303 関ヶ原・・・3
「半兵衛! 不思議と思わぬか? 何故攻める側の関白があのように馬防柵を敷設するのじゃ、兵力の少ない我らが行うなら理解出来るがどうしてじゃ?」
「あれは心の現れでありましょう、小田原での戦で那須家の騎馬隊が蛇行で突入された被害を被った経験から騎馬を寄せ付けぬ為でありましょうが、それにしても馬鹿な戦略と思われます!!」
「あれでは打って出る時に邪魔になるぞ! この野原の大地に籠城でもする気なのか? それとも長期戦と考えているのか?」
「あの柵は外壁であり北条、小田が参戦する事を視野に入れての城構えなのでありましょう、関白殿の戦はこれまでも力押しではありませぬ、力押しを苦手にしております、それゆえ臨機応変出来るようにあそこまでの馬防柵を用意したのでありましょう!!」
「では此方から動かねば動かぬという事か?」
「恐らく!!」
「馬鹿な!! 20万もの軍勢を引き連れて半数以下の我らが先に動かねば対応出来ないと言うのか? 儂が逆の立場で動かぬ事を父上が知ったら張り倒されるぞ! 戦は遊びでは無い、生き物ぞ! グズグズしている間に勝ちが逃げて行くと言われ叱られる!! ・・・ で半兵衛よ、我らは何時動く!!!」
「明日夜明けと共に弓にて敵陣を襲います、馬防の内側にいる兵に那須家の弓を披露するが宜しいかと思われます!!」
遡る事二日前、関白軍は事前に得た情報に基づき関ケ原の西側が空白地帯となっており西軍側の陣地構築を急ぎ行いこの日で三日目となっていた、小田原戦で那須との戦いで矢を盾で防いでも蛇行で突撃する騎馬隊に痛い目に遭わされており、その対処として三日間で長大な馬防柵を作り上げていた、この戦に豊臣家の軍師であった黒田官兵衛の姿は無い、小田原敗戦の責を取り秀吉の下を去っている。
秀吉が史実で自ら行った代表的な10万を超える大戦は明智光秀と行った山崎の戦い、又は山崎合戦と呼ばれる、信長が本能寺の変で亡くなり中国大返しを行い明智と戦う大戦と小田原成敗と言えよう、秀吉の戦には特徴があり戦になる前に相手側を誑し篭絡という調略を行い、それが出来ない場合に城攻めなどの長期戦に、それも無理な場合は最後の手段となる力押しでの戦手順が秀吉の特徴と言えた。
そして今回の関ヶ原は黒田官兵衛が不在での力押しでの大戦である、それも過去最高の兵数を従えての合戦であり相手は一度大敗している那須軍との決戦と言えた、秀吉の策は日数をかけての戦であり中長期戦を目論んでいた、それは秀吉なりに地の利を生かした策であった、関ヶ原の戦場より西側には琵琶湖の長浜がありそこには充分な兵站を運ばせていた、那須軍は既に領地を離れて一ヶ月以上をこの地で巻狩りなどの調練で野営を過ごしている、長期戦となれば兵数に差のある那須軍は知らず知らずに疲れも溜まり兵站にも問題が生じ力の差は歴然となると読んでいた秀吉、戦上手な那須家は侮れないが長期戦の経験が豊富な関白軍に有利と考えての念入りの馬防柵でもあった、しかし早くも四日目の早朝那須が仕掛けた。
「・・・え~い、煩い! 何事じゃ!! 何を騒いでおる! 誰かおらぬか?」
「はっ、如何やら夜襲です、馬防の柵辺りで敵襲であります!」
「馬鹿者、もう夜が明けておるではないか、夜襲では無い戦が始まったのじゃ!! 急ぎ甲冑の支度を致せ、儂が指揮を執る、見ておれ憎き那須の奴らめ!! 皆殺しじゃ!!」
半兵衛は予定通り戦の開戦を知らせる朝駆けに馬防の内側で陣幕を張っている陣地に向け弓矢で攻撃を仕掛けた、実際には距離もあり被害らしい被害は軽微であったが各所の陣幕を焼き払い混乱を誘うには充分な成果と言えた、関白側の兵数は充分にありすぎる程おり先に攻撃されるとは微塵も考えていなかった、先に攻撃された事で秀吉は半刻後に三成に国崩しの大筒を敵陣に向かって砲撃させる事に、しかし、その砲から戦場に響き渡らせた咆哮であるが結果は不明であった。
「ほう~あれが国崩しの大筒か? 何処を狙っているのであろうか? 遥か上空に弾が飛んでいるようだが、距離だけは大した物であるな!!」
「あれは出鱈目に砲撃しているだけでありますな、我らの部隊はとっくに引き上げておるのに今頃大筒を撃つとは、見せかけの攻撃であります、南宮山に向かって撃ったのでしょう、御屋形様の本陣があると装っておりますので山に撃ったのでありましょうか?!」
「では我らも何発か南宮山から撃っておこう、さすれば本陣に被害があったと思うであろう、樹木に覆われた山に砲撃しても滅多な事では被害は出ぬがその様な事も知らぬのであろう、で関白側もこれにて動きが出るであろうな、これからが戦の始まりぞ、半兵衛皆に下知をするが良い!!」
「はっ、既に手配済みであります、今頃は鋒矢の陣、十二神を組んでいる処でありましょう」
「半兵衛の言っておった干支の神将であるな、孔明の封印していた陣形と聞いておるが何故封印していたのじゃ?」
「諸葛孔明には秘事の陣形が幾つかありますが、この十二神将の布陣はやりたくでも出来なかったのです、これを行うには強き武将が12名必要になります、残念ながら蜀軍にはそれを行う武将が足りずに出来なかったと私は読み解いております!!」
「宮毘羅 伐折羅迷企羅 安底羅マニ羅珊底羅 因達羅 波夷羅 摩虎羅 真達羅招杜羅 毘羯羅という名で呼ばれておりますが要は12人の金剛なる武将が必要なのです、本来は円陣を組み12方向に攻撃できる布陣でありますが、敵数が多いので那須家のお家芸であります鋒矢の陣形で行います!!」
「うむ、最初聞いた時はくびら、ばさらとか何の名前を言っているのか解らなかったが干支の十二と聞いて理解出来たが、12神将の名前が鼠、羊などの名前で言っておったらやる気が起こらん、皆もがっかりするであろう、月氏の国の言葉の呼び名で良かった!!」
「正確には月氏の言葉ではありませぬ、月氏の言葉を真言が梵語に変化させ、それと陰陽が交わり12神将となった様です、陰陽も関係していたのか・・・見よ半兵衛!! 諏訪太鼓と烏山太鼓が配置に付いたぞ!! 榴弾砲の大筒も押しあがって来た、あと四半時であるな!!」
「忠義! 我らも参るぞ!!」
12神将の部隊を四つに分け、それぞれに3つの攻撃部隊組み込まれ編制された四部隊であり12名の戦神がいるという形に、12名に指揮権が与えられ状況に応じて臨機応変に戦える攻撃特化の部隊と言えた、言葉では簡単な解説で伝わるが戦場において自在に指揮権を与え戦える部隊は大変に珍しく12の部隊が那須資晴及び軍師半兵衛の策を充分理解していないと出来ない事である、那須軍にはアイン、ウインも武将として育っており12神将の部隊が出来上がっていた。
戦国期に武田信玄の配下に有名な武田24将という名前の重臣達が書かれた絵図がある、信玄を大将に含め書かれた絵である、所説似た話があるようだが、一つの大名に優れた武将が多く揃えた事例と言える、秀吉には戦で戦える自分で育てた武将が少ないと言えた、急激に大家となり膨らんだ軍勢の武将達は取り込んだ大名から編成された混成された軍である、それに対して那須軍は那須資晴の手元で育った武将達と言えた、その多くの者達の出自は元々は小さい家であり那須家が大きくなるに従い共に成長した者達である。
── 露払い ──
「部隊が整いました、御屋形様・・・田村殿が・・御屋形様が教えました巨大な拡声器を運んでおります、きっとあれで第一声をされるかと思われます((笑)) 」
「仕方ないのじゃ!! 田村殿が言う事を聞かぬのよ!! 露払いは田村家の役割であると言うて、田村の名である祖の征夷大将軍となられた坂之上田村麻呂様あっての田村家でありその恩恵を受けた東国の我らである、家こそ小さき者なれどその使命は大海の如し! 天下分け目となる此度の戦にこそ露払いに相応しい家は田村以外に無いと申して父上にまで直談判したのじゃ!! 仕方ない故、あの拡声器をまだ未使用の機材を貸し与えたのじゃ!! 儂もあれで声を張り上げたいのに先を越され事になったのじゃ!!」
「御屋形様の弟である資宗様の義父であり今では相馬家、岩城家まで手足のように差配しております、那須家では異色のお方でありますがあのお方のお陰で南部、最上、伊達まで睨みを効かしております、坂之上田村麻呂様の名前の前では誰も逆らえませぬ、この忠義であっても苦手なお方であります、ここは田村殿の露払いを見守りましょう!!」
「いや、実は儂も楽しみではあるのだ!! あの頑固爺の露払いという演出もこの戦には必要な事であろうと、見物である!!」
朝方の関白軍への攻撃を引き上げた後に那須軍は横並びに大きな五つの部隊編成の陣を築き中心には那須資晴が率いる本軍が配置された、当初南宮山に本陣を築いたがそれはあくまでも敵の目を縛る為の偽本陣としての陣地を作り上げ、南宮山は空本陣としており那須資晴は陣を那須側が支配する東側の中心地に移動していた。
秀吉側の三成が国崩しの大筒を南宮山に向け砲撃したがそこは空本陣であり意味の無い砲撃であった、那須側も南宮山にある大筒で数発の空砲を撃ち反撃したように見せかけその間に本戦の準備を整えた。
正面西軍の右端が常陸の将である佐竹義重の第一部隊、その隣第二部隊が弟の蘆名資宗《那須資宗》を将とする相馬、岩城を率いる部隊、中央が本軍第三部隊に山内一豊が那須本軍、その左側に柴田勝家を将とする第四部隊、南部、最上、伊達を率いる連合編成、一番端の左側に第五部隊の将、武田太郎と弟、諏訪勝頼から成る那須軍の配置となる、それぞれの部隊には各3から4の部隊が編入されており山内一豊の本軍には砲撃隊などの支援部隊も配列されている。
南部、最上、伊達の軍勢は此度初めて那須軍に参加する為、戦巧者であり蛇行突撃の技を会得した柴田勝家に差配させる事にした、勝家も那須家に最近仕えた身であり三家り者達の心情も理解が得やすいとの計らいからであった。
各陣の布陣を整え、巨大な拡声器を荷車で陣前方に運び入れ静まる戦場に煌びやかな装束を身に付けた武将が駒に乗りゆっくりと拡声器に向かって移動し始めた、駒に乗る人物とは勿論、田村家当主、田村清顕である。
駒の後には従者12名がこれまた荷車を押していた、その荷車には巨大な幟旗が翻っていた、幟に掛かれた文字は『征夷大将軍 坂之上田村麻呂 末裔 田村清顕 見参!』と大文字で書かれていた。
その立ち姿は堂に入り一幅の名画を演出しているが如きであった。
「見よ! 忠義! あの爺見事謁に入っておる中々出来ぬ事ぞ!! 田村家の魂を演じておる見事である!!」
『我こそは征夷大将軍 坂之上田村麻呂の直系なる末裔、田村清顕である、日ノ本に災いをもたらす逆賊となった豊臣秀吉及び賊軍に勧告致す! 平穏なる世を創らず欲望の為に朝鮮に出兵の奸計を計らい強権を持って兵を起すは日ノ本のこれ災い成り、挙句に平穏なる東国を武力にて支配しようとする幼稚なる奸計は東国の盟主、那須資晴様により既に喝破されていると知るが良い! 災いを治めるは征夷大将軍の役目成り! 我が声を聞くが良い、心に響く者は急ぎ剣を収め我が陣中に伏す也! 急ぎ駆け付けよ! さすれば征夷大将軍の名を持ってその身の安堵を約束せしめん!! 急ぎ急ぎ参られよ!! これより大逆徒となった豊臣秀吉を征夷大将軍の名を持って註罰致す、覚悟致せ!! 我の名は田村清顕である!!』
「言いおったぞ忠義! やりおったぞ!! これで儂の出番が無くなってしまったぞ!!」
「最後の我の名は田村清顕であるは不要なのでは無いでしょうか?」
「いや、最後のあれを言いたいために口上を述べたのよ!! 儂もあの言葉を言えるだけの大物になりたい者よ!! 大した御仁ぞ!!」
一通り口上を述べた後に扇を左右に振り合図を行った、その合図に合わせて諏訪太鼓と烏山太鼓の陣列が躍り出た、田村の合図に激しい太鼓が戦場に響き渡る!! 西軍は田村清顕の口上と次に太鼓による演出が始まった事に呆気に取られていた、自分達は何者と対峙しているのか? 逆賊としての立ち位置にいるのか? という不思議な感覚と知らずの内に那須の掌に乗っている感覚に支配されていた、戦場では戦が始まれば命の取り合いであり命が消えゆく絶叫に支配され己を失っていく、しかし、勝敗には不思議な感覚に包まれている時がある、勝ち戦に見えて知らずの内に敗北するのでは、このままでは命を失うと懸命に生き延びようとしている感覚に包まれている時がある、それは命を繋ぐ五感であり第六感が身の危険を訴えていると言って良い、西軍の武将達の顔色は血の気が引いていた、これから一体何が起こるのであろうか? と心が騒いでいた。
ついに開戦しました。
次章「関ケ原・・・4」になります。