずインフラ課題としては最重要とも言えた、七道に通じる道が整備されていなければ物流が滞り格差が広がる、七道とは東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道であり律令時代に主要道路として古くからある道路であったが戦国期という争いで荒れていた。
あまり知られていない事であるが日本が江戸時代から明治となり西欧列強との差が埋まる処から差が広がるという逆行が現実となりその主要な原因は日本の道路網が余りにも未整備であり物流が行き渡らない事が大きな原因の一つされた、主要な道路であっても人馬が行きかう土の道であり雨が降ればぬかるんだ道となり大雨が降れば道路なのか田んぼなのか判明出来ない道路であった。
1918年《大正7年》年に来たアメリカの経済使節団は、日本の道路事情について『これはとても道路といえるものではない』これほど日本という国は遅れていたのかと驚きと、既にアメリカでは馬車から自動車社会になりつつある中、劣悪な道路事情に失望したと報告されている、経済を発展させるためには道路の改革が必要であると、そこで日本は初めて道路法が制定され大きな全国的なインフラ整備が始まった歴史がある。
なにはともあれこの年1600年に那須資晴を頂点する江戸幕府が開かれ日本は新たな歴史を開いて行く事になった。
徳川家康も抜擢されましたね、徳川家臣団は史実でも優秀な者達が多かったと言われています、職人も優秀であったと評されてますね。
次章「諸法度」になります。