関ケ原・・・13
掲載投稿するまでに少し時間を要してしまいました、お墓参り等何かと用事があり時間を頂きました。
お許しを!。
那須資晴がいる本陣前方では異様な状況が生まれていた、那須軍が放った粉塵爆弾による爆風が余りにも凄く関白側の車掛の陣にいた兵のほぼ半数が地に伏しており、約300間離れていた那須本陣にもその衝撃派が伝わり兵達は立っている事が出来ずに地面に身を屈めるしかなかった、那須資晴も床几に座っていたが後ろに飛ばされていた。
粉塵爆発による衝撃は方円の陣を率いていた関白にもより近い距離であったために多くの者が飛ばされていた、勿論その中には関白秀吉も含まれていた、直撃を受けた者達は一瞬にして昇華し命を失い、他の者の多くは那須軍も含め地に伏していた、実際に戦場で粉塵爆弾を使うのが初めての事であり生き残った者達も全ての事を自分が今何をしていたのかを忘れる程の衝撃でありその場から動けぬ事になってしまった。
想像を絶する事が目前で起きた場合に人の思考は止まってしまう、何が起きたのかすら理解出来ないからである、ようやく先に正気に戻ったのはやや距離が離れている那須本陣側であったが、全ての攻撃は止まっており那須の兵達もどうしてよいのか判断出来なかった。
「忠義! 半兵衛! 大丈夫か? 他の者は大事ないか?」
「・・・なんとか大丈夫のようで御座います、御屋形様はどこぞ怪我などありませぬか?」
「大丈夫じゃ!! ちと床几と一緒に飛ばされただけじゃ!! それにしても危険すぎるのう、こんなに危険な爆弾であったのか、ちと怖すぎる!! 関白側も大変な被害であろう、戦場にいる騎馬隊を一度本陣に戻らせよ、関白側も今押寄せる事は出来ぬであろう!!」
結局この一度の粉塵爆弾による爆裂による関白側の死者は1万を優に超え怪我人を含めれば2万に達していた、辺り一面に死者が伏しておりその惨状は戦を継続できる状態では無かった、関白側が無理強いして戦うには死者を踏みつけて那須側に向かうしか無く如何に戦国時代と言えどもそのような事は出来ない状況であり那須側からの攻撃も止んだことで関白側も本陣に戻るしか無かった。
関白側が本陣に戻った事で夕闇迫る中ではあったが資晴の指示により目の前で亡くなっている関白側の死者を戦場の横に安置する事にした。
一度の脅威的な爆弾によって2万あまりの死傷者が出た事で只ならぬ事態が起きた事を那須側も衝撃を受けていた、被害を受けた関白側は言葉で言い尽くせない衝撃となり関白の相貌は精気を失い黒々としていた頭髪は色を失い変色していた、粉塵爆弾による爆発と連想される兵器がある、その殺傷能力が凄まじい事からジュネーブ条約で禁止されている燃料気化爆弾と呼ばれる兵器である、基本的な仕組みは粉塵爆弾と似ており広範囲に無差別に被害を与える事から無慈悲な兵器として禁止されている、半径500m程の周辺へ高温の爆発を起こし、地上にいる者へ一気に10気圧以上の爆圧が及びその圧力によって2千度以上の高温となった爆風が人々を襲うというとんでもない兵器である、仮に建物などにより直撃を免れても高温となった爆風に襲われれば広範囲な火傷を負い戦闘継続出来ない程の重症を負うとされている。
恐ろしい攻撃となった粉塵爆弾によってこの日は戦継続は両軍共に戦意喪失となり翌日に備える事になった、だが関白側の一部の武将は今日中に決着を付けなければ勝機を失う事を充分に知っており密かに動く者がいた、粉塵爆弾がさく裂した際に後方より前方に向かっていた途中の立花勢は比較的被害を受けておらず、爆風の被害から免れていた、那須側も戦意を失っていると判断し夜襲を仕掛ける絶好のタイミングとの判断であった、関白の許しを得ようと謁見を求めるも陣幕に籠り謁見は許されなかった。
── 誾千代 ──
立花宗茂と言えば若くして亡くなった奥方の誾千代の名前が浮かぶ、僅か7才で家督を受け継ぎ女子でありながら女城主となった立花誾千代である、父である立花道雪には嫡子がおらず当時主家であった大友宗麟の許可を得て娘である誾千代を嫡子とし城の家督を受け男子として教育を受け勇猛な城主として育ち、後に宗茂を婿養子として迎え立花性となった、その奥方である誾千代が立花軍に別動隊を編成して従軍していた。
誾千代は宗茂を婿養子に迎える以前に数々の軍略を学び居城の立花城には女軍と称する女性を中心とした戦闘部隊が存在した、誾千代が城主としている地は筑後国山本郡という地に城があり九州の激戦地であった、その地で城主として何度も戦に参戦している、逸話として『大友文書』によると、戸次伯耆守《誾千代の父親》は大友宗麟の重臣なれど、矢傷にて脚がくさり衰えたり。されど娘ありて勇壮。城内の腰元女中、五十名ほど訓練し、戦初めには一斉射撃をなして敵の心胆を奪うという記述がある、他にも激戦地であった事から島津とも戦った事がある、天正14年島津氏の大軍立花山を包囲せしとき、又は慶長5年八の院戦争の際、姫は鎧を着け薙刀を提げ女軍を編成して一方を防禦して遺算なからしめたり。又其の能く士卒を救護愛撫せし為皆一命を捧げんことを願へり。此の如き才幹は恐らくは女王国卑弥呼の及ぶ所にあらざるなり。という記述が残っている。
西国一の美女とも称され秀吉が何かにつけ手を付けようとしていた、宗茂が文禄・慶長の役で不在の間、秀吉は誾千代を言葉巧みに名護屋城に呼び寄せ手込めにしようとしたが、それを察知した誾千代はお付きの女中に鉄砲を構えさせて護衛させ、また自らも武装をして乗り込んだ為、それに恐れをなした秀吉は手も足も出なかったとされる。
その誾千代が夫宗茂に何も言わずに夜襲の動きに合わせて戦闘部隊200名を率いて闇の中に消えた。
「忠義様!! 起きておいででしょうか? 御屋形様は寝ている様なので!!」
「うむ、如何した、何か変事でも・・」
「はっ! 敵勢全体は静かなれど敵の一角に動きがあります、念の為お伝えに!!」
「解った、動きがこちらに向かうようであれば夜襲であろう、逐次報告致せ、それと一豊をここに!!」
決戦日となったこの日夕刻前に那須が放った粉塵爆弾により一瞬にして関白軍の車掛り陣の半数が崩壊した事で戦が終了したいたがその夜深夜0時を過ぎた頃に立花の軍勢が夜襲を強行しようと動き出していた、那須資晴も警戒態勢は解いていなかったが就寝していた、そこへ小太郎から敵勢の一角に動きありとの報告が入った。
戦時におけて陣が完成している場合の夜襲は主に敵を混乱させ不安を煽り休ませぬという体力を奪う目的が主であり川越夜戦の様に敵勢を敗北に追いやると言う夜襲は稀な事であり忠義も仮に夜襲があっても当主である那須資晴に知らせる迄も無いと考えた。
ところが本来夜襲は少数で編成される処、立花宗茂は自軍で無傷の2万を使い、それを5隊に分け四方から那須本陣に突っ込ませる事にした。
「良いか! これより速足にて敵陣本体に突っ込む! 鎧兜など無用じゃ! 身軽にして飛び込むのじゃ! それぞれが四方より一斉に那須資晴を襲うのじゃ! この暗闇では敵も弓を放てぬ! 何しろ敵陣に入ったら動き回れ! 最後儂の本隊が混乱に乗じて止めを刺す、時あらばその方らも遠慮せずに敵将の首を狙うのじゃ!! 敵は黒衣の狩り衣装束だ! 此度は負け戦である、であるならばこそ我ら立花の華を戦場に咲かせようではないか! 大友家の下風にいた我らは殿下に見出され一国の主となったのじゃ、島津とてあのように反旗となったが意地を示しておる、残念ながら関白殿のお味方衆は当てに出来ぬ、よって我らの死に場所と覚悟致せ! 今宵関ヶ原に立花と言う華を咲かせよ!!」
立花宗茂の名は現在でも良く知られる武将であり九州を代表する武勇優れたる将として名を響かせている島津軍2万と一歩も引かずに戦った話など逸話が多数残されている。
── 油断 ──
那須資晴はこの日に行われた粉塵爆弾による死傷者の数が余りにも多かった事に驚きと本当にこれで良かったのかと言う後悔の念が生じるも、それ以降関白側の戦闘が無くなった事で安堵していた、資晴としてはこのまま終結を願うしかなかった、忍びからの報告も西軍が受けた衝撃は大きく全体が意気消沈しておえり関白は陣幕の奥に隠れており兵に至っては三々五々に勝手に休息しており指揮する武将までも似た様な状況であると報告を受けていた。
報告の中で島津家が裏切り関ヶ原奥深い地で関白側の兵4万を相手に戦っていたが地の利を得た陣を構築しており善戦している事も伝えられていたが、島津家を調略をした訳では無く西国の複雑な事情から独断で反旗となる行動を取ったのであろうと理解していた。
しかし資晴は大きな勘違いをしていた、報告を聞きこれで戦闘が集結するであろうと楽観視した事で結果那須軍全体に緊張が緩みいつしか大きな瑕疵を作り出していた、これまでの戦闘で圧倒的に戦闘を進めており既に関白軍は仮死状態と判断した事で取り返しのつかない油断が生まれていた。
それとこの1590年に行われた関ヶ原戦と史実の関ヶ原では10年の開きがあり、その違いの中で武将達の武威とも言うべき武将としての格が育ち切っていなかった、特に関白子飼いの加藤清正、福島正紀、加藤喜明、宇喜田秀家、小西行長等の名だたる武将達はまだ育ち切っておらず立花宗茂のように自ら判断して動く事が出来なかった、子飼いゆえに関白からの指示が無いと動けず、それを束ねる役目が前田利家であった。
その前田もこの日の深夜に異変に気付き関白の許可なく立花の後を追う事に。
「これより立花家全軍にて夜襲を仕掛ける、それぞれ四方より地面を這いずり近づくのじゃ! あの一番燃え盛っている篝火に那須資晴がいる、途中におる邪魔建てする兵に気を取られるな、篝火は全て倒して行け、暗闇の中で戦うのじゃ!! 良いな!!」
「殿! それでは我らも同士討ちとなりますが?」
「大丈夫じゃ! 奴らの眼は篝火の火に照らされ馴れておる、我らは暗闇の中近づく事で夜眼となって近づく事で有利となる筈じゃ! 同士討ちするは那須側である、接近戦となるゆえ身軽にして動き早く立ち回るのじゃ! 良いな!! これより夜襲を仕掛ける!!」
── 夜襲 ──
「何事じゃ!! 人影が動いている・・・ 何故篝火が倒された?・・・あれは・・・夜襲じゃ!! 夜襲でござる・・・敵襲であります!! 皆の者敵襲でござる!!!」
突如始まった立花勢による夜襲、誰もが耳を疑うも警戒にあたる者達が四方より敵襲だとの声で本当に夜襲が行われている事を理解し那須軍全体が騒然と騒めき始める。
夜襲は守る方より攻撃する方が有利とされているが守る方に備えがある場合は攻撃する方が逆に手痛い被害を受けるケースも多々ある、先にも述べたが戦国時代での最大の被害を敵に与えた成功例は川越夜戦と呼ばれる夜襲がある、当時の管領家である上杉憲正を盟主とする連合軍に北条が行った夜襲で一万数千名の死者を出し大成功となった有名な夜襲戦がある、この夜突如始まった夜襲はそれに劣らぬ夜戦となる事はこの時は誰も予想だにしていなかった。
「小太郎! そちの申した通り本当に敵勢が夜陰に乗じて押寄せて来たと言うのか!! 一豊には万一に備えて御屋形様を守る様に念は入れておるが2千程しか兵を配置しておらぬ、いずれここに敵勢は押寄せるであろう! ここは平地の本陣じゃ、危険である! 今直ぐに動ける2千を空本陣のある南宮山に御屋形様をお連れしろ、儂がここに残り本陣に御屋形様がいる見せかける、急ぎ御屋形様を安全な南宮山にお連れするのじゃ!! お主達鞍馬も共に行き御屋形様を御守り致すのじゃ!! 」
「一豊及び各隊に伝令!! 全軍に夜襲警戒を致せ、敵勢を発見したら殲滅せよ!!」
那須軍8万は決して少数では無く大軍であり備えさえしっかりしていれば夜襲などびくともしない軍勢と言えたが西軍に戦う気配無しとの報告を受けており警備の者以外休息しており当然の状況と言えた、小太郎からの事前に敵の一角に動きがある事は報告を受けてはいた為、当主である那須資晴が休む陣幕周辺に2千の兵を配置だけは念の為に配置していたが、実際に夜襲が始まった事で安全な南宮山にある空陣地に移動する事にした。
電気が無い時代の夜陰に乗じての夜戦は想像しただけでも怖い物がありますね。
次章「関ケ原・・・14」になります。




