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那須家の再興 今ここに!  作者: 那須笑楽
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関ケ原・・・終局



秀次は当秀長の希望は降伏と引換えに豊臣家の存続が唯一つであったが史実を資晴はある一つの懸念を抱いていた、それは秀次の存在である、今の秀吉には嫡男が病弱の鶴松であり不幸な事に翌年1591年9月に病死となり跡継ぎ不在となり甥の秀次(妹朝日の異父姉の子)を養嗣子として秀吉の後継者にし後に関白職を譲るが1593年8月に秀頼が誕生する。


問題は養嗣子とした関白となった秀次と実子の秀頼との関係が複雑に絡み合い秀次の立場が徐々に追いやられていく事と、もう一つ大きな問題として秀次の性格が災いする事になる。

時21才という若さであり特段功績がある訳でもなく豊臣家存続のために秀吉の養嗣子という立場であったが好色という秀吉の性格を受け継いでおり手あたり次第立場を利用して側室を増やしていた、その数は正室の外に33人という途方もない側室を得ていたと言う、紛れもない好色の持ち主と言えた。


又、愚かにも突如秀吉の後継者となり関白職となった事で数々の暴挙とも言える噂が巻き上がる、尾ひれ派ひれが付いた暴挙もあるであろうが、異常人格者という内容の暴挙、弓矢の稽古と称して人を射殺す、鉄砲の練習と言っては農民を射殺、刀の試し斬りをするために辻斬り、これを自ら関白千人斬りと称していたという悪行説。

秀吉に与える予定の側室を横取りしたという横取り説。


その他秀吉との関係が悪化した事により謀反説及び秀吉暗殺計画などの説が・・・そしてこれらの秀次失脚の企てた者は石田三成という説など、事実だけを取り上げても側室を33人設けるなど政に関心を示さずに享楽に耽っていたという説は正しいであろう。


要は秀吉の後継者としてはこの時点で秀次は候補者から外す事が妥当と考えた資晴、では豊臣家の仕置きをどのように決着を図る事が良いのか? 関ケ原合戦を終えた今の時点では秀吉は存命しており当主として据え置きし、後に秀頼が誕生した時に隠居させる方法しか無かった。


甘々の仕置きと評された理由に秀吉の当主と言う立場が据え置かれた案と豊臣を支えた子飼いの者達の処遇でも領地は召し上げられているが改易は見当たらず、その者達は秀吉の領地として長浜城を居城とした近江半国の中に組み込まれていた事も甘い仕置と評されていた。



「近江の国は某の越後側である、そこへ豊臣の者達を押し込めると言う案でありますが危険はありませぬか? その昔は浅井、六角などにより戦が絶えない所で御座った、半国とは言え30万国であれば浪人を多数呼び集め乱と成らぬであろうか?」



「上杉殿のご懸念は御尤もであるがそれを防ぐ為に豊臣家で抱える事が出来なくなるであろう浪人達を救う為に西国の家々と我ら東国の家々で抱える予定なのじゃ、侍とはこの戦国では主家を否応なく変遷する事は多々ある、家を守る為に侍達も必死である、新しい主家で仕える事になれば旧主に恩はあれど裏切る者は少ないであろう、江戸の開発はまだ緒についたばかりである、豊臣から取り上げる大阪も整えなくては成らぬ、御所の再建も必要であろう、多くの課題と困難はこれからである、仕置きを厳しくすれば余計に時間を要する事になる、多くの家に普請による協力が必要となる、それには労力となる侍達も必要となるであろう! 如何ですかな?」



「ここに示されている仕置の案に示されていない勝った側の恩賞はどうなりましょうか?」



「先ずは仕置を行いそれからと成りましょう、ここにいる四家は新しい国造りの仕組みと幕府を開かねば成りませぬ、領国は富に溢れております、今更恩賞など必要ありませぬ、戦で滞っていた交易も広げます、朝鮮との誼も新たに結ばねば成りませぬ、砂糖の増産も倍々で増やさねば成らないでありましょう、それらが滞れば全ての責任が新しい幕府に向かいまする、我ら四家の責任は途轍もなく大きい責を抱える事になります!」



「・・・寒気がして来ましたぞ、余り脅かさないで頂きたい、仕置についてはやはり資晴殿が示した案をもとに詳細を練りましょう、上杉家はそれで納得致します!」



資晴の説明に仕置より今後待ち受けている課題の責任に三家の当主は頭を痛めていた、これからが試される本番を迎えるという意味を悟り、この戦の後が本当の試練が待ち受けていると今更ながら気づくのであった、資晴は460年先の者との繋がりがある者であり三家はあくまでもそれを信じ資晴と繋がる者との差であった、結局仕置の主な内容は資晴の案をもとに若干修正されたが以下の通りとなった。


豊臣家は近江半国30万国とし、居城は長浜とする、秀吉及び秀長の官位は返上とし、子飼いの者達の領地は召し上げを行い豊臣家に組み入れる、当主は当面秀吉が引き続き行う事に落ち着いた。


その他の多くの秀吉に従った西国の家々は関白の命に従ったと言う名目でほぼ現状に近い戦前の領地とした、但し今後四家が命じる普請夫役を行うという内容に落ち着いた。


例外として大友家はこれまでに多数の日本人を南蛮に奴隷として売買した罪として大友家は島津にて預かりとした、ほぼ改易に近い処置を行った。


資晴は以前より南蛮に改宗しない者を強制的に奴隷として売りさばき戦費を調達していた大友宗麟を蔑視しており代替わりしたとは言え悪しき家として処罰する事にした、当然と言えば当然であろう。


明け渡された大阪城は四家にて預かりし当面は西国の監視のために兵を駐屯させた、戦後は特に敗戦した家々の領内に山賊などの野盗が出没し村々が荒らされる事は常であり、それらを防ぐ為にも秀吉の居城であった大阪の地は巡回警備が必要であった。


関ヶ原合戦を経て凡そ三ヶ月後に仕置が発表されそれぞれの当主達は四家に約束を守るという内容の誓紙を提出し領国に戻ったが、何故か島津だけが戻らずに資晴に面会を求めていた、その理由を知る資晴も仕方なく応じる事に。



「中々時間が取れずに待たせたのう島津殿! なにやら些か仕置に不満があるとの事、何なりと腹の中にあるものを遠慮のう出して下され!」



「先ずは先の大戦 那須様見事な大勝利おめでとうござります、史上稀にみる大勝利でありました、この島津心服つかまりました、重ねておめでとうござります!」



「歴戦の将に誉の言葉痛み入ります、して島津殿がお聞きしたい事柄は何でありましょうか?」



「これはしたり、ご聡明な那須様であれば充分にお判りでありましょう、説明など不要かと思われます」



「あっははは、某は愚鈍でありまして何故に島津殿が領国に帰らぬのか訝しんでおりました、勝手ながら思案した処、戦で味方したはずなのに恩賞が無いとの理由で領国に帰らぬなどと、まさかまさか、そのような理由では、実に失礼なる思案であり未だに帰らぬ理由が判らないのが本音であります、差し支えなければお教え願いたい!」



将たる者、自ら恩賞が欲しいなど本音を言える筈もなく徐々に見透かされている事に無口となる島津義弘であった、ここは一旦引き下がった方が賢明であり後日黒田を通して恩賞を求めるべきと判断に。



「いやいや領国の九州は某の島津と黒田殿で那須殿に逆らえぬ様に威圧しております、西国の者達が家々に帰れば驚くでありましょう、領地も広がっている事でありましょうに!!」



「これはしたり、島津殿のもとにまだ文は届いておらぬのか? 成程であれば・・そうなのか・・・実は島津殿と黒田殿で抑えた九州の家々は既にほぼ元通りに西国の家々に戻す手配となっており折角抑えた他家の領地は手放す手筈になっておる、本家と黒田殿は既に承知しておるぞ!! ・・・ではあれの事も知らぬのか?」



顔色を失い島津家の領地も戦前に戻ると知ったと同時に義弘は憤りへと顔を紅潮する事に。



「那須様! あれの事とは何でありましょうか?」



「ここだけの話であるが、島津殿の家と黒田殿の功績が大きいという事で今後の政の中枢に島津家と黒田家を取り入れる事にしたのじゃ、何れ新しい幕府を開く、その時に評定衆の一角としてこの日ノ本の政に参加して頂く話を今頃は黒田殿が本家に説明しているかと思う、両家は武勇に優れ時局を読み取れる数少ない家である、領地など広げても意味は無い、それこそ領地はこの日ノ本でありその責を担って頂く予定なのじゃ!!」



「えっ! ????・・・・日ノ本の新しい幕府? 評定衆???? この島津家が・・・・」



「これ・・大丈夫か島津殿!! これからの世は領地を倍にしても意味は成さぬ、何しろ戦が無くなるのじゃ、そんな事よりこの日ノ本全体が大事なのじゃ、島津殿であれば判るであろう!!」



言葉を失い首を上下に振る可愛い島津義弘がそこには身を屈め座っていた。


那須資晴の目は既に新しい幕府へと向かっており戦の恩賞を求める島津とは次元がかけ離れており義弘も自らを恥じらう他なかった、島津家は戦国九州の覇者である事は紛れもない事実であるが天下人を目指した家ではない、故に太平の世を創るという発想はこの時点では全く持っていなかった、当然と言えよう。


資晴に諭され新しい幕府の中で評定衆という話には正直驚いたというのが本音であり島津家の役割に大きい責任が伴う事も理解出来る話であった、その点は実に愉快であり自分の島津家が九州の端にいる島津が中央に躍り出る話には夢のある話とも言えた、資晴との謁見で恩賞は捨て置いても充分島津の誇りを保てた会談となり満足して帰還する島津義弘であった。


仕置という編成の中で一つ大きい動きがあった、それは織田家の復活である、織田家を尾張一国として当主を嫡流の三法師にするという事に、いわゆる織田信秀を当主とし織田家復活をする事になった、条件付きではあるがこれにより豊臣家から引きはがし本来の形にしたのである、それとは別に岐阜である旧美濃の国は三家預かりとし後に新しい当主に引き継がれる事にした、さらにもう一つ三家側である徳川家に三河の隣となる知多半島の領地が割譲される事になった、長年の功績と尾張との接点となる地であり徳川家の石高を増やす目的で知多半島が三河に編入する事になった、これにより徳川家も50万石を超える家と成る事に、開発を行う事で60万石の家にも手が届く事になる。


資晴の仕置きは新しい幕府を見据えての争いの無い国造りであり、富める国へと大きく舵を切る事であった、朝鮮などの外にある国を侵略しても得る物は少なく一時成功したとしても続かない事は明白であった、日本と言う国は大陸の中にある国家ではなく列強の国々と争う必要のない立地に恵まれた国と言う利点を最大に生かす国造りが必要であり、それが戦国によって100年間無駄に富を失い続け、血を流し続けてしまったために国力と言う点では人々が辛うじて生きているだけの状態と言えた、史実における秀吉はそんな中であっても他国侵略と言う愚かな政策と虚栄の為に次から次と巨大で華麗なる城を築城し浪費に費やし、虚栄という悪霊に取り憑かれた愚かしい最後を迎え国造りという基礎の仕組みが弱く結局は家康の天下へと移り変わっていく、史実を知る資晴はこの仕置を経て強固な基礎固めに舵を切る事に。


仕置を経て、次は何をするかですね。

次章「公家の解体」になります。

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