関ケ原・・・辞官納地
自らの命を差し出し豊臣家滅亡を回避すべく会談の場に臨む大納言秀長、その顔にははっきりと死相が見て取れた。
史実における秀長はこの翌年、1591年2月に病死でこの世を去る事になる、秀長の病名は判明していないが1590年頃より高熱を発し病床に臥せり療養生活となったとされる、その結果表舞台から去った事で秀吉の暴走がより強権という形で現れる事に。
1591年、鶴松が病死、同年四月、千利休を堺に追放し切腹を命じ、甥の秀次に関白を譲り、秀吉は太閤となる。
1592年、反対勢力を押し切り1回目の朝鮮出兵『文禄の役』を行う、大政所母親の仲が亡くなる。
1593年、秀頼誕生。
1594年、伏見城を築き始める、前年に秀頼が誕生した事で関白となっていた豊臣秀次が切腹に追いやられる、罪名は謀反の罪とされ、京都三条河原で公開処刑された、秀次の一族39人が次々と、その中には幼い子供5人も槍に突き刺され果てたとされる。 (尚、諸説あるものの主導者は三成であったと)
1597年、サン=フェリペ号事件により長崎でカトリック信者が磔の刑に処された、同年、2度目の朝鮮出兵『慶長の役』を行う。
1598年、8月豊臣秀吉没する。
秀長が存命であれば千利休も甥の秀次も罪に問われたとしても存命出来たのでなかろうか? 又、歴史物ではあまり紹介されていないが秀吉はフィリッピンを征服する為の開戦準備を行っていた事実もある、晩年の秀吉は支配欲に侵され死ぬまで走り続ける事に。
── 辞官納地 ──
「大納言殿! 此度の戦に付いて降伏し和議に応じたいとの申し出、関白殿は承知しているのであろうか?」
「御尤もなご懸念ではありますが、某の兄関白秀吉には既に此度の件で某が全権委任されたと承知しております、仮に兄秀吉が関白の命にて和議条約を反故にされたとしてもそれに従う者はもうおりませぬ、配下の者達は既に前田利家が抑えており関白の命を受ける者は只の一人もおりませぬ! どうか某を信じて頂きたい!」
「では聞くが大納言殿はこの戦の始末をどう付けねばならぬとお考えか?」
「この始末のけじめは某の命と引き換えに降伏と和議を結びます、某の命は間もなく尽きるでありましょう、その命と引き換えに和議を結んだと言う事であれば兄亡き後の世も豊臣は結ばれた内容を守る事になりましょう、それと些か存命出来る領地を官位を返上する代わりに御目こぼしを頂ければと縋る思いであります!!」
「・・・豊臣の家を守る、いや護るという訳でありますな!! それにしてもその代償は・・・某は一昔前の秀吉殿をとても懐かしく人として優しく愛くるしいお方であったと、信長殿がお亡くなりになり何時しか織田家が秀吉殿の手に落ち天下人に昇るに従い人と言う仮面に邪が入り込み別人へと成り申した、実に残念であり慙愧な事と言える、一命を賭して支え続けた弟である大納言殿も実に不幸な事である!!」
「恐れ入りまする!!」
「秀長殿の希望に添える様に尽力するが今しばらく時が必要である、それまで済まぬがこの戦に参戦した家々の当主の身を三河殿の城にてお預かり致す、付き従った兵達には兵糧をあてがい国元に戻るよう手配を頼む、某の願いは戦を無くし安寧な政を全ての領国でも行う事であり、その家の中には豊臣家という家もあるという事である、大納言殿! その命尽きる事になるやも知れぬが某に力をお貸し願いたい!!」
「那須資晴様!!・・・忝け・・忝のう御座います!」
身命なる申し出の秀長に対して那須資晴の心もその痛みに寄り添った、戦の仕置き成敗は簡単な事ではあるが、その結果が今後の歴史に問われる事であり幾数十年、幾百年という悠久の時の流れに耐える事が出来る仕置にしなければならず、強靭なる基礎作りの第一歩が関ケ原合戦の後始末と言えた、どう決着を付けるかで後の世の結果に繋がる大事な采配であり、一世一代の満天下が認める決定を決済しなければならないと資晴の心は覚悟を決めたのであった。
病をおしての懇願とも言える秀長の切々と訴える直訴とも言うべき豊臣の家を残したいと言う訴えは図らずも実現する事になる、その大きな切っ掛けは関ヶ原合戦開始前に側室の梅が戦に勝利し関白を亡き者にした場合の懸念であり民から支持されている秀吉に対する神秘的な対象を奪った怨嗟が資晴に向かう事は絶対に避けねばならないと言う理由であり夫である資晴に向かうそのような仕打ちなど絶対に認められない事であった、男達の武将としての性からの仕置き判断では歴史は繰り返される、梅の訴えは女性としての本能からの訴えとも言えた。
現代社会においても男性の意見が主であり絶対的な支配がされている社会では小さい部族であっても必ずと言って争いが生じ民族浄化という殺し合いが後を絶たない、しかし、それとは反対に女性が力を持つ社会では過去に部族同士の争いがあったとしても争いは減少傾向をたどりやがて話し合いにより解決方法を模索し殺し合いなどに発展しないという事象がアフリカなどの少数民族では実証されている、戦国期の社会では武力こそ力であり権威という強烈な男尊女子の仕組みの中で梅の意見が通る理由はこれまでの多大な功績を示した那須家ならではの特別の事情と言えた。
戦が終焉した事で一番の問題は関白であり豊臣家をどのように扱うのかという事であり、勝利した側であっても敗北した側であってもお互いが拳を下ろす事が出来る和議が必要であった。
秀長の示した降伏の条件は官位を返還する事でなんとか豊臣家という家が存続できる領地だけは残したいと言う一塁の望みではあるが、豊臣家に連なる七本槍の処遇もそこには関係して来る。
史実では秀吉が亡くなり徳川の治世となるが関ヶ原での仕置が不十分となり大阪冬の陣、夏の陣へと続く事となり豊臣家は滅亡する、家康の失敗は敗北した西軍の家々を改易し20万人以上の浪人を生み出した事で大阪の陣が結果的に始まる事になる。
中途半端な仕置は後の災いとなり争いに繋がり戦に発展してしまう、その一番の被害者は民である事に間違いはない、それを回避する為の仕置に独り苦労する資晴であった、その苦悩の最中に師匠である幻庵が資晴のもとを訪れた。
戦を終えて西軍の各家の当主達は家康の岡崎と浜松の城に分散して監視された形で逗留されていた、仕置が決まるまで身柄を東軍監視下のもと過ごしていた、病床の秀長とて例外ではなかった、東軍の主だった当主は再建された京の二条御所にて戦の仕置及び今後の政を連日話し合っていた、そこへ幻庵が訪れた。
「お師匠様! 態々のお足のお運び申し訳ありませぬ! 見ての通りであります!」
「・・戦に勝利した筈の資晴殿よ、何故そこまで疲れておるのじゃ!! その姿では示しがつかぬではないか、きっとお主の事ゆえ仕置に心を痛めているのであろう? 其方の思うままで良いのじゃ、誰も逆らわぬ、安心して仕置を行うが良い!!」
「師匠には隠せますな、心が苦しゅうて成りませぬ、仕置きをしたくありませぬがせねば東国の皆が納得せぬと思うと苦しくなるのです!」
「実はのう其方の母上様より文を頂いたのじゃ、資晴は幼い頃より神童として那須家を支え家を大きくして来ましたが、家が大きくなればなるほど独り苦しんで来ました、それは今も同じあります、神童などと言われる度に背に荷物を背負い歩み耐え続けそれでも歩みを止めずに今日に至ります、母親は何時までも母親であり子はどこまでも子であります、資晴の苦しみを母である私に分ける事が出来ればどんなに嬉しい事であろうか、幻庵様も北条家の苦しみを背負ったお方であるとお聞きしました、資晴の苦しみを些かでも和らげる何らかの手立てがあればお教え願いたく切実に教えを請い願いまする幻庵様へ!!」
「という内容の文が届いたのじゃ! 素晴らしい母親を資晴殿はお持ちである、前にも伝えたが上に立つ者は誰であれ孤独なのじゃ、力を持つ代わりに孤独と戦わねばならぬ、その苦しみの手助けは誰も出来ぬのじゃ、これだの大戦であればそれに比例しての苦しみが伴うのは当然の事である、儂はその苦しみを抱えたのが資晴殿で良かったと、実に喜ばしいと天に感謝しているのじゃ、苦しみ抜いた先に明星が昇るであろうと、そして世の人々は希望ある日輪に手を合わすであろうと、きっとそうなるに違いないと確信しているのじゃ、その事を儂は伝えに来たのじゃ! 案ずるな悩み苦しみ抜いて仕置をすれば良い、資晴殿が導き出した仕置を行うのじゃ!! 仕置に悪態を垂れる奴は追加で仕置をすればよい、な~に儂が盾にも鉾にもなるゆえ安心して差配するが良い!!」
「お師匠様!! ありがとうございます、勇気が湧きました、母上様にもご心労をお掛けしていたとは恥じ入るばかりです、某もまだまだであります、心が軽く成り申しました! 態々の御足をお運び頂いて申し訳ありませんでした!」
「な~に!! 実は最近又新しい若い女子が出来たのじゃ、折角だから秀吉の顔を拝みに来たのじゃ!! 女子達と一緒に物見遊山で来たのじゃ! あっはははははー!」
幻庵が訪れた事で資晴は心に決めていた仕置内容を上杉家、北条家、小田家の当主に説明する事にした。
「某の思案しました仕置内容であります、皆様より事前に某に一任するとの了解を得てはおりますが、些か甘い仕置かと判った上での案であります、決定ではありませぬので吟味願います!」
「・・・・これは・・・いかん・・・甘々じゃ・・・本当に甘い・・・どうしてこの様な仕置と成りましたか、是非教えて下され!?」
「この案では我らは本当に勝ったのであろうかと見間違うほどの仕置きという事を御考えなのですね北条殿!!!」
「如何にもその通りじゃ、小田殿もそうは思わぬのか?」
「一言で言えば、良くもまあ―ここまで甘い仕置に落ち着いたと・・流石資晴殿であると感じ入っておりました、日ノ本広と言えども此処まで甘い仕置案を堂々とご提示出来るお方は資晴殿だけでありましょう、きっと大きい意味がそこには隠れていると思われます! 資晴殿我らに遠慮せずお心のままご説明下され、氏直殿もご承服されるかと思われます!」
「お待ち下され! 某は資晴殿に意見があるのでは御座らぬ、ただ此度の戦で那須家の皆様が死傷者も多く見受けられるのに恩賞とも言うべき手柄を放棄している事に驚いているのだ!! きっと上杉殿もそうでありましょうに?」
「・・いや勝手に軍勢を率いて参戦した身でありますが、どうしてこの様な仕置の案になってのか只々不思議に思うておりました、出来る事であればその理由をお教え願いたい!」
資晴が示した案は西国の家々をほぼ残す案であり領地没収などの改易は無いに等しい案であった、特に豊臣家は石高は減るものの近江半国という減封であっても30万石も与え残す案であった、それと更に驚いたのは尾張を織田家に与え当主はまだ幼少ながら三法師に与え筆頭与力を柴田勝家とする案も示されていた、要は明確に織田家が復活する事と豊臣家を別物として再興した案であった。
更に大阪は今後幕府が作られた際に西側の拠点となる幕府直轄地として召し上げる事が示されていた、資晴の今後の施政中心地は江戸と大阪の二大拠点案が示されいた、将軍となる者は江戸に、副将軍は大阪という仕組みであった、その為に西国の家々を残し力を無駄なく国政に仕向ける案であり、傍目に見た場合実に甘々な仕置として映る事に成った。
「成程! 資晴殿は西国の家々を態と残し幕府と言う礎の普請に協力させ街づくりを行わせる訳でありますな!! して豊臣家に30万石という破格の石高を残す意味は何でありましょうか?」
争いの起きない仕組みを作るって言葉では簡単ですが・・・大変としか言葉が出ません。
次章「関ヶ原・・・終局」になります。




