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那須家の再興 今ここに!  作者: 那須笑楽
299/331

299 秀吉




── 秀吉 ──



農民の子が日ノ本頂点までのし上がった豊臣秀吉、しかしその出自については確かな物は無く後に書かれた関白としての箔を付ける為の偽りの経歴が多いとされる、母親の名前は仲、実母で後の大政所である、そして諸説の中で御伽衆が書いた『天正記』にはこう書かれている、母親である大政所の父は「萩の中納言」であり、大政所が宮仕えをした後に生まれたと記述しており、天皇の落胤であることが仄めかされいる、要は大政所は天皇の落胤によって生まれた母という事を示唆されている、他にも似た様な事を記載した擬似資料が現存している、しかし仲は根っからの百姓であり文字の読書きも晩年に覚えている。


母親は実在した仲であるが父親の資料が見当たらず名前だけが木下弥右衛門と説が紹介されている、仲の再婚相手となる義父の名前は竹阿弥、これは弟秀長と妹あさひの実父として存在している、義父となった秀吉とは仲が悪いとされている。


秀吉は色々な諸説が混在しているが再婚して出来た義父との仲が悪く子供頃より家の農家の手伝いをせずに放浪していたという説が多く見受けられる、何故義父との仲が悪かったのか?


義父の名前から判断すると竹阿弥という名前は出家者が名乗る法号、仏門に関係する名前である、阿弥とは阿弥陀仏を信仰する者達であり名前として名乗る以上秀吉の義父となった竹阿弥は出家者であろうと、要は僧であったのではないか、何故僧侶と仲が結びつくのか?


これは想像でしかないが実に貧しい戦国期、寺院を持たぬ僧が食べて行く為に、貧しも僧侶として托鉢をしていた仲と知り合い、庇護した事で再婚したのでなかろうかと、この時代の背景を考えればそれが自然ではなかろうかと、曲がりなりにも僧侶と言う知識階級の義父と秀吉、放蕩癖のある秀吉との関係は悪化して行くの、その姿は目に浮かぶ。


秀吉が一時期今川家に仕えていた時期がある、当時の今川家は東海の覇者という戦国を代表する大家であり格式の高い家であり浪人者に取って侍になるには憧れの家と言えよう、どのような伝で仕えたのかは不明だが、引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(加兵衛)、今川家の陪々臣(今川氏から見れば家臣の家臣の家臣)に仕えたが間もなく放逸している、私見だが出自が百姓という事で今川の格式が何かと秀吉に取って気にくわぬ事があったのではないかと思う。


エピソードとして有名なのが針売りをしていた秀吉が小六と出会う話が、秀吉は手持ちの金を針に変え針売りとして行商を行います、日々腹が減っては針を売り、寝るところがなければ適当な場所で雨露を凌ぎそして針を売り歩き放浪生活を続ける、そんな時、矢作橋の上で野武士の蜂須賀小六正勝に会い、小六との縁が生まれる話は有名ですが如何やらこれは後付けされた話で嘘のようである、当時の資料には矢作川に橋は無く橋が出来たのは家康が天下を取ってからであるとの事だ、但し秀吉が実際に針売りをしながら行商していたのは正しい様である。


同じ系列の話で嘘の話がもう一つある、針売りをしている時に信長に会いそれがきっかけで織田家に仕えるという話である、残念ながらこの話も後付けされた話の様である、では秀吉が織田家に仕える事が出来た経緯は何であったのか? 秀吉は針売りの後に信長の妾のよしのという女の家で下男をしている、そのよしのの紹介で家来になったという話があります、側室のよしのとは信長にとって最愛の側室と言われている生駒吉乃かと思われる、その側室に仕える下男として気が利く小者として秀吉を信長に紹介したという話である、他にも有名なのが知人の紹介で信長の草履取りとして召し抱えられたという説が紹介されており良く知られている、色々な研究家が秀吉がどうやって織田家に仕える事が出来たのかと言う事を調べている様だけど諸説がありすぎて結論は出ていない。


経緯はともかくとして秀吉が出世する天運とも言える織田信長に巡り合えた事は特大な宝くじで一等を当てた以上の幸運であった事は間違いないと言える、では何が秀吉を朝鮮出兵などと間違った方向に舵を取り進み始めたのか? その理由の一つに秀吉の出世街道が早すぎたという事では無いか説がある?


皮肉にも秀吉には秀でた、いや秀で過ぎた才能があった事で功を建て、信長は目立つ形で出世させる事で勝家や他の重臣達に刺激を与え信長の躍進を支えるモデルケースにした事は前例にとらわれない信長の懐の深さではあるが、それがいつしか勝家と並ぶ所まで登らさせてしまった事で勝家と反目してしまう、家老の末席あたりで留めていれば信長亡き後の落ちぶれた織田家には至らなかったであろう。


秀吉の根っ子は百姓の子であり戦国期の貧しい幼少期、少年期からは家を飛び出し放浪してのその日暮しであっであろう、青年期は武士になる事を目指し仕官先を求め辿り着いたのが信長という偉人であった、主家を失った代々武士の浪人達も秀吉と同じ様に仕官先を見つけてはどこかの家で仕えるケースと同じではあるが決定的な違いは根っ子の部分であり主家に仕えるという、自分の命を主家の為に使うという覚悟が秀吉と浪人達との差が豊臣家の命運を左右したのではなかろうか。


秀吉は誰よりも出世欲に憑りつかれ手柄を求め勝ち抜き確かに天下人になったが、秀吉に付き従う者達も手柄を立てる事で途方もない領地を頂け、不運にも実直ではあるが活躍出来ない者との差は大きく広がり石田三成が仕掛けた関ヶ原では秀吉の親族であっても結局裏切られ家康に大敗し滅亡の道を歩む、主家の為に命を使い全うする侍こそこの時代求められていたのでは無いか、いろいろと私的な勝手な意見を述べてたが、史実と違う敵は秀吉が率いる西軍と那須を中心とした東軍の関ヶ原合戦がいよいよ現実となる、秀吉が朝鮮出兵に伴い大阪を出陣すれば、それを待っていた那須が大阪に向け進軍を開始した、時は1590年5月初旬。



── 一寸の眼 ──



名護屋で朝鮮出兵準備追われ忙しく動き回る秀吉の下に火急とも言える緊急の報が3通が次々と届く、一つは大阪城にいる正室ねねからと、京都所司代、最後は伏見城からであった。


ねねからは那須の軍勢が大阪に向けて進軍を行っており間もなく城に到着するという報告が入ったと言う異変が起きたと言う内容、京都所司代からは内裏が那須の軍勢によって包囲された事と、大阪城と伏見城にも那須の軍勢が現れたと言う内容が、そして最後の伏見城からは那須の軍勢に包囲され、城を開城するように勧告を受けたが拒否した事と籠城に向けて戦準備をするという緊急の文であった。


三通の文全てに那須が関係しており大阪を留守にした隙を狙われたと秀吉は判断した、そこで名護屋に集結している重臣達を急ぎ集め評定を開く事に、西国の重臣達も只ならぬ事態が生じたと大阪の事が漏れ伝わる中評定が開かれた。


次々と集まる重臣達、広間には既に関白秀吉が床几に腰を掛けており室内は異様な空気が漂っていた。

異様な空気を出しているのは秀吉に間違いないが、その目つきが見た事も無い黒く変色しており、例えれば死人が亡くなる間際に憎しみを込めた眼に変化していた。


日蓮尊者の有名な言葉に『人の身の五尺・六尺のたましひも一尺の面にあらはれ

一尺のかほのたましひも一寸の眼の内におさまり候 』という言葉ある、余談だが私が初めて就職した学生時に教えて頂いた言葉で、この会社に入るぞ、頑張るぞという気持ちは眼に現れるから面接官の目をしっかり見つめて元気よく返事をしろと教えて頂いた言葉であった、三流大学出の自分ではあったが当時12社の会社と面接したが不思議と12社全てから内定を頂いた、その時の事は今も忘れられない不思議な体験だった。


人間の、その人の状態は顔に現れ、その状態の集約は人の魂は眼に宿るというような内容であり眼を見ればどのような状態なのかが判るという、面接官も会社の人材を見極めるプロであり、医師が患者の目を確認するのも似た様な事であろうと思う。


眼は人体の中で感情や健康状態を表すバロメーターの一つとされています、眼は心の窓という言い方で説明する方もいます、よくある話にあの人に好きな人が出来たかも? 或いは恋人が出来たかもという話は何処を見て判断しているのか? 勿論服装や化粧の変化もあるが一番最初に変化が生じるのが瞳孔の変化だそうだ、恋人や好きな人の側では瞳孔が大きく成り輝くという変化、反対に瞳孔が縮まり光を失う場合は嫌いな人が側にいる場合など、心の状態が直ぐに眼に現れる。


最近の研究では瞳孔の変化で心理状態の判別、嘘かどうかの判断もAIで判別できる技術が進んでいるようである、特にその判別機能が優れているのは奥様方であろうと、事実私の嘘は簡単に妻に見抜かれてしまう。



評定の間に西国の重臣一同が控える中、じっと一点だけを見つめ何も語らぬ秀吉、緊張した空気が支配する中やっとの事で秀吉の口が開いた。



「那須がこの関白を欺き大阪に攻め入った・・・・許さん・・・八つ裂きにせねばならぬ・・・この儂を欺きした罰は身体を引きちぎり頭蓋を粉々にせねばならぬ・・・そうであろう皆の者!!・・・」



「毛利は如何思う?」



「ででで・・殿下を裏切るとは許せませぬ!!」



「島津はどうじゃ?」



「天罰を与えねばなりませぬ!!」



「そうであろう・・・帝の御前で磔にせねば示しがつかぬ、帝の許しを得て我らはここに集まったのじゃ、それを良い事に西国の者達を裏切るとは・・・これより軍議を開く、那須を八つ裂きにしてから朝鮮に向かう、な~に! 順序が逆になっただけよ!! 三成!!軍議を進めよ!!」



「はっ、殿下の命によりこれより軍議を行います、これより大阪にいる那須に攻め入る策を計ります、では皆様より策があれば何なりとおっしゃって下され!!」



「那須が動いたと言う事は小田も北条も動くと見るべきかと、先ずは我らはどの道を使い大阪に戻るのかを決めなくてはなりませぬ、早く戻るには船が宜しいかと、幸いな事に船は多数あります!!」



「うむ、良い案じゃ!! で何処に向かう? 敵にも大船がある大阪湾には入れぬであろう!」



「某九鬼が思うに、敦賀又は小浜であれば良いと思いますが、しかし上杉の事を考えれば我らの船はその手前の舞鶴が宜しいかと、そこであれば京に行く道もあり、舞鶴から京に行く道と神戸に向かう道があります、大軍でありますので二手に分けて進むが宜しいかと!」



「それも良い案じゃ!!」



「他にはありませぬか?」



「我らは20万以上軍勢であります、もう一隊分けて進軍しませんと渋滞となります、毛利殿の村上水軍を使えば内海であれば姫路に行けるかと、さすれば全軍が一度に大阪に迎えるかと思われますが!!」



「陸路は使わずに一気に全軍が行ける訳であるな! 実に良い案じゃ!!」



「一気に20万もの軍勢が大阪に行く事が出来れば、先ずは大阪を囲む敵兵を蹴散らせる事が出来る、既に朝鮮に向けて準備を整えていた処じゃ、5日もあれば準備は出来よう、これより6日後に全軍で出立致す、兵員配置を皆と計れ三成!! 手抜かり致せば容赦はせぬ、心してかかれ!!」



いよいよ秀吉による関ケ原合戦が、三成ではなく秀吉が大将となった西軍を率いる大戦が始まります。

次章「関ケ原・・・1」になります。

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― 新着の感想 ―
[一言] 秀吉の御落胤伝説は関白になる為の策だからねぇ〜、それよりもルイス・フロイスの手記にもあるとされる、「伊勢の男」「尾張の姉妹」秀吉の弟妹達を自分の経歴が汚れるとして弟と姉妹に至っては親戚一同斬…
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