297 関ヶ原・・進軍
史実における関ヶ原の戦いは、安土桃山時代の慶長5年9月15日(1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。
豊臣秀吉の死後に発生した豊臣政権内部の政争に端を発したものであり、徳川家康を総大将とし福島正則・黒田長政らを中心に構成された東軍と、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家・石田三成らを中心に結成された反徳川の西軍の両陣営が、関ヶ原での戦いを含め、各地で戦闘を繰り広げた。
この戦役の結果、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、秀吉没後の豊臣政権を構成していた五大老・五奉行体制は崩壊し、家康の権力掌握は徳川氏を中心とする江戸幕府の成立に繋がり、幕藩体制確立への道筋が開かれることになった。
何故関ヶ原合戦が行われたのか、一つの要因として朝鮮出兵時の豊臣家臣団内部の対立があげられる。
慶長・文禄の役の際、石田三成・増田長盛を中心とした奉行衆と加藤清正・黒田長政らを中心とする渡海軍諸将との間に発生した作戦方針・軍功を巡る対立が、関ヶ原の戦いの主要因とする説、この対立関係は、豊臣政権において主に政務活動を担当した文治派と、軍事活動に従事した武断派との対立を含んだものともされる。
他にも豊臣秀次切腹事件による豊臣家及び豊臣家臣団の確執。
文禄4年(1595年)6月に発生した豊臣秀次切腹事件の影響を受けた諸大名と、豊臣秀次粛清を主導した石田三成との間の対立関係が抗争の背景にあった説である。
家康と上杉景勝との間に起きた不信が最後決裂したとされる直江状説では。
一、東国についてそちらで噂が流れていて内府様が不審がっておられるのは残念なことです。しかし、京都と伏見の間においてもいろいろな問題が起こるのはやむを得ないことです。とくに遠国の景勝は若輩者ですから噂が流れるのは当然であり、問題にしていません。内府様にはご安心されるよう、いろいろと聞いて欲しいものです。
一、景勝の上洛が遅れているとのことですが、一昨年に国替えがあったばかりの時期に上洛し、去年の九月に帰国したのです。今年の正月に上洛したのでは、いつ国の政務を執ったらいいのでしょうか。しかも当国は雪国ですから十月から三月までは何も出来ません。当国に詳しい者にお聞きになれば、景勝に逆心があるという者など一人もいないと思います。
一、景勝に逆心がないことは起請文を使わなくても申し上げられます。去年から数通の起請文が反故にされています。同じことをする必要はないでしょう。
一、秀吉様以来景勝が律儀者であると家康様が思っておられるなら、今になって疑うことはないではないですか。世の中の変化が激しいことは存じていますが。
一、景勝には逆心など全くありません。しかし讒言をする者を調べることなく、逆心があると言われては是非もありません。元に戻るためには、讒言をする者を調べるのが当然です。それをしないようでは、家康様に裏表があるのではないかと思います。
一、前田利長殿のことは家康様の思う通りになりました。家康様の御威光が強いということですね。
一、増田長盛と大谷吉継がご出世されたことはわかりました。たいへんめでたいことです。用件があればそちらに申し上げます。榊原康政は景勝の公式な取次です。もし景勝に逆心があるなら、意見をするのが榊原康政の役目です。それが家康様のためにもなるのに、それをしないばかりか讒言をした堀監物(直政)の奏者を務め、様々な工作をして景勝のことを妨害しています。彼が忠義者か、奸臣か、よく見極めてからお願いすることになるでしょう。
一、噂は上洛が遅れているから生まれたことでしょうが、実際は今まで申し上げたとおりです。
一、武器についてですが、上方の武士は茶器などの人たらしの道具をもっていますが、田舎武士は鉄砲や弓矢の支度をするのがお国柄と思っていただければ不審はないでしょう。景勝が不届きであって、似合わない道具を用意したとして何のことはありません。そんなことを気にするなんて、天下を預かる人らしくないですよ。
一、道や船橋を造って交通の便を良くするのは、国を持つ者にとっては当然です。越後国においても船橋道をつくりましたが、それは(自分達が)国に移って来た時に全然作られていなかったからで、堀監物は良くご存知のはずです。越後は上杉家の本国ですから、堀秀治ごときを踏みつぶすのに道など造る必要はありません。景勝の領地は様々な国と接していますが、いずれの境でも同じように道を造っています。それなのに道を造ることに恐れをなして騒いでいるのは堀監物だけです。彼は戦のことをまったく知らない無分別者と思ってください。謀反の心があれば、むしろ道を塞ぎ、堀切や防戦の支度を整えるでしょう?あちこちに道を作って謀反を企てたところで、大人数で攻められた護りようもないじゃありませんか。いくら他国への道を造ろうとも、景勝も一方にしか軍勢を出せないというのに、とんでもないうつけ者です。江戸からの御使者は白河口やその奥を通っておられますので、もし御不審なら使者を下されて見分させてください。そうすれば納得されるでしょう。
一、今年の三月は謙信の追善供養にあたります。景勝はその後夏頃お見舞いのために上洛するおつもりのようです。武具など国の政務は在国中に整えるよう用意していたところ、増田長盛と大谷吉継から使者がやってきて、景勝に逆心がなければ上洛しろとの家康様のご意向を伝えられました。しかし、讒言をするものの言い分をこちらにお伝えになった上で、しっかりと調べていただければ、他意はないとわかります。ですが逆心はないと申し上げたのに、逆心がなければ上洛しろなどと、赤子の言い方で問題になりません。昨日まで逆心を持っていた者も、知らぬ顔で上洛すれば褒美がもらえるようなご時世は、景勝には似合いません。逆心はないとはいえ、逆心の噂が流れている中で上洛すれば、上杉家代々の弓矢の誇りまで失ってしまいます。ですから、讒言をする者を引き合わせて調べていただけなくては、上洛できません。この事は景勝が正しいことはまちがいありません。特に景勝家中の藤田信吉が7月半ばに当家を出奔して江戸に移った後に上洛したということは承知しています。景勝が間違っているか、家康様に表裏があるか、世間はどう判断するでしょうか。
一、申し上げるまでもありませんが、景勝に逆心など全くありません。しかし、上洛できないように仕組まれたのでは仕方ありません。家康様の判断通り上洛しなければならないことはわかっています。このまま上洛しなければ、太閤様の御遺言に背き、起請文も破り、秀頼様をないがしろにすることになりますので、たとえこちらから兵を起こして天下を取っても(逆に言えば「戦っても勝てる」と暗喩)、悪人と呼ばれるのは避けられず、末代までの恥辱です。そのことを考えないわけはありませんので、どうかご安心ください。しかし讒言をする者を信用され、不義の扱いをされるようではやむを得ません。誓いも約束も必要もありません。
一、景勝に逆心があるとか、隣国で会津が攻めてくると言いふらし、軍備を整えるのは無分別者のやることです。聞くまでもありません。
一、家康様に使者を出して釈明するべきとは思いますが、隣国から讒言をする者、家中から藤田信吉が出奔するような状況では、(家康様も)逆心があると思われているでしょう。そこに使者など出しては表裏があると噂されるでしょう。ですから讒言をする者を調べられなくては、釈明などできません。我々には他意などありませんので、しっかりお調べになれば我々も従います。
一、遠国なので推量しながら申し上げますが、なにとぞありのままにお聞き下さい。当世様へあまり情けないことですから、本当のことも嘘のようになります。言うまでもありませんが、この書状はお目にかけられるということですから、真実をご承知いただきたく書き記しました。はしたないことも少なからず申し上げましたが、愚意を申しまして、ご諒解をいただくため、はばかることなくお伝えしました。侍者奏達。恐惶敬白。
直江山城守 兼続
慶長 四月一四日 豊光寺 侍者御中
秀吉が亡くなった後の家康はそれ以前の家康では無く、別人と考えた方が理解しやすいとされる、幼少時(6才)より人質となり今川義元、織田信長、豊臣秀吉にと50年間に渡って頭を抑えられ自分のカラーを出せなかった家康、秀吉が亡くなってから約2年後にこの関ヶ原合戦が起こる、僅か2年で東軍を作り上げた手腕を考えれば如何に覚醒した2年間の集大成がこの戦いである。
一方三成はどうだったのか?
秀吉が亡くなってからの三成は家康を除く五大老を中心に反家康派作り、何かにつけて家康に対抗心を燃やし前田利家をけしかけ家康を罠にかけようとしたりの動きに終始する2年間を過ごす、この時三成が武断派と呼ばれる者達にこれまでの態度を謝罪し秀頼公を守るために力を貸してくれという心の籠る姿勢を示していれば別な道が開かれていたと、が、しかしである、三成と言う人物は己の力量を過信し、武力一辺倒の者には馬鹿にした尊大な態度で接し、他者を見下すパワハラな愚か者であったと言うしか説明のしようがない。
人は生きて来た道程を経て折り返し終末を迎える、三成は決して義士とは違う、むしろ豊臣家を滅亡に追いやった張本人ではなかろうか!? と。
── 進軍 ──
1590年4月中旬、京都伏見城に関白本軍が集結し帝出席のもと派手な壮行会が行われた、秀吉は金ピカ一色の鎧兜に覆われ、本軍兵士達も鎧の上に派手な羽織を着飾っての行進、それを見送る群衆も10万を超える大盛況となった、秀吉は帝の前で止まり起請文に書かれた誓紙を読み上げた、内容は帝の忠 豊臣朝臣秀吉が帝に成り代わり朝鮮の民を臣下とし安寧な地とするなどいかにもという理由を付けて自分こそが帝の忠臣であり最大の功労者であるか如きの起請文を読み上げ、一礼して一路九州に出発した。
朝鮮出兵に向けての前線基地となる名護屋城は九州の諸大名に命じ僅か半年余りで完成させたとされる、周囲には100以上の諸大名の陣屋敷、20万人以上が集結できる巨大な城が名護屋城を現在の佐賀県唐津市の名護屋という地に造られた。
秀吉が出兵に向けて進軍を開始したとの報告を受け那須軍はその10日後に小田原に向けて総陣触れを行い8万5千の兵が進軍を開始した、この9万5千には伊達、最上、南部の兵1万5千も参加して進軍となった、伊達、最上、南部は臣従こそしてはいないが、那須家がいろいろと庇護をしており領土拡張の為の戦を行わない条件で新しい田植えを教え、とうもろこしの普及などで充分な恩恵を受けていた、東国が自治権を得て秀吉に従う事無く政に専念出来るなどそれこそ感謝している立場であり此度の戦の事を聞き三家の精鋭1万5千が共に参戦する事になった。
その陣容は那須資晴本軍6万、弟 蘆名資宗軍1万5千、蝦夷5千、伊達連合1万5千、合計9万5千でありここには武田太郎1万5千と別動隊の明智十兵衛5千は含まれてはいない。
「御屋形様! 以前聞いておりました陣容より兵数が多いかと思われますが?」
「それがのう、半兵衛の処に参戦させろ直訴が多数あってのう、軍師が許せば参戦出来ると思うて増えたのじゃ、止める訳にもならんし何時の間にか1万以上増えてしまった! というか芦野家も増えてるでは無いか!?」
「・・・いやあれは荷駄隊が・・・含まれておりまして・・・」
「まあー良い、我ら那須家が秀吉と正面からぶつかるのじゃ、向こうは倍じゃ、こちらが少々増えても大丈夫であろう!!」
「此度は最初こそ三家の皆様に参戦の依頼をしましたが、何故に北条家と小田家に関ヶ原合戦の参戦を御頼みしなかったのでありましょうか?」
「まあー簡単な話よ! 同数の兵であれば秀吉とて色々と思案するであろう、何しろ敵地じゃ、北条殿と小田殿には全く別の事をして頂く、何しろ逃がしは成らぬのでな、完勝しなくては成らぬという事じゃ!」
「では此度も半兵衛殿はあの五丈原という詩吟を又もや再現するのでありましょうか?」
「あ~あれは、半兵衛は歌の音色が外れておる、それに今回は百合と梅まで儂の面倒を見ると五月蠅くて一緒に来ておるので止めさせた、あれをやられると何故かこちら側が危機に陥っているのではと錯覚するのでやめさせたのじゃ!!」
「お~それは大賛成であります、蜀の命運が尽きようとして諸葛が憂いて作られた詩であります、私もそう感じておりました!」
「それよそれ! そして音色が外れた下手な詩吟を披露されては天下分け目の亀裂が台地に走る、戦の軍配は預けて戦う詩は止めるよう申し付けたのじゃ!!」
「ほう!! で、納得されましたでしょうか?」
「なにやらほくそ笑えんでいた『我に策有り』とか言っておった!!」
「・・・策とはなんでありましょうか?」
「儂にも判らんが、派手な事でも考えているのでは在るまいか?」
なにはともあれ、天下分け目の関ヶ原合戦に向けて進軍を開始した那須軍であった。
どんな戦いが舞っているのか? 私にも判りません。
次章「大評定」になります。




