公家の解体
関ヶ原合戦における仕置を敗戦した大名は軽い処分に安堵し内容に従うと言う誓紙を提出し領国に戻って行った事で那須資晴は居場所を二条御所に身を移し帝と正親町上皇他公家の五摂家との公家談合が行われる事に、形式上は戦勝報告でありいきなり公家解体論の披露は到底出来ない事は充分承知していた。
軍師今成玲子の助言に寄れば武家の仕置は戦での勝敗で負けた側が従うという風習が古来よりある程度確立しており受け入れやすい内容の仕置であれば問題なく成立するが問題は公家の解体という体制を変更させる方が大いに難しく大変であると、場合によっては力押しでの解体を念頭に推し進めるしかないとの助言を得ていた、その点は資晴も公家と言う権力に憑りつかれた者達という認識を持っており玲子が危惧する点と同じ意見であった。
公家は甘い蜜がなる果実に群がり華美な日々を求め民の世界から遊離し官位という権威にしがみ付き小さな世界で君臨した別世界の者達と言って良い、帝もその一員には違いないが帝だけは別者であるかのように華美からやや距離を置き本来の朝廷に与えられている政の責任を放棄はしていなかった、放棄をしていなかったと言うより兵権の力無く政が出来なかったという表現の方が正しいと言えた。
朝廷を中心とした世界は飛鳥時代と呼ばれた時代が大きく関わっている、律令の仕組みをよりはっきりと行ったのが聖徳太子であり国家として日本初の憲法『十七条憲法』『官位十二階』など制定し国家と言う形を作り他国、特に隋に対しても日本は法律と仏教による政を行う国であり野蛮な国では無いと言う施政ほ施し公にした事で多くの公家達も国造りに参加した時代とも言えるが自らの地位を守るために荘園という仕組みが仇となり朝廷の力が衰えていく事に。
日本史で言えば次に訪れるのが奈良時代、奈良時代とは天皇を中心とした世界であり律令制度が完成した時代であり貴族である公家達が仏教を巧みに政治利用した事で権威の社会を完成させた時代とも言える、権威が朝廷に集中した事で武家と平民にしわ寄せが押し寄せの重税化が進んだ時代とも言えた。
奈良時代の中で権力を集中させ保たせる為にいつしか神社仏閣という宗教勢力に大きい権威の象徴として地位と荘園を与えた事で何時しか兵権を持つ宗教勢力の台頭が始まり僧兵という武力集団が横行し始めた事で宗教勢力よりも地位の低い武家が徐々に力を誇示し始める、それが平安時代の幕開けにと続く。
平安時代の特徴は朝廷の権威が特に高まる一方で武家も台頭した時代と言えるがその朝廷では力を持つ一部の公家達による摂生政治が行われ帝の権威が侵害されていく、特に藤原一族が大いに我が世の春へと権力を握る、藤原一族の力は100年以上に及び朝廷を支配する事に、その一方で仏教界でも公家と言う貴族に取り繕い貴族中心の仏教が出来上がった時代と言える。
しかしその平安時代が徐々に武家の台頭で変化していく事になる、権力を集中させたことで困窮による貧富の差が大きく成り地方の豪族が農民達を巻き込んで乱が頻発するようになった、富の配分は貴族と宗教勢力、特に仏教勢力に集まり搾取されていた事が大きい因の一つであった。
地方の豪族を武力による鎮圧を行う為に、源氏と平家に追討令を出し解決を図るもやがてその源氏と平家での争いに発展して行く、最終的には平清盛の出現によって武家の棟梁は平氏の時代となるが『驕る平家は久しからず』との言葉が示す通り源頼朝が壇ノ浦で平家を破り鎌倉に幕府を開き武家の時代が本格的に幕開けとなる。
鎌倉時代の特徴は武家が将軍として政を行う一方で朝廷とは背を向け合う状態に、それと大きな変化は貴族仏教と化していた仏教界は徐々に庶民である農民にも浸透していく事に、文字を読めない平民が一言、南無阿弥陀仏、南妙法蓮華経と唱える事で仏への道が歩めると言う教えが広がる鎌倉仏教と呼ばれる時代に、だがこの鎌倉時代もやがて戦国時代への導火線に火が灯った時代とも言えた、武家は武家で朝廷と戦となり勝つも今度は源氏を支える御家人達による権力争いへと、最後は御家人であった足利尊氏が勝ち上がり鎌倉幕府が滅亡する事で権力は朝廷に戻る事に、幕府も鎌倉から京へと変遷する。
南北朝時代~室町時代という戦国時代へ。
権力を取り戻した朝廷ではあるがその朝廷が二つに割れ争う事に、この南北に分れた朝廷のどちらかに付き従う武家達も争いに巻き込まれていく、最終的に分かれた朝廷は統一されるが室町幕府が衰退した乱と言われている『応仁の乱』が1462年に起こり本格的な戦国時代へと突入して行く。
南北朝時代の幕開けと同時に武家の棟梁は足利家に移るもその力は徐々に衰え地方の豪族が各地で領地を他家と争いこの那須資晴が行った関ヶ原合戦迄戦が繰り広げられた。
やはりこうして見ると朝廷と宗教勢力にメスを入れなければ新時代を切り開く事は出来ないと言えよう。
史実での新しい夜明けは1603年の徳川家康が征夷代将軍に任命された事で江戸時代が開かれたと言えよう、この江戸時代も安定するまでは豊臣秀頼が大阪におり各地の大名達も秀頼参りに足を運ぶなど不安定な出発と言えたが大阪冬の陣、夏の陣にて決着した事で徳川幕府が本格的に始動して行く、が、やはり徳川幕府も権力を将軍に集中させていく事で親藩大名、譜代大名、外様大名と呼ばれる3つのグループ分けを行い統治を行って行くが鎖国政策と言う外国との交易は限られた狭き門となり国際的に見れば閉鎖社会となり徳川体制の維持を浮き彫りにした時代と言えよう。
最後はこの鎖国政策が仇となり列強各国から狙われ徐々に力が奪われ明治維新に繋がり徳川の築いた江戸時代は終焉を迎える。
資晴は玲子の知る歴史にリンクした事で過去から未来での出来事を知り得た上で準備期間を設ける事にした、一つは西国の家々に新しい田植え、塩水選による正条植えという田植えの方法を開示する事に、民百姓までもが東国のように米を食する事が出来る豊国にするという政策である、翌年の田植えを新しい方法で行う事で3割以上の増産が図れるという意味を知らしめることに、そこで徳川の三河の村々に西国の田植えに詳しい者達を派遣し教える事にした。
史実での徳川幕府は1603年、資晴のこの時は1591年、翌年の92年より食の豊国と言う政策を行う事で絶対的な支持を得た上で公家の解体に着手する事にした。
参内し帝に戦勝報告を行い四家にて安寧の世を創る政策を行う事、その為に朝廷からの許可を頂きたい事等を願い出た、帝からは征夷代将軍の内示を受けるもそれはまだ早いと言う説明を行い、世の騒乱を将軍と言う力で治めるのでなく政策で治めた上で新しい幕府を創ると言う構想を提示した資晴であった。
参内の後に五摂家主催の参議たちによる四家への饗応の場が設けられたが、この饗応の場こそ新たな支配者に取り込むという公家ならではのあの手この手の一つであると事前に山科殿より伝えられており決して言質を与えぬようにとの助言があった。
本来であれば関白が主催する饗応の場であるが秀吉は任を解かれ近江で蟄居しており五摂家が主催となった、手ぐすねを引いて新しい権力者に媚びを売り込む場であり富に群がる者達と言えた。
「このように華美なる場に東国の我らを招いて頂きました事を感謝致します、この大きな戦に勝利しました一因に皆様の安寧なる世を求めての願いが我ら東国の者に勇気を頂き勝利した由縁でもあろうかと思われます、これよりは帝を支え平穏なる国造り励みとうございます!!」
等々の挨拶を管領家の上杉景勝に行わさせ饗応の場が開始された。
長いテーブルに上座は官位有る五摂家の者達、下座に四家と重臣の者達であり四家の首座は上杉家であった、上座の主席は関白不在のため空白となっていたが、配席をみて一目瞭然の官位が低い者との差が浮き彫りとなっていた、それにはもちろん公家達の思惑が見て取れた席順であった。
「本日はこのような饗応の席をご用意頂き我ら四家の者達は皆様に感謝申し上げます、戦の無い世に大いに近づきました事を朝廷に仕える皆様と喜び合える事を大変嬉しく思います、五摂家の皆様へ感謝申し上げ致します」
「麻呂達は帝より皆様を失礼の無いように饗応するようにとの命を受けております、帝も戦が終わった事と平穏なる世が近づいた事に安堵されてた上、皆様に更なる朝廷への忠臣を願っての席を設ける事が出来ました事を我ら五摂家も寿ぐ次第でおじゃります!」
挨拶の中にも四家を下に見る言葉が隠れており中々にして厄介な者達との繋がりを考えた場合は戦とは違う不気味な者達との交渉がこれより始まると理解した一同と言えた。
饗応の場と言うのに露骨に戦の仕置に付いて五摂家より横やりが入る事に、それは秀吉の事であった、関白と言う位はここにいる五摂家と豊臣家だけが受ける事が出来る位であり、戦に敗れたとは言え何故に那須資晴殿が仕置の条件として秀吉に関白と言う位を返上させる条件が提示出来るのかと言う嫌味とも取れる横槍であった、要は武家の者が朝廷の役職を返上させる条件を含めるのは横暴であるとの嫌味を柔らかく横槍を入れられた。
「本日はめでたい帝の命による饗応の場ではありますが、関白の位返上については私が決めた事ですので、那須資晴よりお話し致しましょう、先ずは我らが知る関白と言う位の職は帝を守る事を第一とした帝の分身と言えます、内裏におわします帝に代わり五摂家の皆様及び武家の棟梁に何某かを命じたり意見を求めたりとその役目実に重くその責は帝にも通じる程の重要なる職と言えます!」
「秀吉は関白という位とその重責を担っているにも関わらず朝鮮出兵と言う他国侵逼の兵を上げました、皆様にもお聞きいたしたい、朝鮮出兵は帝の意志でありましょうか? 帝には努々そのような意志は持ち合わせておりませぬ、皆様も同じでありましょう、が、しかし関白という位を利用し兵権を使い西国の武家達を戦へと徴収致しました、この責は秀吉を関白と言う位を解かねば帝に責任が及ぶ程の重罪であります、日ノ本が朝鮮という国に戦を仕掛け大戦となる寸前でありました、秀吉の関白と言う位を剥奪せねば五摂家の家々も同罪となりましょう、帝が責任を追及され罪を補うには五摂家の取り潰しは当然、当主は獄門磔となり一族は根絶やしとなりましょう、それでも他国への侵逼への罰は足りぬと思われるでありましょう、帝の島流しは免れませぬ、これら朝廷への責を回避するには某が此度の戦を起した秀吉から関白職の返上を仕置に含めたのであります! お判り頂けたでしょうか?」
秀吉の起こした他国侵逼の責任という罪で帝もここにいる五摂家も処罰を受けると言う話に驚き顔色を変えた、雅な世界で世間と離れた浮世のとても小さい公家と言う世界の窓からは視野狭く責任を担うと言う自覚も果たしてどこまであるのか疑問としか言えない。
史実においても徳川幕府が発足して幕府より朝廷に対して力押しの改革案とも言うべき『禁中並公家諸法度』を制定している、所謂資晴が何度も取り上げている公家諸法度である、公家達による公家衆乱行の発覚、言葉巧みに他の公卿・女官、更には人妻をも誘い出し、様々な場所で乱交を重ねた悪事が発覚した事件なども諸法度制定のきっかけともなっている。
この諸法度は帝の主務、公家達の役割、官位に付いての公家と武家の決めごと、僧正、門跡、院家の任命叙任などが記載されている、この公家諸法度から更に宗教勢力に対しても寺院諸法度という決めごとを徳川政権では繋がっていく、史実における徳川幕府は武家が武家諸法度という制度がある以上、権力を持つ朝廷と寺院仏閣にも諸法度を制定した事は中身はともかくとして正しい方向と言えた。
饗応の場は当初こそ四家を下に見下した揶揄が込められた会話から後半は四家に媚びを売る五摂家の者達へと変貌していた、資晴も脅しばかりでは無く、公家の持つ荘園改革にも言及した事で公家達は大いに悦ぶ事に、長い戦乱で乱れた事で公家達が本来持っていた荘園の多くが失われたり荒れ果てた山野になっていたりと本来得る事が出来る石高より公家達は収入の多くを失っていた、自立できる公家は半数にも満たなく参内出来ない寄子の半家達は四方に遠縁を頼るなど生産性の無い公家は困窮していた、那須家にいる錦小路は稀の中の稀であった、そこへ何らかの手立てを行うと言う話に気色一面となる五摂家であった。
仕置を終えて今度は公家の解体・・やっかいな連中です。
次章「三寒四温」になります。




