三寒四温
那須資晴が五摂家との饗応の場で戦の責任を朝廷に問わぬ為に秀吉の関白職を解任する事を降伏の条件に入れ実際に解任させた事、それと朝廷への支援を約束し安堵させたがそれはあくまでも表面上の約束であり帝の権威を取り戻す事と公家達を安易に支援する事は考えていなかった。
史実での公家の生い立ちと朝廷の権威が弱くなった経緯の責任の多くは五摂家を初めとした公家達が放漫な政をした事で律令が崩壊したと言える、平安時代末期に公家達の権威は頂点となり煌びやかな貴族社会には民の困窮、又は一揆などの乱は下賤な者達と風下に置かれた地方の豪族に武力鎮圧を命じ朝廷は高貴な者達であり、人を殺す野蛮な行為は武家の者達に任せれば良いと言う政をいつしか放棄した事で朝廷は別世界の高貴なる者達の住む世界となった。
汚い仕事は全て武家に、官位を得たければ命に励めという犬に餌を与えるが如くの仕打ちを武家に命じた事で武家は武家で領地の政が始まる、それがいつしか戦国の世に辿り着く、長い時の流れの経緯を見れば公家達の責任は重罪と言えた、那須資晴は新しい幕府を開くにあたり時間を数年かけて準備に入る事にした。
先ずは日ノ本全体の国力を大きくさせる、その為に新しい田植えの方法を開示し民百姓が安心して米を食する事が出来る国へと大きく変貌させる舵を切った。
そして公家達の解体にも時間をかけて一家一家の実情を調べ上げ、特に半家という参内出来ない公家達を各国元の大名が引き取る事にした、半家の者達も優秀な者も多く文芸に優れ家もあり各大名家でも知識の普及に役立つ者として朝廷から引きはがしを行う事にした。
資晴の中では公家諸法度を行うのは新しい幕府を開く事である事を同時に宣布した、それまでに半家という組織を庇護の名目で引き取る事にした。
そもそも半家の者達は困窮しておりこれ幸いと言う事で引き取られて行き、特に那須家で活躍している錦小路の活躍が大いに刺激となったと言える。
その次に僧兵の解体に着手、僧と名が付く以上、僧職に専念するか僧籍を離れるかの選択を寺院仏閣に通達、戦の無い世に僧兵は不要との意味である、これについても即実行では無く数年間の時間の猶予を与え選択させる事にした。
そして各大名には江戸の開拓への普請事業を命じる事に、洋一から得た知識で江戸は100万人以上がすむ都市になる事、400年後には1千万人が住む巨大な都市になる事を知り得ており、大掛かりな基礎となる普請事業を各大名に命じる事にした、それと東国の大名には蝦夷と北方の島々への開拓と援助事業を命じた、寒い地域であり東国の者にしか出来ない事業と言えた。
特にサハリン又の名を旧樺太島には莫大な原油とガス眠っているその島を既に蝦夷の那須ナヨロシクが支配下に置き各部族との深い誼を築いている事に注目し開拓して行く事に、史実においての江戸幕府は1700年代初頭には幕府も本腰を入れて樺太、択捉を初めとした北方の島々に漁港を開くなどして村を作り日本の島であると言う標柱を立てている、何故本腰を入れ始めたのか、それは帝国ロシアが北方の島々へ徐々に我が物顔で進出を度々図った為である。
当時蝦夷地は松前藩の管理下に置かれており『新羅之記録』に記載されている内容にラッコの毛皮等の交易をアイヌ人度々と行っており、漁場が豊であると判明している、1644年《正保元年》幕府の『正保御国絵図』」には、北方の島々が描かれている。これは1635年《寛永12年》蝦夷地の探検調査を松前藩が行った資料に基づくものとされている。
玲子からの警告はロシアという国が必ず日本の領土を狙って来る、ロシアと言う国は領土拡張主義を代々の皇帝が世襲しており、例え条約を結び誼を深めても必ず裏切る国であると、日本が他国との交易を行うにあたって最も警戒しなくてはならない国が蝦夷の隣にあるという警告を受けていた。
史実ロシアは1804年に樺太や択捉島を襲撃する事件が起こります。
それらの事を考慮すれば那須資晴が樺太を初め北方の島々を早く日本の支配下に置く意味は大変に大きいと言える。
アイヌの民が日本にいる事で北方の島々が領土であると言う事実の上からも証明できる証左と言える。
江戸の開拓、暮れても暮れても終わらぬ普請事業と新しい国造りに追われる四家を中心とした仮の統治体制ではあるが不思議と国内での混乱も無く忙しい日々を送っていた。
那須の下野に戻っても日々新しい幕府と平安なる世を創る為の苦悩に追われる那須資晴に思いもよらぬ来客が訪れた。
── 椎葉那須家 ──
「御屋形様! 驚かれますかと思われますが、遠い九州の地より与一様の親族が御屋形様のもとにお越しであります、それも一ヶ月を要しての旅路で献上の品まで持参しております、長旅の為今は離れにてお休み頂いております、お会いなされますか?」
「何!? 与一様のご親族とは・・・それも遠い九州とは何の事じゃ!!」
「驚かれますな! 島津の日向の地より隠れ住んでおりました与一様のご兄弟の末裔の方々が関ヶ原の戦勝の祝いとしてお越しに成られたのです、それも一ヶ月という長旅でお越しに成られたのです!」
「なんと・・では・・・那須家の祖である与一様のご兄弟の末裔が日向の地にいたというのか?」
「直ぐにでも会いたいが・・・待て待て父上にもお知らせ致せ、明日昼餉の後にお会い致そう、それまで身体を休ませるが良い、長旅である失礼無きよう頼む!! それと忠義も同伴せよ!! いや城にいる主だった者を集めるよう手配を頼む!!」
この日思いもよらぬ来客とは那須与一の兄弟であったという末裔の者達が遠い九州の地より那須資晴に戦に勝利した祝いとして蕎麦等の五穀を届けに態々遠い地よりの来客であった。
そして翌日の面会時で驚きの事実を知る事に。
「なんとその方達は日向の国に祖与一様のご兄弟の分家がおりその末裔の者達という事で間違い無いのか?」
「はい分家と申しても庶流の家に成ります、それゆえ那須家の名を名乗るには少々憚りはありますが紛れもなく与一様と同じ血を引く末裔でございます!!」
「父上!! 父上はこの事ご存じでありました? 某昔の事それほど聞いておりませぬ、如何でありましょうか?」
「・・・儂も伝承として聞いてはいたが詳しくは知らぬ、遠い日向の地にその昔何某かの縁があるという話だけであり知る術も無いゆえ仔細は解らぬ!! 済まぬがそなたたちが知る日向の那須家に付いて系譜と仔細を教えた欲しい!!」
「はい、私共の祖は与一様の兄上でありました那須大八郎様であります、壇ノ浦の戦の後に勝利した源氏は与一様に椎葉にいる平氏追討の命を出した際にご病気でありました与一様の代わりに大八郎様に追討を命じられたと、その末裔であります!!」
説明によると戦に敗れた後、命からがら各地に逃げかくれた平家側の人々がたどりついた場所が、今の宮崎県の椎葉という山奥のそれまた山奥の山村に隠れ住んでいた地、執念深い頼朝は平家残党に対する追討の手をゆるめずに日向国の山中に生き残った平家の居場所を調べ上げ、椎葉という地に平家の逃亡した落人がいる事を突き止めます。
那須大八郎は命のまま山奥の椎葉に入り追討の為に陣を築きます、しかし、平家の残党たちはひっそりと怯えた暮らをしており昔の栄華はどこにもありません、人里離れたギリギリの生活である事は手に取る様でした、椎葉は山が連なる山間の地であり山と山に挟まれた那須の山々と似た様な厳しい地であり人が住むには厳しい地であった、追討の陣を構えたものの大八郎は追討はせずに見て観ぬようにして時間を稼ぎ苦慮する中、平家落人の中に平の清盛と血の繋がりのある姫がいる事が判明した。
その姫の名は平清盛の末孫である鶴富姫であった、姫は命乞いもせずに落人の残党の助命を願う哀れな姫であった、その姫は聡明で大変美しい姫であり何時しか大八郎と恋仲となり二人は結ばれる事に、二人が過ごした館は今も残る鶴富姫が住む館であり、其処では3年の睦まじい時を過ごします。
睦まじい暮らしを3年過ごした頃に帰還の命が下ります、大八郎は平家の残党を追討したという報告をしており帰還しない場合は追討を疑われられ新たな追討が起こるやも知れぬと危惧します、しかし妻となった鶴富姫は身ごもっておりました、そこで大八郎は男子であった場合は下野に送るように、女子であった場合は椎葉に残す様にと言って戻る事に成りました、その後、姫は女子を産み、その女子が成人した際に婿を娶り那須という名を苗字とします、それこそが祖、与一の兄弟であった大八郎からの系譜という説明を淡々と話しました。
説明を聞く資晴と父親の資胤他の面々は感動に包まれていた、祖である与一様のご兄弟ならではの行いでありまさしく人としての矜持を与一様と同じく行動に移された祖の一人であると言う事に感動していた。
話を聞く中でむせび泣く者がいた、それは大の男である今は資晴の義父とも言える鞍馬天狗あった。
天狗が泣いた訳はまさに平家の残党が下野の山深い湯西川の地に逃げて来た経緯と同じでありその苦労を思い出しての涙であった、資胤は椎葉にはどの程度の那須家の末裔がいるのかを訪ねた。
「はい、椎葉の里には那須家の名を名乗る家が20軒おり全部で幼子迄入れて70名おります」
「お~それは・・まことか・・資晴よ!! 聞いたか今の話、我らの親類が九州の地に日向の地にいるという嬉しき話、誠に嬉しく感涙致した、よくぞこの下野まで来て下さった、儂は大いに嬉しい!!」
「父上、某も同じであります、日向の地は今は島津が治めております、某から文を送ります、そしてその方達はこれからも堂々と那須家の名を累々と継ぐが良い、暫くは祖である与一様のご兄弟であらせました大八郎様が育ち過ごされたこの那須の国に逗留して下され!! それと滞在は某の離れで寝止まりして下され、那須家が大きく成った謂れの館であります、今宵は母上が命名された那須家名物の那須プリンなどもご賞味下され、皆様を那須家本家にて心づくしの饗応を致します!!」
椎葉那須家の面々が来訪した事で資晴の心に春の日差しが射したと言える、新しい幕府を作るための孤独なる日々の中で春の暖かな陽光であった、それは春が近いとされる三寒四温とも言えた。
椎葉村における那須大八郎と鶴富姫との物語は現代へ綿々と伝わっており、大八郎と住んだ鶴富姫館や鶴富姫のお墓さらには椎葉平家まつりが毎年開催されている、動画でも色々と紹介されているので是非ご参照下さい。
尚、大八郎と鶴富姫との物語は諸説はありますが、記載した内容が大まかな物語となっております。
新しい物を生み出す苦しみ、当然と言えば当然ですが大変な事かと。
次章「今成家の謎?」になります。




